第三章 新たな爪痕 <4>
近くで聞いて、事情を察したらしい両親は千穂の背中を支えるように立って、顔に憂色をたたえている。
「どうしよ、由貴ちゃん、いなくなったんだって」
千穂はとても心細い気持ちになって倒れてしまいそうになる。それを見かねてか、母が励ましてくれた。
「大丈夫よ。どこかで変な事件が起こったなんて聞いてないわ。きっとどこかで友達とでも遊んでいるのよ。その内に元気な顔で戻ってくるわ」
「でも……でも、連絡が取れないって変じゃない?」
「それは、きっと携帯の電池が切れていることに気がついてないのよ。よくあることだわ」
「よくあること、かな?」
千穂は楽観的に捉えようとしたが、胸の奥からふつふつと湧き上がってくる黒い予感は到底無視できる類のものではなかった。
すぐに俯いてしまう。
「塾はどうする? 行くの?」
「ごめん、お母さん。こんな状況じゃ、そんな気分になれない」
「そう、それじゃ無理に行くことないわ。家にいなさい」
母は寛容だった。塾に無理強いして行かせようとはせず、千穂の感情を優先してくれた(おそらくそのまま行かせても勉強に身が入らないと、考えたのだろう)。
「……うん」
力なく頷いて、部屋に戻る。
扉を閉め、それから周りを遮断するようにカーテンも閉めた。机と本棚の開いた僅かなスペースに腰を下ろし、頭上を通過する雷雲が早く通り過ぎていくのを祈るような気持ちで、足をぐっと引き寄せた。
足元には、去年の誕生日に買ってもらった携帯電話を置く。試しに電話帳に登録されている藤咲由貴のアドレスを開き、電話をかけてみた。
「――――」
無常な呼び出し音がしばらく鳴った後、女性の声で繋がらないことへのメッセージが入る。
やはり、無駄なようだ。
無意味かもしれないが、居ても立ってもいられず、メールを送った。
連絡が欲しい、という内容の文面を打ち、送信する。そのまま眼に見えない電波となって、宙に消えた千穂の思いは彼女に届くのか、分からない。
膝と膝の間に顎を置いて、長いため息を吐く。
千穂はそれまで一緒に過ごすことの多かった親友が突然居なくなるという、未曾有の危機に直面していた。考えたくなくても、最悪の状況というものが脳裏をよぎる。
もしそうなれば自分はどうなるかなど、分かるはずもない。
全てのことへの気力が失せ、まるで自分は座り込んだまま石像のように動けなくなるのではないか、という錯覚にも陥りそうになっていた。
由貴のことを思い出していた。
彼女は少しきりっとした顔立ちが特徴で、ちょっとボーイッシュな恰好の似合う明るい女の子だった。千穂とは違い、何か自分に考えがあれば率先して主張できるタイプで、面倒見もよく、皆から好かれている。優しい子だ。
千穂には目を閉じさえすれば、あの快活な話し方を思い出すことができる。
「絶対、だかんね」
「約束だかんね」
と、何かと語尾に「だかんね」を付けるのが、彼女の口癖だった。
そういえば、最初に仲良くなったころはその口癖がとても新鮮だったなあ、と千穂はしみじみと思う。自分の周りでそんな言葉の使い方をするのは彼女くらいだったためだ。
彼女とは中学の頃からの付き合いなのだが、最初のクラスで初めて隣の席になったのが彼女だった。
控えめに、ぽつりぽつりとしか話せない千穂に、彼女はきっぱりはきはきと明確なものの言い方だった。一見噛みあってないような自分たちだが、意外にもとても相性が良かった。
彼女があれこれと話し、千穂が二、三言返す。会話にもバランスがあるとすれば、もしかすると、自分たちの会話はそれでバランスが取れているのではないかと思った。会話の割合が一定で守られているような気がするのだ。
そうして毎日が過ぎていき、数ヶ月が過ぎたとき、彼女が言ってくれた印象的な言葉があった。どんな流れでそんな言葉がでてきたのは覚えていないが、友人たちとの会話の中で、
「だって、私と千穂は友達だかんね」
そう言ってくれた。
あのときは嬉しくて千穂も強く頷き返したのを覚えている。
彼女の言葉の当たり前のようなニュアンスがすっと体の中に解けるように流れ込んできて、ほっとしたぬくもりを感じさせてくれた。
これが、彼女とのつながりの証かな、と千穂は隠れてこっそりはにかんだものだ。
そして、それは今でも千穂の心の中できちんと息をしている。そう信じている。
「由貴ちゃん……」
しかし、今、彼女はいったいどこに居るのだろう。早く戻ってきて、また元気な声を聞かせて欲しかった。
まさか、このままお別れなんてことはないよね。
それから、しばらくか経ったとき、ふいに携帯電話が鳴った。
「あ!」
すぐさま液晶画面を見て、名前を確認するが、それは由貴からのものではなかった。しかし、その代わりに映し出された名前はよく知っている人物からのものだった。
メールの着信である。
もしかすると、由貴に関することだろうか。
そう思った千穂は内容を確認しようと迷わずボタンを押していた。