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改新奇譚カリバン~封じられし魔王~  作者: 北原偶司
樹海之篇
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五一ノ業 駆け引きと小休止、甘き日々の追憶

 犬神は辺りを見回して状況を整理すると、一度ヴィス達に背を向けてぬらりひょんを抱き上げた。

 その間は警戒するように鵺が睨みを利かせ、ヴィスを筆頭に動き出すことができずにいた。


「…ぬらりひょん殿が敗れるとは…。……されど貴方様のこと、さしずめ不意を突かれたので御座いましょう。…見たところ敵側も全滅寸前。無事な者も鵺の敵にはなり得ぬ様子だ。今ここで全員を始末することも、実に容易い…」


 犬神の囁くような低い声、その静けさは強者の余裕を感じさせた。

 ヴィスは立ち上がって彼を睨んだが、その威圧にも犬神は涼しい態度で応じた。


「……イケすかねぇな…リーラの野郎に雰囲気が似てるぜ」


「…ほう、(われ)が、リーラハールス殿にか。…それはそれは畏れ多いこと…。貴殿は以前の怪霊王であるな。人間により封印を受けたと風の便りで聞いてはいたが、これ程に弱っているものとは…」


「あぁ、貴様の主人が封印を強めやがったお蔭でな。責任取って死んでもらう。邪魔立てするなら貴様も纏めて殺してやる」


 敵意を剥き出しにするヴィスとは違い、犬神は表情を変えたりもせず大天狗の死体に眼を移した。

 そしてぬらりひょんを鵺の背に乗せてやると、『行け』というように顎を振る。


 鵺はその合図を不満げに見ると「ヒョウ…ヒョウ…ヒョウ…」と高く鳴いて島の中央へと走り去っていった。


「なッ…!? …ま、待て! 逃がすかよこの野ろ――」


 急いで追おうと走り出そうとしたヴィスだったが、次の瞬間彼はバタンと顔から倒れ込んだ。

 再び封印に力を奪われた彼は、両手を地について起き上がろうとしては、また不意に力が抜けて崩れ落ちた。


 犬神はそれを不可解そうに眺めると、彼の後ろで決死の覚悟を瞳に秘めて睨むルナへ、「案ずるな」と声を掛けた。


「貴殿達を今殺すつもりはない。ぬらりひょん殿は貴殿達の死を自分の目で見たがるであろう。故に今は生かす。ぬらりひょん殿の傷が癒え、目を覚ました時こそ、貴殿達を殺しに再び参ろう」


 ルナは犬神の発言を言葉通りに受け取るべきか一瞬悩んだが、どのみちまともな戦力など残ってはいない。

 …残っているとすれば、それは………。


「………」


 ルナは何も言わず、ここは大人しく見逃してもらうことにした。

 例え犬神と鵺をこの場で始末できたとして、万一伏兵が現れたら全滅は免れない。


 そうして思案する彼女を犬神はじっと探るように離れたまま覗き込み、バッと音を立てて翻り鵺の去った方へ跳んでいった。


「…ク、クソッ…! みすみす…逃がして、たまるかよ…! おい、おいノサティスッ…、さっさと…ぬらりひょんを追え…! 今、奴を…逃がしたら……もう、対抗策は殆どねぇんだ…! ぬらりひょんだけでも、今…殺さ…ねぇ、と……!」


 ルナの身体から身を乗り出して叫んでいたスティリウスだったが、弱った身体で頭に血を昇らせ過ぎた。

 彼は不意にプツリと意識を失って、ルナの胸へパサッと力無く倒れ込んだ。


 ルナはそれを抱き止めると、浅い呼吸を繰り返して眠る彼の頭をそっと撫でながら、


「…大丈夫だ、にぃちゃん。オレっちが何とかする。今はしっかり休んでくれ。ぬらりひょんの傷の治りはそんなに早くねぇ、疲労を癒すだけの時間はちゃんと取れるはずだ」


 ヴィスは目紛しく変化し続ける封印に四苦八苦しながら、両腕で上体を起こしてルナを見た。


「…ルナ、先程は何故動かなかった…? 今の貴様なら、鵺はともかくとして犬神の野郎だけなら仕留められたはずだ。…それをただ無傷で帰すとは…」


 ルナは横目でチラリと彼を見ると、スティリウスをその場に横たわらせて、自分の腰に提げた巾着から仙活湯の小瓶を五本取り出した。

 それを手に一度ヴィスとノサティスの怪我の具合を見比べ、少しの間思案すると、詫びるようにノサティスに眼を配せてからヴィスの目の前に膝をつく。


「……かもな。オレっちも、戦いの時いつも読霊で見るようにしてきたから、敵の大体の力量には目が利くようになってきてんだ。そいつが正しけりゃ、確かにあの犬神とかいう奴ぁそんなに強くはねぇ。ノサティスより身体能力は下だろうさ」


「ならば何故…」


「…けど、…あいつ、それだけで済まねぇ気がするんだ。…ただの勘、だけどな…得体が知れない感じがする。だって考えてもみろよ、大天狗はノサティスより強かったんだぜ? その大天狗と同じくぬらりひょんに傍で仕えていたっぽい犬神が、簡単に倒せるのか? そう思うと、単純にぶつかって倒すだけの話で終わるか不安だったんだよ。…それにこんなボロボロのおめえらを庇いながら戦い抜くのも正直厳しい。やるなら、全快したオレっち達全員でやれるのが理想さ。そうなりゃぬらりひょんだって攻撃全部避けてなんてられねぇだろ」


 諭す彼女にヴィスは言葉を失った。

 彼女がこれ程に筋道を立てて判断を下し、ハッキリと告げたことが頼もしくも意外だったのだ。

 いくら強くなったとは言っても、この成長はもはや人格の変化と評しても満更違わない。


 戦いに対する恐怖が先行しがちだった以前の彼女とは、まるで別人のようだった。


「…貴様の判断は、…正しい。……俺達の誰一人失わないためには、それくらい慎重に行動すべきだろう。…どのみち今は貴様を頼るしか道は無い。貴様に従ってやろう…」


「おう、任されたぜ。うんじゃ、こいつ飲んでくれ。封印が強まったせいで中々その腕治んねぇだろーし」


 ルナはニッと笑って栓を抜いた小瓶を一本ヴィスの口元へ差し出した。

 ヴィスは神妙な顔つきでそれを眺めると、「…自分で飲む」と立ち上がって五本とも奪い取った。

 そうしてガブガブと全て喉に流し込んだ彼に、ルナはどこかホッとした様子で微笑む。


「ホント、分かんねぇな封印の条件。さっきの今でもう立ち上がれるようになったのか」


「あぁ…? …あぁ、そうらしいな」


 ヴィスは気の無い返事だけ返して小瓶を投げ捨てた。

 そしてその場に胡座をかいて座ると、腕を組んで瞼を閉じる。


「……なあ、私は、ぬらりひょんを討つべきだっただろうか…? スティリウスが言ったように……」


 ヴィスの態度の変化を訝しがって見つめたルナへ、少し気落ちした様子のノサティスが頼りなく呟いた。

 ルナはフッと優しく笑うとノサティスの前まで歩いていく。


「あそこでぬらりひょんを殺してたら、後から来た犬神や鵺に全滅させられてたかもな。おめえの本意じゃあねぇと思うけど、結果オーライだよ。大天狗も倒せたし、休息の時間を稼げた」


「…しかし、…ぬらりひょんは『ぬらり』の攻略法を知られて逆上した。おそらく対策を講じて来るだろう。もう二度と、ぬらりひょんの顎を破壊できる機会なども訪れない…」


「そこはまぁオレっちが考えとくよ。おめえは今はとにかくしっかり寝て、霊力を少しでも回復させて、吹っ飛んだ脚とか元通りに治しててくれ」


 ルナとしては正当な理屈だったが、ノサティスには無理な励ましのように聞こえた。

 そも、気にするなと言われれば余計に気にするのが彼の性分なのだ。

 彼を言葉で元気付けようということは容易ではない。


「…んじゃあさ、ノサティスに一個質問と、一個お願いがあんだ。それ両方受けてくれたら今日のMVPはおめえで決まりだぜ。受けてくれっか?」


 ルナの申し出は無論ノサティスに断る理由がなく、無言で頷いた。


「おめえ、その吹っ飛んだ脚、どのくらいで治る?」


「…む、これか。……七時間程だな」


「おめえで七時間か。だったら、おめえよりずっと弱いぬらりひょんはもっと何時間も全快に時間が掛かるって訳だ。ってことは、今から少なくとも七時間以上は休めるってこったな。……前にディアナから聞いた話じゃ、眠りついてから大体一時間で睡眠状態が安定して霊力が回復し出して、そこから更に五時間睡眠を取れば霊力が全回復するんだってよ。だから七時間も休めりゃあ、霊力は確実に全快すんでい。なんで、おめえにはこれからまた役に立ってもらわなきゃなんねぇから、しっかり休むんだぞ。変なこと悩んでたりしたらオレっちがガツンと叩くぞ」


「……う…うむ…」


 彼が渋々頷くと、ルナはノサティスがディアナから貸し与えられている腰巾着から仙活湯を二本取り出して、そっと顎に手を添えて唇に小瓶を傾ける。

 両腕の使えないノサティスは彼女の優しい手に促されておずおずと口を開けて仰向いた。


「おめえの回復力なら休憩時間内で確実に治るから、仙活湯はいいかなーって思ったけど、おめえもずっと痛いまんまは嫌だもんな。後でまた必要になるかもだからとりあえず三本は残しとこうな。さっき言った通りおめえは重要な戦力だ。術を封じてくるぬらりひょんに無策でも対抗できるのは身体能力が格段に高い奴だ。つまり、オレっち達の中で唯一ぬらりひょんに勝てるかもしれねぇのは、ノサティス、おめえなんだよ」


 ノサティスは目を丸くした。

 まさかここに来て自分を戦力として期待してくれることがあるとは思わなかったのだ。

 口を開け続けなくてはならず驚きを声に出せないのが惜しい程に、彼の胸には熱いものが込み上げていた。


「…にしても……えっへっへ……。ノサティスおめえ、そーやってされるがままになってると案外かわいい顔してんだなぁ。ガキみてぇだぞ」


 ノサティスは怒りを声に出せないのを惜しく思いながらジトリと睨んだ。


 そんな彼の視線も何処吹く風に彼女は小瓶を自分の巾着にしまって、「んで、一個お願い聞いてくれ」と話を戻した。

 ノサティスも元の話題を思い出すと、「何だ?」と真面目に聞き返す。


「こっから五百メートル四方に充満してる読霊を我霊閃で吹き飛ばしてくれ。オレっちの怪霊領域じゃあ十二メートルが限界なんでぇ。ノサティスなら怪霊力六五万の我霊閃でも何とか撃てるだろ? その後七時間休めば全快するんだし」


「…うむ。別に構わぬが、それをしてどうする?」


「我霊閃で空いた空間をオレっちの読霊で埋める。いくらぬらりひょん達が数時間仕掛けてこねぇったって、全く警戒しないで待ってなんかいられねぇだろ? だからオレっちが読霊で見張っとくんだ」


「……それならば私達自身もどこかへ隠れるべきではないのか?」


「今この瞬間も敵の読霊で監視されてるから、どこ隠れたって場所は特定されちまうさ。オレっちが読霊展開してから移動したとしても、敵は読霊の届かない場所の中央にオレっちがいるって推測できちまうから、結局は無駄なんだ。それくらいなら、視界の開けたこの場所で休んでた方がいい」


 ノサティスがふむと納得すると、ルナは合図に一つ頷く。

 察しが悪い彼は数秒遅れて理解すると、「ほら、我霊閃」と告げて言われた通りに発動し、ルナはその直後間を開けず読霊を展開した。


 海岸付近から展開したため、読霊範囲の半分は海上を覆った。

 海岸沿いに並んでルナ達を逃がすまいと壁になっていた火車の群れは、大気に張り詰めた冷たい感触にゾクリと震え、相談するように互いを見合わせる。


「…よし、とりあえずこれでいいか。じゃあノサティスとヴィスはここで休んでてくれ。ちょっと首切れ馬とディアナこっちに引っ張ってくっから」


 ルナはそう言ってノサティスをゆっくり押し倒して寝かせ、落ち着いた足取りでディアナの下へと歩いた。

 ノサティスは敵地で横になるなど気が気でないといった様子で、目を瞑ったり閉じたりしていたが、対してヴィスは座って腕を組んだまま眠ったまま微動だにしないでいた。


「……ヴィスドミナトル、お前…座ったまま寝ているのか」


 ノサティスが声を掛けるとヴィスはゆっくり目を開ける。

 起きていたのか、と少し安堵したノサティスだったが、ヴィスはそうして息をついた彼に「ある意味な」と不可解な返事を返した。

 ノサティスが「うん…?」と聞き返すので、ヴィスは少し眉を潜めて告げる。


「ある意味寝ているが、ある意味起きている…と言っても伝わりにくいか。俺様にとっての睡眠は貴様らとは様子が違ってな、意識を閉じずとも成立するのだ。身体は動かんし頭も然程働かんが、意識だけは途切れない。故に仮に敵襲があっても、ルナが報せれば俺様はすぐに対応できる。…つまり、貴様はルナが言うように何も心配せず寝ていればいい。分かったかクソビビリ」


「……う…うぬ、最後の一言が聞き捨てならぬが……まぁ、理解した」


 ノサティスは謎が氷解すると同時に暴言に辟易して溜め息を溢す。

 そして一気に肩の荷が落ちて、気付くと眠りについていた。


 ルナはディアナを横抱きにして運び、ノサティスの横に降ろす。

 そうして次は馬の番だと振り向いたが、そこに至って計算違いに苦笑いを浮かべた。


「…あ~、そっかぁ……首切れ馬って怪霊力与えないと歩いてくんないよな。この読霊一回切ったらその瞬間に火車の読霊で埋め尽くされちまうかもしんねぇし、手で運ぶしか…」


 ルナはガシガシと頭を掻いて思考を纏めた。

 幸いにも相手は生きた馬ではなく、魂の無い傀儡だ。

 持ち運んでも暴れて蹴られるようなことにはならない。


 しかし、百体もの馬の身体を凝縮して作られた首切れ馬が通常の馬と同じ重量のはずもなく、誤って倒してしまうと面倒だと思った。

 それに無理をしてまで馬の位置を移動させる意味は何も無い。

 彼女は結局「…馬はいいや」と放置してスティリウスの下へと戻ってきた。


 スティリウスは浅くとも確かな呼吸を繰り返している。

 一仕事終えたルナはしゃがみこんで彼の端整な顔をじっと覗き込み、垂れ下がった尻尾をゆらゆらと振った。

 そうして彼女の頬に仄かに紅が差した頃、彼女は彼の顔色の変化に気が付く。


 元々色白なその顔はみるみると青白くなり、よく見ると首も手足も以前より少し痩せ細っているのに気が付く。

 ノサティスに聞かされていた話を思い返し、スティリウスが今日までの間たった一人でこの島で戦い続けていた事実を思い出した。


「にぃちゃん、大丈夫かっ? …熱は…」


 ルナは彼の額に手を当て、


「…熱くはねぇけど、衰弱しかけてるかも……。…まさかにぃちゃん、ろくに食えてなかったんじゃ……」


 彼女はキョロキョロと辺りを見て食料を探した。

 そしてすぐそこにそれは見つかる。


 先程の戦い、不意打ちに次ぐ不意打ちで何とかノサティスが勝負を納めた相手――大天狗の死体がそこに倒れていた。

 ルナは急いで死体を引っ張ってきてスティリウスの傍に降ろす。

 そして死体が纏う山伏衣装を剥ぎ取り、裸にすると、その真っ赤な肌を見回す。


「…いつもみたいにちっこい玉に凝縮して飲み込ませれば早いけど……そのためにゃ読霊解かなきゃだな…そりゃまずいか…」


 ルナは少しの間大天狗とスティリウスとを見比べていたが、やはり普通に少しずつ食べさせるしかないと考えた。

 彼女は山伏衣装を広げて伸ばし、その上に大天狗の肉を一口大に細かく千切って並べた。

 一つ一つ、それなりの重労働だというのに何処か楽しげに作業をする彼女を、ヴィスは薄く開いた目で眺める。


 ここには母親を知る者はいない。

 親という仕組みを持たない単一生命体であるヴィスとノサティス、幼くして両親を失い記憶にも残っていないディアナ、そして生まれてすぐ牢屋に隔離されていたルナとスティリウス…。

 しかし今の彼女は、見る者が見ればまさに慈母そのもののようだと言えた。


「…よし、にぃちゃんっ、ちょっとだけ起きてくれ! 寝ながらじゃ喉詰まらせちまうぞ!」


 ルナはそう言ってペチペチとスティリウスの頬を叩き、苦しそうに呻きながら力無く目を開けた彼の頭を自分の右肩に凭れさせる。

 そうして左手に大天狗の肉を摘まみ、抱くように腕を回した右手で彼の顎を押さえる。


 スティリウスは寝惚けてハッキリとしない頭のまま、易々と口を開けた。


「よし、食わせてやっからそのまま開けてろよ…」


 ルナは彼の口に肉を押し込むと、不意に手の平に触れた唇の柔らかさにビクッと手を離した。

 虚ろにモゴモゴと口を動かす彼を見ながら、唇の触れた左手に何故だかじんわりと温まるような錯角を覚える。


 今更妙な汗を掻いてきた彼女だったが、すぐにスティリウスの苦しそうな表情に気がつく。

 意を決して両手で唇を掻き分けて見ると、口の中の肉はまるで噛み切れていなかった。


「あ…、顎に力入らねぇのか…。そうだよな…いくら怪霊獣が屍肉になると柔らかいって言っても、病人が噛み切れる程じゃないよな…」


 彼女はまた少し悩むが、不意に解決策を思いつくと頬を赤くして渇いた喉をゴクンと鳴らした。

 そして、焦ったような深呼吸の後、彼女は特に嫌悪感も抱かずにスティリウスの口から肉を抜き取り、パクリと自分の口へと放り込んだ。


 そうして丹念に肉を噛み、唾液で解し、更に細々と分解する。

 彼女は勢い良く彼の顔に覆い被さり、震える手で彼の顎を支えると、その唇を重ね合わせた。

 噛み砕いた肉を舌で押し込み、彼の口腔へと流し入れる。

 …気持ち悪がられはしないか、それだけが彼女の不安だったが、結果として彼は口移しされた肉を構わず飲み込んでくれた。


「……ぷはっ…」


 彼女は真っ赤になった顔で自らの胸に触れ、割れんばかりに騒ぎ立てる鼓動を感じた。

 喘ぐように忙しない呼吸で、それを誰かに悟らせまいと、また手早く肉を噛み、スティリウスの口に移した。

 それを何度も繰り返す。


「…にぃちゃん、…覚えてっか? うんとちっちゃい時のオレっちが具合悪くすっと、にぃちゃん、たまにこんな風にして食わせてくれたよな」


 ある程度繰り返して、肉の山が殆ど食い尽くされた頃、彼女は潤んだ目でスティリウスを見つめて告げた。

 寝惚けていたスティリウスの目は食事の中でしっかりと見開かれるようになり、彼は自分の意思で彼女の唇を受け入れていたのだが、食事が済むなり睡魔に襲われ、何一つ本人の心を語らないままに眠りに就こうとしていた。


「…あん頃はオレっちも今よりもっとチビで、もっとバカで、…んでもってガキんちょで……にぃちゃんの優しさがただ心地良いだけだった。…何にも気にしないで甘えてられた。…今は、……何か、…へへ…、何かしんどいや…。……にぃちゃんに近づくと、熱くなって汗掻いちまうし……触れると、胸が痛くて……顔を見てるだけで、息が詰まって上手く喋らんねぇ…。……でも、…それが何かうれしい。……うれしいよ、またこうして……一度は死んじまったと思ってたにぃちゃんが、……今だけでも、…こうして傍にいて……。…うれしいよ…」


 …ルナの声は掠れていた。

 ヴィスは思わず顔を上げて彼女を見つめたが、当の彼女は眠ったスティリウスの胸に顔を押し当てて何も言わなくなっていた。

 暫く彼女はそうしていた。

 それが涙を拭っているのか、ただ甘えているのかはヴィスには分からなかったが、仮に泣いていたとして彼が出来ることなど剰りに限られていて、どうすることもできない悔しさは殺意に代えられるしかなかった。


 不意に、スンスンとルナが鼻を鳴らした。

 鼻を啜ったのではなく、臭いを嗅いだのだ。

 そして彼女は顔を起こすとスティリウスの額や頬、首を撫でる。


「…にぃちゃん、水浴びとかずっとしてねぇだろ。肌がベタベタだし、ちょっと汗臭くなってんぞ。……飯も食えないくらい余裕が無かったんだから仕方ねぇか…」


 彼女はスッと彼の服に手を伸ばしたが、思い直して顔を染め上げるとブンブン首を振った。


「い、いやいやいや……。水浴びくらいそんな無理にやんなくても、起きてから自分でしてもらえばいいじゃねぇか…。……あ~、もう、変だオレっち…地下暮らしで水浴びしてるとこなんざ何遍も見てんのに、今更こんな……あ~、顔熱い頭痛い…!」


 急に身悶えて両頬をグリグリと手の平で擦り上げた彼女をヴィスは訝しく思ったが、落ち込んだような雰囲気では無いため知らぬ振りを決める。

 一方ルナはつい先程自分で否定しておきながら、未練がましく水場を探し、波の音に引かれて海を見た。

 そこに至って、彼女は読霊で見えていたはずの状況に今更注視した。


 海岸沿いで壁となっていた火車達はルナの読霊の範囲から逃れるように左右へ別れて立ち去っていた。

 その一帯だけは怪霊獣が一体もいなくなり、防備の無さから今ならそこから逃げることすら容易に思われる。


 実際それでも良いのではないかと彼女は考えた。

 今回でぬらりひょんの能力の仕組みと、側近の編成を多少なりとも理解できたのだから、一度退いて作戦立ての時間を取り、体勢を立て直して来るのも良策ではないか、と。


 ――しかし、一瞬、彼女の見つめる海面にぷかりと影が浮いた。

 その影は平べったい茶色の頭頂と、前へ向かって左右から湾曲した銀の二本角を露にしただけで海の中へ潜っていく。


 彼女はゾクリと身を震わせ、思わず立ち上がった。

 そして唖然とした顔のままヴィスへと振り向いて訊ねる。


「…おい、ヴィス……朱雀ってさ、確か…霊力三百万なんだよな? それで、ぬらりひょんの一個上の怪霊獣が、その朱雀なんだよな…?」


「…貴様、俺様が起きていると知っていてさっきの奇行を繰り広げていたのか…。随分図太い神経が通って――」


「いいから答えろって! どうなんだ!?」


 茶化した彼の態度に対して、彼女の怒声には鬼気迫ったものがある。

 ヴィスは神妙に眉を寄せると、「その通りだが、どうした…」と彼女に先を促す。

 彼女は、それまでの半ば浮かれていた気分を一切捨て、恐怖に満ちたその眼をもう一度海へと向ける。


「…海に、いるんだよ…。霊力二八十万の奴が……朱雀と殆ど霊力が変わんねぇ奴が…!」


「……なッ……あぁ…!?」


 ヴィスは彼女と同じように立ち、共に海中に潜む化け物を探ったが、それが彼らの前に再び姿を現すことは無かった。



※※※※※※※※※※※



 夜の帷が降りた頃、ぬらりひょんは島の中央に位置する古城の瓦屋根に腰を下ろして空を眺めていた。


「…今宵は月が見えぬな…」


 ぼんやりと呟いた彼の隣にスタリと犬神が着地し、「お目覚めですか」と抑揚無く声を掛けた。

 ぬらりひょんは犬神を一瞥すると、膝下まで治りかかっている右脚を撫でて不快そうに鼻を鳴らした。


「…ワシは…丸半日寝ておったようじゃな……。しかしまだこの脚は治らぬと見える。反撃は明朝に仕掛けるとしようぞ…」


「随分と余裕が無いご様子ですね、ぬらりひょん殿。いつもの飄々とした雰囲気が欠片もありませぬ」


「…大きな口を叩くな…犬神よ…。……ワシは今、機嫌が悪い」


「ええ、御無礼致しました」


 ぬらりひょんは犬神をジロリと睨むが、犬神はまるで態度を崩さない。

 気に食わないと表情に描いて、ぬらりひょんは再び月の無い空を仰ぎ見る。


「…あやつらは必ず生きては返さぬ。そのための策は既に練った。奴らはワシらとまともにぶつからぬ内に自滅し、汚ならしい怨念をぶちまけて血の池に沈み合うのじゃ。……犬神、おぬしも好きじゃろう…そういう余興は…」


「フッ…ええ、好物です。ご相伴に預かりますよ」


「ケケケ……。…いざとなれば九尾を出す。奴らには万に一の勝機も無いじゃろう。……極限の最中、奴らの脆い絆がどんな音を鳴らして壊れるか……今から楽しみじゃのう……いひひひひ……」


「…フフフ」


 ぬらりひょんと犬神の静かでおぞましい笑い声が深淵のような夜闇に吸い込まれていった。

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