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改新奇譚カリバン~封じられし魔王~  作者: 北原偶司
遺恨之篇
37/67

三四ノ業 第二師匠との再会!地獄の修業が幕開ける!

 ――仙儒の国、南西広域地区アノロク。


 曇天の下に広がる荒廃した大都市をスティリウスの小さな足音が進む。

 盲目の彼は辺りの異様な光景に何ら関心も払わず、進路に立ち塞がっている引き攣った顔の石像達を蹴り崩していく。


 …ふと彼はその足を止める。

 目の前に一人の怪物の気配を感じ取ったのだ。


 彼は左手を長剣に変化させて静かに笑みを浮かべた。


「あんたがメデューサとかいうやつか」


「…」


 その怪物はペタペタと素足で瓦礫の上を踏み鳴らして近付く。

 彼の言葉に表情を変えた気配も無く、人語を介しているかも定かでない。


 しかしそれは人間であるはずがなかった。

 …人間にしては気配が冷た過ぎる。

 怪霊獣にしては戦意が無い。


 それは寧ろ、…怨霊とでも呼ぶべき存在感だった。


「返事が貰いたいな。…まぁいい。オレはあんたを殺して怪霊衆としての階を一つ繰り上げる。人類を滅ぼすにはまずそこから始めないといけないらしいんだ。あんたに恨みは無いが、悪く思うなよ」


 スティリウスはそう告げて感覚を張り積め、怪物の動きに注意する。

 そして怪霊領域を充たし、仙攻丹を仕掛ける準備が整った瞬間、怪物の口がそっと動いた。


「…アナタ…似テル……ワタシ達ニ……」


 スティリウスはスッと目を細め、降ろしかけていた左手を見下ろすと、その刃を再び向け直して笑った。



※※※※※※※※※※※



 正午、ラティナ城一階訓練場。

 鍛練する兵士達の勇ましい叫び声、木刀の衝突音があちこちから響く中、ディアナは座禅を組んだまま深呼吸を繰り返していた。


「…な、何かディアナ…今日は落ち着きねぇな。いつもはそのポーズしてるときゃぁ物音一つ立てねぇでいるのに…」


 ルナは怪霊力を少々込めて立ったヴィスに手で触れて吸霊の修業を行いながら心配そうに彼女へ振り向いていた。

 丁度そこで上手くいってルナの領域にニの怪霊力が吸収されると、今度はヴィスが彼女から離れて右手を他所へ向ける。

 そして両者が同時に紫色の我霊射を放つと、ルナの閃光はヴィスの放ったそれに引かれて進路を逸れていき、そのまま宙に消えていく。


「…ふむ、『我霊射外し』は成功。ルナも『吸霊』を修得できたか。よし、ルナ、その術の使い方をディアナにも教えろ。俺様は続けて『幻弄』の修業に入る」


「ん、ヴィス、幻弄のやり方は分かんのか?」


「貴様の修業を見ていたからな。分からなければまた訊く」


「ほいよ。じゃあディアナ、オレっち達も修業やろうぜ」


 ヴィスがクレドを指招きで呼び寄せて次の修業に移ったので、ルナもそれに背を向けてディアナの傍まで歩く。

 しかしディアナは立ち上がると彼女に首を振って、腹部を押さえながら青い顔で告げた。


「…もうすぐ、僕の二人目の師匠が此処にやってくるの。僕の修業はその人につけてもらうから、…ごめんなさいルナ、『吸霊』は夜、部屋に帰ってから教えてもらえる?」


「…ん、ディアナがいいんならそれでいいけど…。んじゃあ、その師匠が来るまで『経練の行』ってやつのやり方教えてくれ。それ分かんねぇとオレっち、もう今日は修業できねぇんでぇ。『幻弄』も『洗脳変化』も覚えちまったから」


 ディアナはじっと出入口の方を見つめて浅い呼吸を繰り返しながらそれを聞き、気を落ち着けるように深く息を吸ってからクレドの方を盗み見た。

 クレドが逸早く察して振り向き、大きく頷くと、彼女も小さく頷いてルナにぎこちなく笑い返した。


「…そうだね、待ってる間緊張ばかりしててもしょうがないもんね」


「うん。…よし、じゃあ、何からやればいいんだっ? いつもディアナがやってる座禅ってやつか?」


 ルナが全身で元気をアピールするようにぴょこぴょこと跳ねると、ディアナはクスッと笑って「そうね」とその肩を押さえ込む。

 少しは肩の力が抜けてくれた。


「経練の行を行うにはまず、瞑想を完璧に行えることが重要なの。姿勢を整え、呼吸を整え、心を整える。座禅を組んだままじっと動かないで、心を無にするの。…これは覚えるというよりは慣れる技術だから、できるようになるには時間が掛かるかな。元々の性格も大きく関わってくるから、一生できない人だっているくらい」


「…むー、…難しいんだな」


「…うーん、難易度では測れないかな…。けどできない人には難しいかも。とりあえず気を楽にしてやってみよう。コツは呼吸をゆっくり長く――」


 …カチャリ…と、戸の開く小さな音が訓練場の騒音を消し去った。

 その冷たい空気に全ての者が手を止めて出入口に見入る。


 現れたのは黒い長髪を紅色のターバンで隠し、口元まで覆い隠す黒い立襟マントが印象的の長身の男だった。

 男は光の灯らない黒々とした瞳を真っ直ぐディアナへと向けていた。


「…ル、ルナ……とりあえず座禅は一人でやってみて。ちゃんとしたやり方はまた教えるから。…あと、僕からちょっと離れておいた方がいいと思う」


「お、おう…?」


 ディアナは顔を真っ青にして男を凝視しながら忠告し、ルナは首を傾げていそいそと後退る。

 男は足音も立てず一直線に歩き、鍛練中だった兵士達は急いで彼に道を開けた。


 そして男がディアナの目の前で立ち止まり凍えるような視線を彼女に向けると、ヴィスもクレドも修業を中断してそちらに振り向く。

 ディアナは小刻みに震えながら媚びるように笑っていた。


「…お、お久しぶり…です、ルキウス様。ま、また修業をつけてくださるとのことで…。…えっと、今回はどうするのでしょうか? ま、毎日手合わせ…とか――」


 その男――剣帝ルキウスは、彼女の言葉に耳など貸していなかった。

 彼の目は彼女の顔へも口へも向いていない。

 最早何も見ていないと言っても過言ではなかった。


 そして彼は、意味ありげにスッと瞼を閉じて彼女の注意を集めると、生じた隙をついて間髪入れず彼女の明星へ一本拳を打った。


「――ぐぅッ!? …く、ぁぅ…!」


 ディアナは両手で腹部を押さえてその場に膝を曲げる。

 前置きなく殴られて当然困惑顔の彼女が顔を上げると、既にルキウスの回し膝蹴りが左肩まで迫っていた。


「避けられねば打点を逸らせ」


 彼はボソリと呟きながら勢いの乗った膝で彼女を打ち飛ばす。


「一手があれば二手もある、気を抜くな。そして、――」


 彼は続けざまに左足で彼女の肩を蹴って仰向けに転ばせ、その顔を踏みつけて体重を掛けた。

 苦痛に呻く彼女の姿を、周囲のものは呆気に取られ見つめているしかない。


「身動きを止められたが最期だ」


 彼はマントの隙間から手を掛けた柄を覗かせる。

 そこに至りカッと目を見開いたディアナは、額に乗ったままの左足の外課へ鳥嘴拳を仕掛けた。

 予測していたルキウスが足を上げてその手を避けるも、彼女は片足立ちの不安定な姿勢を狙い腰への右足の三日月蹴りに転じた。


 そして彼がその蹴りを受け、衝撃を流すように軽やかに離れていくと、彼女は右足を振り下ろす勢いのまま地面を蹴ってバック転で起き上がり素早く右構えを取った。

 ルキウスは遠間に下がってゆらりと振り返り、また冷徹な眼を彼女に送る。


「思い出したか。俺が何度も忠告した言葉を」


「…『俺の前で気を抜けば殺す』…ですか。…もう修業は始まってるということですね。挨拶くらいはしたかったのですが…」


 冷や汗混じりに笑う彼女だが、未だ膝の震えは止まっていない。

 そんなディアナの姿を見て誰もが理解する。

 このルキウスという男は、修業の場でありながら、文字通りディアナを殺すつもりで対峙しているということを…。


「五日間付き合ってやる。どうもお前は勘が鈍っているようだから、まずは素手で挑みこの俺に剣を抜かせてみせろ。それが出来ればお前の剣の用意のため一時間だけ外出を許す。それまではこの部屋から出ることも眠ることも食すことも許さん。一時間経っても戻らなければお前の代わりにこの部屋の誰か一人に死んでもらうとしよう。これが今回の修業の全てだ。…逃げるなよ」


「…に、逃げませんよ…。…で、では……――」


 ディアナは震える脚を殴りつけて走り出した。

 そしてルキウスと二人、息をつかせぬ攻防を繰り広げる。


 その光景をポカンと眺めていたルナの隣に、フムフムと感心したような笑みを浮かべて腕組みしたヴィスが近づいた。


「あの男がディアナに剣と体技を教えたのか。なるほどどうして覇気がある。人間にしておくのが惜しいな」


「…あ、あんな怖ぇやつがディアナの師匠…。だ、大丈夫かな? さっきからディアナ、半泣きで戦ってるように見えんだけど…」


 感心している彼とは違いルナは不安げな視線ばかりを送る。

 それもそのはず、先程から突きと蹴りの高度な組み立てで防御を崩そうとしているディアナに対してルキウスは一切表情も姿勢も崩さずに受け続け、しまいには逆に隙を突かれて水月を蹴り抜かれてしまっていた。


 そうして床に打ち付けられて立ち上がれないでいる彼女にも彼は容赦なく駆けつけ、その顔を硬い革靴で何度も蹴りつけていた。


「…ちょ、ちょっ! ダメだろそりゃっ! ル、ルキウス…様、だっけか!? とにかく顔はやめろ!」


 ルナがそう言って止めに入ろうと全速力で走り出すと、ディアナが急いで顔を上げて「――待っ――」と声を張り上げた。

 その時既にルキウスは、流れるような所作で鋭い後ろ回し蹴りを放ち始めていた。


 先出されていたその蹴りは、人間の十倍以上の身体能力を持つルナの到着時間と位置を正確に予知していた。

 その踵は寸分違わずルナの顎を打ち抜き、彼女は体勢を崩してフラフラと床に倒れ込んでいった。


「ル、ルナっ! 平気!? ル――」


 叫んで立ち上がろうとしたディアナの印堂には全力の後猿臂(うしろえんび)が打たれ、彼女も脳震盪を起こしながら倒れて痙攣していた。

 ルキウスはそんな彼女の横に膝をついて右腕を振り上げ、


「お前に他人を気にする余裕があるのか。俺と向かい合う以上は例え親が殺されようとも――」


 ――彼女の喉へ目掛けて振り下ろす。


「――俺を殺すことだけを考えろ」


 目を覚ました彼女は呼吸を封じられ、喉を押さえながらジタバタと脚を振り乱して窒息と激痛に耐えた。

 床を転げ回り、這いつくばり、両足を踏ん張って腹を突っ張ったりして身体から必死に苦痛を逃がそうとしていた。

 涙や鼻水に顔が塗れても、嘔吐して身体を汚しても、服が破れスカートまで捲れても彼女には取り繕う暇が無い。


 その必死な姿は、剣聖と謳われた名声も女性としての尊厳も全て無に帰す無様さだった。

 一人の未熟な戦士として、ボロボロになりながら苦難へ立ち向かう泥臭さだった。


「…ル、ルキウス様!」


 そこへクレドが声を張る。

 ルキウスはそれも無視してディアナの胸ぐらを掴み上げて腹部周辺の急所を順番に、常に全力で殴り付ける。

 次第にディアナから溢れる吐瀉物が赤に変わり、その量が増していくが、その恐ろしい光景にも負けずクレドは叫んだ。


「ルキウス様! 一旦修業をお止めください! 今のはルナちゃんが飛び出していって彼女の気が逸れたんですから、もうフェアな勝負とは呼べません! 一度彼女を仙活湯で治して、それから誰もいない部屋に移動してから修業を再開してはいただけませんか!? こんな大勢の前で彼女にこれ以上醜態を晒させるなど、剰りにも――」


 それでもルキウスは答えず殴り続ける。

 その光景を前に歯を食い縛っているクレドを一瞥したヴィスは、気を失っているルナの方へとスタスタ歩き出していた。

 クレドはそんな彼の肩を掴み止める。


「…な、なあ怪霊王。君だってディアナの味方をしてくれるんだろ? そう言ったはずだ。何で止めようとしないんだよ?」


「奴も本当に危なくなれば仙攻丹を使うだろう。聞けばあのルキウスという男は怪霊術師ではないらしいではないか。ならばそこまで心配してやることはあるまい。貴様だってディアナが逃げずに立ち向かおうとしているから無理に止めようとはしていないのだろう?」


 クレドは何も言えなくなり彼から手を放した。

 そしてヴィスはゆっくりとルナの下へ歩いていく。


 ルキウスはなおもディアナを殴り付けていた。

 しかし、最後に打った一発の手応えがそれまでと違うのに気が付くと、ルキウスは彼女をパッと突き放して後退り床に尻をついたまま静止する彼女を見つめる。


 ディアナの骨格の歪みが、無数の裂傷が見る見る内に修復していき、そうして痛みや窒息からも解放された彼女が今一度戦意を持った眼でルキウスに対峙する。

 そして立ち上がった彼女に、ルキウスは冷たい視線を向けながら告げる。


「…少しは前より忍耐が身に付いたのは認めてやろう。余程人前で、それも自分の男が見ている前で失禁するのはいただけなかったと見える。だが、お前の気が逸れたのは危機感が足りないからだ。そして醜態を晒していたのは、お前が弱いからだ。もう言い訳は通用せんぞ」


「…肝に銘じております、お師匠様」


 ディアナは再び構えを取る。

 それを眺めながらルナを抱き上げていたヴィスと眼が合ったディアナだが、今度はすぐにルキウスに意識を戻した。


「では行きます、師匠…」


「…仙攻丹とやらは使わんのか。治癒だけでなく肉体も強化されるのだろう? 先程の突いた感触で分かった」


「……仙攻丹は、後遺症が残らないための応急処置として治癒力を上げるためだけに使います。…あなたの剣は、僕の…あたしの実力で抜かせてみせる」


 ルキウスは「フン」と鼻を鳴らしたが、僅かに笑っているようにも感じられた。

 そしてディアナが攻撃を仕掛けようと意気込んだが、それを「待った」とヴィスが制し、ルキウスの背中を静かに睨んで呼び掛けた。


「剣帝、貴様は何故それほどの武の才を持ちながら怪霊術を身に付けぬのだ。武術だけではない…その冷徹さ、誇り高さ…貴様は人間レベルの達人で終わるには惜しい程の逸材なのだぞ。その自覚はあるのか?」


 ルキウスは数秒はそのままでいたが、ふと振り返ってヴィスの目を真っ直ぐに見た。


「…俺はどうしても領域とやらが開かんらしい。死に目は何度も見たが未だ開いたことがない。つまり俺には怪霊術の才が無い。高められるのは武のみだ」


「…ほう。そうか、確か人間は死の恐怖から領域が開くのだったな。死をも恐れぬ武人ならば却って領域を開くには至らんということか。…ふむ、難儀な。…例えば貴様、今からこの俺様と殺し合えと言われたら恐怖するのか?」


「…俺も士の端くれ、一目見れば力量の差は分かる。このディアナとて怪霊術を使えば俺を圧倒できることは理解している。であれば、俺がお前に勝つことなど万に一つも無いだろう。お前との勝負が本当に避けられないのであれば、俺は死ぬだけだ。お前の首の一つも掻き切って一矢報いることはしようがな」


「フフフッ…! 剣帝ルキウスか…益々気に入った! だがそれだけにやはり惜しい。今度あの老い耄れに会えたなら領域を開く別の方法を聞き出してやろう。そして貴様がその武術を怪霊術と兼ね合わせた暁には決闘を申し入れる」


「…フ…。それは願ってもないことだな。その日が来るなら、またいずれ…」


 ヴィスは右手の指をバキバキと折り鳴らしてニタリと好戦的に笑い、その場を去っていく。

 ポカンと彼を眺めていたクレドだったが、ルキウスが丁度此方を向いている今が機会だと思い、身を乗り出して叫ぶ。


「ルキウス様、もう一度お頼み申し上げます! どうか修業の場所を移されてください! 僕はディアナの熱意を尊重し修業を止めることは致しませんが、それでも彼女が痛めつけられるのを衆目に晒されるのは我慢がなりません!」


 しかしルキウスはそれに背を向ける。

 ディアナも優しくクレドに笑い掛けるとすぐにルキウスへ走り込んで一手目の動作に入った。

 ヴィスもルナを抱いて出入口まで辿り着く。


 …しかし、今度こそクレドは引き下がらなかった。


「…でしたら僕が他の兵士全員ここから追い出しますッ!」


 彼の大声が訓練場にグワンと余韻を響かせ、全ての足を止めた。

 ディアナも一瞬足を止めたが、その隙を狙った胴廻し回転蹴りを間一髪察して左拳外受けの格好で避け遠間に逃げる。

 そこで漸くルキウスもクレドへ振り向いた。


「今日から五日間出入口の扉に張り付いて誰一人通させません! それで構いませんね!?」


 ルキウスは彼の敵意染みた眼光を受け止めると「好きにしろ」と吐き捨ててディアナへ襲い掛かった。

 そうして修業が再開されると、クレドはまた大きく声を上げて深々と頭を下げる。


「ありがとうございます!」



※※※※※※※※※※※



 …修業三日目の夕方、ルナとヴィスは客室で各々の修業を続けていた。

 しかしそれぞれやりたいことが違うのが災いし小さな諍いを生んでいる。


 ルナは勿論ベッドの上に座禅を組み、調身調息に専念している。

 一応は怪霊術師として修業を受けてきているクレドもその手のアドバイスはできたため、彼の言葉を思い返しながら彼女なりに続けていた。


「…姿勢は頭を上から糸で引っ張られてるイメージでピンと伸ばして、息は丹田に気を吹き込むように深くゆっくりと…それでいて穏やかに…」


 そうして彼女は目を瞑り、身体が震えないように集中する。

 調子が出てくると無心になることに努める。


 しかし自分の修業も進めたいヴィスが無遠慮に声を掛けて彼女の気を散らしてしまうのだった。


「おい、ルナ。『幻弄』をやってみせるから相手になれ」


「……」


「おい無視するな。俺様に付き合え」


「…だぁー、もう…。わぁったよ…ほら、やれよ」


 ルナは大きな溜め息をついて目を開ける。

 正面に立ったヴィスは意識を集中して、ルナの波長に合わせた怪霊力を展開する。

 そして「どうだ?」と訊ねるも、ルナは肩を竦めて左右に首を振る。


「ダメダメ、何にも変わってねぇ。ヴィス、おめえどんなイメージを送ろうとしたんでぇ?」


「ふむ…、この部屋中の壁を血で彩ったように想像してみたのだが…」


「怖ぇよ! 成功してたらオレっちが気絶してたぞ! …もうちっとこう、ほら、辺り一面花畑になってる~、とか…優しいイメージで挑戦してくれ。…そんで、多分失敗したのは想像するだけして怪霊力にイメージを付与してないせいだと思うから、そこの感覚を上手いこと掴めりゃすぐできると思うぞ。じゃ、オレっち瞑想すっから十分くらい待ってから声を掛けてくれ」


 ルナは目を瞑り始めながら告げたが、そうすぐにはヴィスも解放してくれない。


「待て、貴様が相手にならなければ俺様も練習のしようがないのだ。あの男も訓練場から一歩も離れんから、貴様以外相手がいない」


「あの男ってクレドか? ルキウス様とごっちゃになるからもう意地張らず名前で呼んでやれって」


「ルキウスはルキウスだ、奴の信条は非常に分かり易く親しみ易かった。故に名前呼びだ。…ディアナの男に関してはまだ掴みかねている所があるのでな、もう暫しはこのままだ。あの男はあれで胸の内に得体の知れない大きな力を秘めているように感じる。腕力や霊力ではない、心の力とでも言うべきものがある。その正体、根元を見極めて初めて名前で呼んでもいい」


「…人と真剣に向き合えるのはまぁ良いことだと思うけどよ、限度ってのがあるよな、限度ってのが」


 そうしてまた溜め息をついたルナだったが、咄嗟の閃きで目を大きく開いた。

 これは名案、と思い少し彼女の機嫌も良くなる。


「じゃあさ、馬小屋行こうぜ。メモリア達を預けてるとこさ。あいつら相手に『幻弄』の練習してやりゃいいんでい。あいつらだって急に周りの光景とかが変わったりしたら慌てるだろうから、それっぽい反応が返ってくるようになったらオレっち相手で試せばいいんでぇ」


「だが、奴ら言葉が通じんだろう。何も伝えずいきなりそんなことをしては混乱させてしまう。それで怯えさせてしまってはどうする? やめておいた方がいいのではないか?」


「…ほえ~、おめえって何か身内にゃ過保護だよなぁ。そんくれぇ大丈夫だって。そこはお詫びでいつもより上等な餌とか食わしてやりゃあいいんでぇ」


 ふむ…、と腕を組んで渋るヴィス。

 そこへ、カチャリと控え目な音を立ててシフトドレスだけのだらしない格好をした娘が入ってくる。


 シャワーを浴びたままろくに乾かさないで来たらしいと分かるずぶ濡れの亜麻色の髪がポタポタと雫を垂らし、その下からはどんよりと疲労を溜め込んだ空色の瞳が覗く。

 その後をクレドが駆け足でついてきて、タオルで髪を拭いてやろうとするのを見て、ヴィスとルナもその娘がディアナであることを理解する。


「ディ、ディアナ、大丈夫か!? すっげぇ(やつ)れてんぞ! ちゃんと飯食ってんのか?」


「食べてないわよ、どうせ吐くもの…」


 ディアナは覇気の無い声で返すとスタスタ歩いて壁に立て掛けた荷物を漁り、剣を二腰ベルトで括りつけてそのまま部屋を出ていこうとする。

 その背中には少しの物寂しさが乗っているように見え、ルナはそれに何と声を掛けるべきか悩んだ。


「…無理をする必要は無いのだぞ、ディアナ。今回の戦いは俺が決着を――」


 声を上げたのはヴィスだった。

 しかし彼女はそれに「大丈夫」と答えた。


 そうして振り向いた彼女の作り笑顔は、怪霊衆討伐の使命に追われて沈んでいた頃とは少しだけ違っていた。

 それは何処か、憑き物が落ちたような、疲れすぎて開き直ったような不思議な笑顔だ。


「大丈夫よ。だって、無理じゃないもの」


 彼女はそう言って、左手をクレドに差し出す。

 クレドは黙って頷き、その手を繋いで共に部屋を出ていった。


「…ディアナ、あんなにヘトヘトになっちまって…この後も寝ないで戦うんだろ? …大丈夫かなぁ…」


 ルナは眉を八の字にして心配しているが、ヴィスはディアナの背中を見て胸が踊った。

 それは、彼が彼女に抱いていたあの憧れが、再び顔を出してきたような感触に包まれたがためだった。


 …剣聖ディアナとして初めて対面した時の彼女の、あの凛々しさが帰ってきたような気がしたのだった。

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