五三ノ業 惑わされる者、卑しく謀りし者
スティリウスとノサティスは、目の前の九尾に気を取られ、背後からの敵の接近という可能性を思わず忘れていたのだ。
振り返った彼らの前には、鵺を引き連れたぬらりひょんが杖と片足で身体を支えて立っていた。
「…ぬらりひょん……あんたは、脚が治るまでは出てこないもんだと踏んでたんだがな…」
「…ワシとて明朝まで待つつもりだったがの…。……煩い羽虫が敷地に入りおったのじゃよ…」
「…明朝? ……まぁいい。じゃあ、よっぽどこの九尾って奴が大事らしいな…」
スティリウスは虚勢染みた笑みに汗を滲ませ、右手を刃へと具象変化させた。
そして白く濁った両目の瞼をそっと閉じると、更に意識を集中させる。
…他に物音は……――ある。
――タンッ――タンッ――タンッ――…と、遠くから跳ぶようにして接近する何かの足音が聞こえた。
その速さ、足音の強さから、ただの動物や人間ではないことが分かる。
…それが敵か否かはスティリウスには分からない。
しかし、どちらにしても今はここを上手く離脱するしかなかった。
「……あっちでグースカ寝ている狐だが、正直こいつに勝てる奴がこの島で他にいるとは思えないんだよな。もしいるんだとしたらこんなところに封印なんざしなくていい。…つまりあんた達が急いでここにやって来たのは、こいつを起こされたら困るからってとこだ。そうだろ?」
スティリウスの挑発めいた声調に、ぬらりひょんはじっと静かに睨み返す。
そしてぬらりひょんは、スティリウス達と自分との間に鵺を立ちはだからせると「……ケケケ…」と不敵に笑った。
「…ならば何だと言うのじゃ…。…おぬしが九尾を起こしたとて、戦況は好転などせぬ…。寧ろおぬしらが窮地に陥るだけであろうに…」
「…ふん、どうかな…。大天狗に、犬神に、鵺に……あの『海の中のデカブツ』…あんたは自分より強力な怪霊獣を複数配下にしている。そんなあんたが、封印してるくらいなんだぜ…九尾の狐って化け物は。……分かってんだよ、あんたは九尾を完全に使役してる訳じゃない。ここで九尾を解き放てば、九尾はあんたに襲い掛かるはずだ。…この島を根城にしてるあんたら怪霊獣達と九尾をぶつけ、俺達は消耗したところに追い撃ちを掛ければいいのさ。え、どうだよ…」
「…クヒヒ…キヒャヒャヒャヒャヒャッ…! なるほど、そいつは良い手じゃな、実にワシ好みのやり方じゃよ…!」
ぬらりひょんは彼の脅しをゲラゲラと笑い飛ばす。
スティリウスは警戒を崩さず睨みながら、渇いた唇を密かに舐めた。
「…しかし残念じゃったな、見込み違いじゃ。ワシらが束になって挑んでも九尾には手傷一つ負わせられん…。力の差があり過ぎる。分かるか、九尾はワシらを殺した後でおぬし達を殺すだけなのじゃよ。…それも全て一瞬の出来事でな……おぬし達が逃げおおせる時間など、在りはせん…」
「………ハ……だったら、九尾が寝てる内に致命傷でも負わせてやる。その怪我で目を覚ました九尾となら、あんた達でも引き分けに持っていけるだろうぜ」
「…ほほう、じゃが、それをどうやってやる…? おぬしの力ではそれこそ致命傷など与えられまい。まして近接攻撃で起こせばおぬしが真っ先に殺されるじゃろうて…。火力で考えればノサティス殿…いや、……そこのノサティスとかいう輩の最大火力の我霊射をぶつける他に無いじゃろうな。……ケケケ…まぁ、ワシの能力さえなければ、じゃがなぁ…?」
嘲り笑うぬらりひょんに、スティリウスは強がりのような笑みを向けたまま注意深く隙を窺う。
ノサティスはゴクリと喉を鳴らし、震える拳を握り締めた。
手詰まりだとしか思えず、今に屠られると恐怖が先んじていた。
…しかし、そんな彼の肩にポンとスティリウスの手が触れる。
「――『洗脳変化』」
スティリウスはポソリと一言呟き、僅かな怪霊力を手からノサティスへ流し込んだ。
ぬらりひょんは彼の手を睨む内に笑みを浮かべる余裕を失い、表情には強い恨みの色が染み込んでいく。
「…洗脳変化じゃと……? 何のつもりじゃ、何をしたおぬし…」
ぬらりひょんの問いを聞くなり、スティリウスは「ハッ」と笑い飛ばした。
そしてノサティスに「九尾に我霊射を撃つ準備をしてろ」と言い付け、得意に笑いながらぬらりひょんと対する。
「あんたは強い奴らで自分を囲い、安全圏でしか戦ってこなかった。だからそうやって平和ボケし、同じ過ちを繰り返して、大切な機を棒に振るのさ。……オレは十数時間前に全く同じ事を言ったんだが、もっぺん聞くか、瘤ジジイ。『あんたが無駄口を叩かず『 』と呟いていれば避けられた結末だ』」
「…何じゃと……洗脳変化などで一体何を…」
スティリウスの真意に理解が及ばず苛立っているぬらりひょん。
…一方、ノサティスは眉を寄せて聞き耳を立てていた。
今、不自然に聞き逃した単語の正体が、何だったかと確めようと…。
スティリウスは透かさず言い返した。
そしてその言葉は、やはりノサティスには不思議な聞こえ方で伝わった。
「ここから先、オレとノサティスにあんたの『 』は聞こえない」
二度の現象にノサティスは驚いて振り向いた。
虫食いになった異常な音声――しかし、文脈から辿れば簡単に理解できる。
ノサティスが耳で拾えなかった言葉―――その正体は、『ぬらり』だ。
「洗脳変化は認識支配の術だ。怪霊力でイメージを送りつける幻弄とは違い、洗脳変化は認識を司る暗示を送る。今オレは『 』という言葉を感知できないように暗示を掛けた。これが続く限りあんたの『 』がオレ達に届くことはない。そしてこの術を解く手段は、被術者本人の我霊閃で暗示効果を吹き飛ばす以外に無いんだ。…つまり、――」
スティリウスは刃の右手を正眼に構えて走り出し、ノサティスはそれに合わせて右手を九尾の額に向けた。
「もはやあんたはただのお荷物だということさ…!」
ぬらりひょんはピクリと目尻を震わせ、一心にスティリウスを睨みながら、その額に冷や汗を噴かせた。
鵺はぬらりひょんを守るようにドシリと四足を踏みしめる。
スティリウスは勝利を確信して号令を掛ける。
「ノサティス、九尾を撃て! オレは退避を邪魔されねぇように少し痛めつける!!」
「…ああ!」
ノサティスは右腕に怪霊力を集め、スティリウスも領域を怪霊力で満たした。
そして二人同時に術の発動へ移る。
「――『我霊射』ッ!!」
「――…『センコウタン』」
まんまとスティリウスの策に嵌まったかに見えたぬらりひょんだったが、…しかし―――
「――『 』」
我霊射も仙攻丹も発動しないまま、怪霊力は無意味に吐き出されて終わった。
ぬらりひょんの声は二人の耳には届いていないはずだった。
しかし、事実として『ぬらり』は発動し、二人の術は無効化されたのだ。
「……な…、に…ッ…?」
スティリウスは唖然とし、歩みは意識から離れ、自ずと足はその場に立ち止まった。
ノサティスは霊力の殆どを我霊射に注ぎ込んだためにスタミナ切れを起こし、フラリと揺れて膝をついた。
優勢は、明らかにぬらりひょんに傾いていた。
「…正直確証は無かったが、やってはみるものじゃな…。……洗脳変化で『 』を聞こえなくしたと言ったな? じゃがそれは少し解釈が違う。実際にはおぬしらの耳には確かに聞こえておるのじゃよ、『 』が…。暗示というのは、『認識しているそれを表層意識に昇る前に書き換える』という代物でしかない。つまり、深層心理では正しく認識しておるのじゃ。……ワシの『 』を深層心理で認識している以上、いくら耳に届いておらぬつもりになっておろうが効果を防ぐことはできぬ。…愚策じゃったな、スティリウスよ。何もかも自己流で習得してきたおぬしは術の本質が見えておらず使い所を誤った。何とも無様な敗け方じゃな」
スティリウスは暫し茫然とぬらりひょんを見つめ、次の策を考えたが、今更どのように動くこともできないと悟ると苦々しく舌打ちを奏でた。
「…ノサティス、怪霊力一で我霊閃しろ。知らない内に『 』を使われているより認識できた方がまだマシだ」
彼は指示と同時に我霊閃で暗示を飛ばし、ノサティスも続いて同じようにした。
ぬらりひょんはニヤリと笑うと鵺の背中を撫でて舌舐めずりをし、鵺はコクリと頷くと「ヒョウ、ヒョウ、ヒョウ…」と鳴いてジリジリと前進していく。
「…まさかこうも都合良く事が運ぶとは思わぬでな、色々と策を練っておったが…おぬしらはここで殺してしまうが良いか。……少々張り合いの無い戦いになってしまうが、…まぁ、ケケ…ええじゃろう…。おぬしらは自らを過信し、無様を晒して自滅の道を辿り、そして殺されるのじゃ。これも一興、実に愉快じゃのぉ…」
ノサティスは虚ろな足取りでスティリウスの傍へ歩き、横から顔を覗き見た。
スティリウスならば何かしら方法を考えているはずだと、そう信じていた。
しかし見れば、彼の顔色は真っ青で、眉間に寄った皺も小動物の威嚇に等しく、その手も震えている。
「………ふ…タハハ……」
スティリウスの口から、聞いたこともないような掠れた笑い声が漏れた。
声音が、万事休すと雄弁に語った。
「……ス…スティリウス、お前は何としてでも…逃げろ。私が囮になる。…お前が死んでは、リーラ様に顔向けできぬ」
ノサティスは何とか振り絞れただけの蛮勇で告げ、庇うように前に出た。
スティリウスはバクバクと煩い心音を深呼吸で落ち着かせながら彼を見て、フッ…と笑うと、彼を脇に押しやって、更に前に出る。
「……あんたに、霊力も無い癖に何ができんだよ。……役立たずは尻尾巻いて逃げろ。あんたがいちゃ足を引っ張られてオレがやり辛ぇんだよ。さっさとどっか行け…オレなんかにかまけてねぇで―――」
「逃げられると思うかの? …おぉっと、そうじゃ。折角の忠告を忘れるところじゃったな、妙なことをされる前に連呼しておこう。『ぬらり』『ぬらり』『ぬらり』『ぬらり』『ぬらり』――」
ぬらりひょんは噛みつくように、けれど惚けた態度で告げた。
しかし悔しいことに、こうして『ぬらり』と連呼されただけでスティリウス達は為す術が無くなってしまう。
何か妙案を思い付いたとしても、その瞬間ぬらりひょんに読み取られてしまう。
単純に耳を塞ごうにも、スティリウスはその前に具象変化で目が見えるようにしなくてはならなかった。
彼らはもはや死を待つばかりだった。
「――『ぬらり』『ぬらり』『ぬらり』『ぬらり』『ぬらり』――」
それは、彼らが死ぬまで絶えず続く死刑宣告だ。
彼らは一挙一動を監視され行き場を失う。
間も無く鵺の爪がいとも容易く喉笛を裂くのだと、スティリウスが覚悟した、その時―――
「―――『命を掠め取れ』」
小さく、涼しく響いた少女の声。
その接近に逸早く気がついていた鵺が引き返してぬらりひょんを庇いに行ったが、小さな手が鵺の肩を掠めて通り過ぎる。
その少女―――ルナは、ぬらりひょんには手を出さずに高速で突き進み、スティリウス達の下へと降り立った。
直後、鵺は肩から紫の光を放つ小爆発に見舞われて地に転げた。
肩は体毛を散らされて血が滲んでいるが、謂わばその程度の損傷でしかない。
鵺はすぐに立ち上がってぬらりひょんを守りに駆け寄った。
「…ぬ、『ぬらり』『ぬらり』『ぬらり』! 『ぬらり』『ぬらり』『ぬらり』!!」
ぬらりひょんは出鱈目に叫びながら鵺の背後に隠れる。
その尋常でない焦りに、ルナ以外の全員が何かの異常を感じ取っていた。
「間に合って良かった…! 逃げんぞ! 掴まってくれ!!」
ノサティスは突然の事にオドオドしながらも「た、助かる!」と礼を言って、ルナが差し出した右腕を両手で掴む。
「にぃちゃんも早く! ほら!」
ルナはせかせかと左腕をスティリウスに突き出した。
少し呆気に取られていた彼だったが、ハッと調子を取り戻すとすぐさま彼女を怒鳴り付けた。
「バッ、馬鹿野郎ッ!! 何でオレを追ってきた!? あいつらと行動するって決めたんじゃないのか!? さっさとアイツらの所に戻れ!! オレについてくるんじゃねぇ!!」
「……? …わりぃ、今聞こえねぇんだ! 後で聞くから早く掴まってくれ!」
「はぁ…!?」
スティリウスは怒り任せに聞き返したが、実際、目が見えていない彼では気付けないのも無理は無い。
しかし、ノサティスにははっきりと見えていた。
また彼でなくとも、一端の怪霊獣ともあれば暗闇でもかなり鮮明に視認することができる。
故にぬらりひょんや鵺にもその仕組みが分かり、ぬらりひょんは少しの間思案すると『ぬらり』と発するのを急に止めた。
「…そうか、初めから耳栓をしてここへ来たのか…」
ノサティスの呟きに、当然ルナは返事などできない。
スティリウスは納得すると、悔しげに顔をしかめながら手を刃から戻し、ルナの腕を握る。
そして慎重に、ぬらりひょんと鵺の方へ顔を向け直す。
「…キョロすけが来たからって油断するなよ、ノサティス。耳栓しててもテレパシーの『ぬらり』は避けられないんだ。この状況でも、依然として全員が『ぬらり』を食らう展開は想定できる。状況が好転しただなんて決して―――」
「あっ、そうだ! おめえらにもこれ渡しとくな!」
なまじ周囲の音が聞こえないためか、ルナは気負い無く明るく声を上げ、スティリウスの発言を遮る。
彼女は掴まれている両腕を引いて懐を探り、自分が付けているものと同じ布を練り固めて水を含ませた耳栓を四個取り出した。
「…これは、操霊で作ったのか…。しかし布なんかどこに…」
ノサティスはそれを受け取って片手で両耳に嵌めながら、ふとルナの服が眼につく。
彼女のチュニックは腹回りを大胆に破かれ、柔らかそうな白い腹を露出していた。
「ほら、にぃちゃんも早く取れ」
ルナはぐいっと耳栓を突き出しながらぬらりひょん達に動きが無いか見張る。
不思議なほどに都合良く、襲い掛かってくる気配は全く無い。
それが却って不気味で、ルナとしては一刻も早くこの場を立ち去りたいのが本音だった。
スティリウスもそれは同じはずだと言うのに、中々耳栓を受け取ろうとしない。
彼女は妙に思ったが敵から眼を離す訳にもいかず、耳栓を乗せた手を仕方無く握って「後で渡す」と約束した。
「じゃ、今度こそしっかり掴まってくれよ。…こっから、飛ばしてくから」
彼女はぬらりひょんと鵺の攻撃に対処できるようにしっかりと睨みつけ、肩幅に開いた脚を深く曲げながら、一言、両隣の二人に告げる。
「今からのは見ないフリしててくれ。ディアナには…黙っててくれると助かる」
二人はその意味を介せず僅かに首を捻った。
そして正面のぬらりひょんは、鵺に『待った』を掛け、彼女が動くのを黙って待っていたが、そこでふと急に笑い出した。
そして、ルナの頭の中にテレパシーが押し寄せる。
《…おぬしは優しいなぁ…ケケケ…。知っておるぞ…ワシは…。…おぬしが、あの小娘に遠慮して今まで隠してきた術というやつをな…。……今、そいつを見せてくれるんじゃろう…?》
「………」
ルナは、その言葉が何らかの揺さぶりだと判断して無視を決めた。
しかし、そうと決まればさっさと逃げ始めればいいものを、何故か彼女は終わりまで聞かなくてはならないような気がしていた。
《…キヒャヒャッ…! …おうおう、何も言わんでよいぞ…。おぬしの心苦しさは、よぉくよぉく分かるからのぉキケケケケ…。…しかし、そんな優しいおぬしが…あの小娘をほったらかしてここまでやって来るとは……キヒッ…ワシが何かするまでもないかもしれんのぉ…アヒャヒャヒャッ!》
「………やかましいな…」
《……ひひひ…まぁわかる…わかるぞい……おぬしがあの小娘を捨ててくるのも当然じゃ。…何せあやつは、そこにいるおぬしの兄を殺したがっていたからなぁ…!》
敵意で応じていた彼女の冷たい態度が、ピクリと思わず崩れ出した。
ぬらりひょんは一層嬉しそうに、笑いながら告げる。
《ワシの能力を以てすれば、次の行動も、今の心の内も、それらに関連する記憶すらも、全て丸分かりじゃ。…あの小娘が、地面に落下してきたスティリウスを見つけた時、何と思ったと思う?》
「……」
《――『今なら簡単に殺せる』。しかし、同時に心にあったのはおぬしの存在じゃ。『ルナの目の前で殺しちゃいけない』。『ルナはスティリウスを愛しているんだから』。……『あたしがクレドをルナに殺されたら、あたしはきっとルナを殺す』。『だからルナの前では殺せない』》
「……………」
《『…でも、あの子にとっての恋って、どれだけ強い想いなんだろう』。『あたしはクレドがいなければ生きていけない程だけど、ルナはスティリウスが死んだと思っていた頃も前を向いて生きていられた』。『だからきっと、彼女はスティリウスが死んでも普通に生きていける』。『なら、彼女のいないところでひっそりと殺すべきよね』》
「…………………」
《『彼女が彼とキスをしたいと思うだろうか』。『彼女が彼とハグをしたいと思うだろうか』。『彼女はまだ子供だから、それほどの熱烈な想いは、きっと無い』。『子供の内に終わってしまえば、いつか綺麗な記憶に変わって時間と共に薄れていく』。『だから、その想いが取り返しがつかないほど大きくなる前に、早い内に殺しておかないと』。『そもそも自分を刺してくるような危険な男、どうしてあの子は好きでいられるの』。『好きだった頃の兄の幻影を見てるだけなんじゃないの』。『いくらあの子が好きだと言っても引き離すべきなんじゃないの』。『だから、スティリウスを殺すことは、あの子のためでもある』。『あの子が本当に幸せになるとすれば、それはきっとスティリウスの隣じゃない』》
「…るせぇよ…余計なお世話だ」
ルナの言葉を受けてぬらりひょんのテレパシーはピタリと止んだ。
ぬらりひょんは満足して奇怪に笑っている。
彼女のそれは、ぬらりひょんだけに向けられたものではなかった。
「…おい、キョロすけ…?」
ふと、状況を訝しんだスティリウスが声を掛けてルナの腕をぎゅっと握った。
彼女はその手にハッと我に返ると、直後紫の稲妻を全身に走らせて跳び上がった。
高速の動きに引っ張られたノサティスは両手でルナにしがみつくように体勢を変え、スティリウスはプライドが許さず彼女を片手で掴まえたまま、自らも仙攻丹で肉体を強化して衝撃に耐えた。
「お、お前…仙攻丹を使えたのか…」
ノサティスの驚嘆にルナは答えず、彼自身も耳栓をしていたことを思い出して口を閉ざした。
スティリウスにしてみれば彼女の術の習得力は当然のものであり、仙攻丹自体には大した驚きは無い。
しかし、彼女が何の苦も無くぬらりひょん達を飛び越えて脱出してしまったこと、ぬらりひょん達がわざわざ待ってまでしてルナ達の脱出を見逃したことが、どうしても彼の脳裡に引っ掛かっていた。
…そして、更にもう一つ―――
「…何故、アイツは『ぬらり』を使うのをやめた…? キョロすけ相手にテレパシーで『ぬらり』を使えば、オレ達が耳栓をする前ならどうにかなったはずだ。…何でそれをやめた? オレ達を逃がして、当初の予定通り明朝から攻撃を仕掛けたかったから…? それとも『ぬらり』を控えなきゃならない理由があったのか? まず何で明朝まで待つんだ? あの怪我の治り具合で考えれば、日が明けるより前には大体治ってるはずだ。何故日の出を待つことに拘る…?」
スティリウスは纏まらない思考を口に出して整理しようと試みたが、分析する材料が少なく、それより先へは進まなかった。
洞窟を出てから暫く走り続け、森の中に大きな池を見つけるとルナはそこに立ち止まった。
そして「もう放していいぞ」と告げながらブンブン腕を振り、二人の手を逃れると自らの大きな耳に入れていた耳栓を外した。
ノサティスも続いて耳栓を外すと、ずっと聞きたかったという風に口を開く。
「それにしてもルナ、お前、よく私達があの洞窟にいたと分かったな」
「ん、そりゃあ…。………その、にぃちゃんの、…に、匂い…追って…きた……」
「そうか、野狐とのハーフなら鼻が利くのか。なるほどな…」
納得してウンウン頷くノサティスに、ルナは少し赤くした顔を背けた。
そして手の中に握っていた未使用の耳栓をスティリウスの手の中にポンと押しつけ、収めさせる。
「…にぃちゃん、目、見えないんだったもんな。耳栓なんか着けたらもう何にも分かんねぇか。…いや、具象変化で目が見えるようにもできんだっけ?」
「…そうだな、見えるようにはできる。……だがオレは見えない状態が長かったこともあってこのままが楽だ。見えるようにすると妙に疲れる」
「……そっか。じゃあ、もうあんましぬらりひょんと戦おうとはしないようにな。あれはヴィスかノサティスに任せるしかねぇって奴だからさ」
スティリウスはそれに明確な返事などしないまま、空模様と月の位置とを眺めて調べ、あと何時間で日を跨ぐのか計算していた。
耳栓も受け取っただけで当然今すぐ付ける様子は無い。
「…とりあえずノサティスの霊力は回復できるところまで回復させるか。少なくとも四時間は休めるはずだ。…オレとキョロすけは…まぁ特にやれることは何も無いな。…このまま朝が来るまで大人しく…―――」
ブツブツと呟いていたスティリウスの背中に、ボフッと勢い良くルナが抱きついた。
そして押し当てた鼻から、スーッと鼻腔一杯に体臭を吸い込む。
「ぷはぁっ………」
心地良さそうに息をついた彼女は、離れること無くスティリウスを抱き続ける。
彼は、初めて聞く彼女の甘い声にビクリと震えて振り向いた。
「…キョロすけ…?」
柔らかい身体からは火照ったような体温と僅かに早い心音が伝わり、手入れされた長髪が触れた彼の肌を優しく擽る。
彼の目には、目の前の妹が全く別の女性のようにすら映った。
「…もう、一人で行っちゃイヤだぞ。……オレが守ってやっから…だから…一緒にいようよ……にぃちゃん…」
そう言うと、彼女はウトウトし始めて彼の背に凭れ掛かりながら眠りについた。
思えば彼女は、正午から今までたった一人で気を張りつめて、皆のために見張りをしていたのだ。
疲れきっていて当たり前で、きっと今のは朦朧とする意識の中で生まれた妄言だったのだろうとスティリウスは納得することにした。
地面に倒れないように抱き止めた彼は、かつてと変わらない無垢な寝顔を見せる彼女に、暫し眼を奪われていた。
※※※※※※※※※※※
「…危ないところじゃったな。あと少しでワシの能力の弱点がバレてしまうところじゃった…」
洞窟の中で九尾を前にぬらりひょんはほくそ笑む。
そしてその傍にちょこちょこと細かな足捌きで歩いてくる小さな怪霊獣に、「…遅かったのう…」と茶化すように笑い掛ける。
「我の足では鵺には追いつけませぬよ」
「…憑依体に自分を運ばせれば良かろうに…」
「憑依体を複数操るのは手間なのですよ。三体ほどヴィスドミナトルへの奇襲に向かわせましたので、これ以上は我の頭が持ちませぬ。故にこうして自らの足で馳せ参じたので御座います」
「…なんじゃい…手が早いのお…。…今あやつらを殺してしまうのはちとつまらんぞ…。…折角ワシがあとのお楽しみにルナとやらを生かして帰したというに……」
「おや、勝算が薄いと見て帰したように見えましたが?」
「…ワシは先の見通せん勝負はせぬだけじゃ…」
あぁ言えばこう言う、とばかりに軽口を叩き合い、二人は共に九尾の前に立った。
鵺はその小さな怪霊獣に場を譲ると、立場を弁えたように二人の傍から離れていく。
ぬらりひょんは九尾に手を翳してその怪霊獣に真剣な眼差しを向けた。
「九尾の処遇はおぬしに任せる。解き放ち混沌を招くも好し、あのお方に謙譲するも好し…。勿論、憑依するでも構わぬぞ。おぬしの好きなようにするが良い。ただし、―――」
「分かっていますよ。貴方様が万一にもこの戦いに敗れたなら、ということで御座いましょう」
「…いいや、いつでも良いぞ。…知っておるじゃろう、ワシは…ワシ自身の命より、他人のもがき苦しむ様を見ることの方が大事なのじゃよ…」
「…ふっ…同感に御座います」
ぬらりひょんは返事を受けると満足そうにケケケと笑って洞窟の外へ引き返し始める。
鵺も共に歩き、九尾の傍には彼一人が残る。
「…明朝まで時間がある…。…気配を消すのもワシの専売特許じゃ…。最高の悲劇を造るための仕込みでもしてこようかの…。…もし万が一、失敗でもしたならば……おぬしとはこれでお別れかもしれんのぉ…。…では冥土の土産に楽しい結末を期待するぞ、犬神よ…」
その小さな怪霊獣は、銀の山伏衣装を丁寧に整え、深々と犬の姿の頭を下げて見送った。




