第三章 新たな爪痕 <3>
広国高校一年の檜山千穂が事件のことを聞いたのは、寝坊した土曜日の朝のことだった。
通っている塾には午前九時には到着していなければならないのに、千穂が目を覚ましたのは、その二十分前だった。
少人数制で、教師による行き届いた一人一人への指導を売りにした個人経営の塾で、そこへは千穂の家から少なくとも自転車で二十分はかかる。
つまり、計算上、起きた瞬間に家の前にとめてある自転車に飛び乗り、行って来ますと手を振り、ペダルを漕ぎ始めないと間に合わない時間だったのだ。
時計の針を見て、千穂は愕然としている。
「ああもう、私の馬鹿、馬鹿ぁ」
ぽかぽかと自分の頭を叩きながら飛び起きた。
昨日、きちんとセットしようと思っていた目覚まし時計はその機能が作動した様子はなかった。
昨夜は机で勉強しながら眠くなり、そのままベッドに入ってしまったせいだろう。
忘れないようにと、メモ用紙をデスクライトのスイッチの横に貼り付けていたというのに。
とんだドジを踏んでしまった。
千穂はどたばたと部屋の中を歩き回り、塾のテキストや筆記用具をカバンに入れていく。
残されている時間などない。
しかし、
「あれ、数学のテキスト、どこに行ったっけ?」
千穂の手が止まる。
確か、机の横のラックの中に塾のテキストは置いていたはずなのだが、数学だけが見当たらないのだ。
「昨日、使ったときはきちんとここにあったのに」
それがなければ、授業に行っても問題を解くことが出来ない。
「ど、どうしよう。どこに置いたのかなあ」
焦った千穂は必死になって、机の引き出しや本棚、ベッドの下の隙間を探すが見つからない。心当たりの場所は全部探したつもりだった。
そうして諦めかけ、覗いたカバンの中になぜだか最初から入っていたことに気づく。どうやら、何を思ったのか、前日数学のテキストだけをその中に入れていたらしい。
両肩から力が抜ける。
「何で、なんで、私、何してるんだろ……」
自らの不可解な行動に腹が立つやら、情けないやらで千穂はもう泣いてしまいそうだった。これでまた余計な時間を食ってしまった。
慌てて、部屋の外に飛び出し、母親を呼ぶ。
「お母さん、塾に遅れそうだから車で連れてってくれない?」
返事を待っている暇はない。すぐさま部屋に引き返し、タンスから今日着る服を取り出した。
しかし、シャツに腕を通そうとしたとき、今度は探し物をして散らかった床のノートに足を滑らせ、派手に転ぶ。
どてん、と大きな物音と共に背中を打った。
目の前に火花が散る。
「いたた……」
しばらく痛みに悶絶し、起き上がる気力も起こらなかった。
こうも連続で失敗してばかりだと、だんだん、塾などどうでもよくなってきた。正直、どうしてこんな日に塾があるの、と言い掛かりのような不平も言ってみたくもなった。
物音を聞いて驚いたのか、母親が部屋の扉を開けた。散乱した部屋の中で転がった千穂を見て、目を丸くしている。
「何してるの? 大丈夫?」
駆け寄ってきて、千穂を抱き起こしてくれた。
「ちょっと、バランス崩しちゃって」
「もう、いつも気をつけなさいって言ってるでしょう。千穂は昔からそうなんだから」
母の言葉が彼女の心にチクリと刺さる。
そうなのだ。千穂は昔からそそかっしくて、へまをよくやらかす。注意が足りないとか、天然だとか、周りはそう言って笑われるし、ちっとも嬉しいだなんて思ったことはない。
自分は駄目な人間だと、そう思っていた。そうだからこそ、人前ではいつも引っ込み思案で、おどおどしているのが普通だった。
誰からも頼りになんてされたことはないし、迷惑をかけてばかりだ。
今だってそう、母に心配をかけている。
「大丈夫だから、これくらい平気。それよりも塾に行かないと」
千穂は元気なところを見せようと立ち上がり、軽く屈伸運動をした。
「本当に?」
「本当だってば」
すると、どこからか電話のコール音が小さく聞こえてきた。どうやら、階段の下で固定電話が鳴っているらしい。
「はい、もしもし檜山ですが」
父が受話器を取ったようで、くぐもった話し声が聞こえてくる。
「え? はあ、お宅の娘さんが?……ええ、いますが、電話を代わりましょうか?」
千穂、電話だ。
階下から自分を呼ぶ父の声が聞こえてきた。
「はーい、今行きます」
千穂は、もしかすると今日の塾の講座が臨時で休講となった連絡かもと、淡い期待を抱き、階段を下りていった。
しかし、父から代わってもらった受話器から聞こえてきたのは、それよりも何倍も急を要することだった。
「ああ、千穂ちゃん? どうも、藤咲由貴の母です」
「え、由貴ちゃんのお母さんですか?」
てっきり、友人本人からだと思っていたので肩透かしを食らう。
「どうかしたんですか?」
「それがね、ちょっと困ったことになっているの?」
「困ったこと?」
「ええ、千穂ちゃんのところに由貴が来てないわよね?」
これはどういう意味だろう?
「いえ、来ていませんけど」
「やっぱり? ううん、いったいどこに行ったのかしら。実は、昨日から由貴が家に戻ってきていないの」
その深刻な声に千穂は二の句が継げなくなる。まさか、そんな内容を伝える電話だとは思わなかったのだ。
「ほ、本当ですか?」
千穂の頭から塾のことが吹き飛んだ。
「うん、携帯電話にかけても繋がらなくて、今、友達の家に片端から連絡をしているんだけど、どこにも居ないって」
「……そうだったんですか」
「千穂ちゃん、昨日、あの子に会わなかった?」
「えーっと、えっと」
千穂は動転している気持ちをどうにか落ち着けようと深呼吸して、記憶を呼び出した。一昨日の学校の記憶。
由貴とは同じクラスなので、もちろん、その日も朝から顔を合わせていた。教室に入って挨拶をしたのを覚えている。特にいつもと同じで、むしろどこか元気なほどだった気がする。
そして、授業を受けた後は、昼食も一緒に食べたし、午後の授業も相変わらず眠たそうな目をこすりながら先生の話を聞いていた。
放課後には途中まで下校し、分かれ道で別れたことまでは覚えている。
「下校したところまでは一緒でした。でも、その後は知りません。そのまま帰宅する方向に向かって行ったので、寄り道はしていないと思いますけど」
「そう……、やっぱり下校したのは確かなのね。じゃあ、どこかあの子が行きそうな場所に心当たりはある?」
「行きそうな場所……」
「どんな瑣末な情報でもいいの、知らない?」
千穂は彼女とよく行く場所なら覚えていた。踏み切りを越えたところにあるコンビニ、商店街の端にあり、おいしいと評判のクレープ屋、街中のカラオケに行ったこともある。そう言えば、ときどき一緒にゲームセンターにも行ったこともあった。千穂はそれほど興味はなかったが、由貴はそういう場所が好きだと言っていた。
千穂がそのことを彼女の母親に話すと、
「……そう、分かったわ」
とあからさまに落胆の色が窺える声でそう言った。どうやら、伝えた場所はすでに探したようだった。
「すいません、お役に立てなくて」
千穂は謝る。
「ううん、そんなことはないわ。ともかく、話を聞かせてくれてありがとう」
不安を見せないようにか、彼女は受話器の向こうで明るく言ってみせた。
「全く、いったいどこで油を売っているのかしらね。のこのこ帰ってきたら怒鳴りつけてやらないと」
「はは、そ、そうですね」
千穂も無理やり笑ってみたが、それは表情が見えなくても引きつっていると分かるほどの痛々しい笑い方だった。
「千穂ちゃん、ごめんなさいね。朝から心配させるような電話を掛けてしまって」
「いえ、そんなことを謝らないでください。私も由貴ちゃんが早く見つかって欲しいです」
「きっとあの子のことだから大丈夫よ。その内戻ってくるわ。そうしたらすぐに本人に連絡させるから」
「……分かりました」
「それじゃ、千穂ちゃんありがとうね」
「はい、それでは失礼します」
受話器を下ろして、千穂はしばらくその場で静止して動かなかった。ただ、心臓だけがドクドクと胸を叩いて騒がしい。