二三ノ業 初めての矛盾、揺さぶられた王の選択
「そいじゃあ、落ち着いたところで凄霊長のことを話して聞かせてやろうかの。――…と、思ったんじゃが…」
客室の中央に小さな円テーブルを挟んで配置した一対のソファー。
その一方にどっかり座り込んだ神仙は、対面に横並んで座るディアナとルナにそう切り出していた。
呆れ笑いを浮かべた彼は顔を横に向け、腕を組み壁に背凭れて立つヴィスに視線を移す。
ヴィスは苛立たしそうに全員から顔を背けていた。
「お前さんら、何、喧嘩でもした? とりあえずこっちゃ来いよ、わしが話し辛いじゃろ」
「うるせぇ。俺様に構わずさっさと話せ」
「えぇ…。…じゃあ、ディアナとルナさんだけ見て話すぞ。いいな? いいんじゃな?」
ヴィスは一瞬殺意の滲んだ眼を向けて、すぐに眼を戻した。
神仙は面倒臭そうに溜め息をつき、仕方無しに本題に入ることにした。
ルナはぷくーっと頬を膨らませて「ヴィスおめえ何かしたんなら謝れよー」と小言を言ったが、直後に神仙が話し始めたのでそれ以上の発展は無い。
ディアナはヴィスの方を繁々と見つつそれに耳を貸した。
「凄霊長っちゅーのは、怪霊術や怪霊獣という概念が生まれるよりもずっと前…それこそ人類が文明を築いて間も無い頃から語り継がれておる伝説上の存在じゃ。その姿については諸説あるので何とも言えないのじゃが、無限のエネルギーを持つ究極の存在であるということは確かじゃ。…最近エ連の連中が文献を掻き集めてわしに研究の依頼をしてきて、わしもそこで詳しいことを知ったのじゃがな」
そこでピッと手を挙げたのはルナだった。
ディアナはまだヴィスのことが少し気になり、それほど話に集中していられなかった。
「無限のエネルギー…ってぇのは、霊力が半端ねぇってことですか?」
「ちぃとだけ違うのぉ。このエネルギーは、霊力や身体能力、魂などのような狭い括りに縛られる物ではない。凄霊長はあらゆる力を全て含有し、超越した唯一無二のエネルギー体なのじゃ。……もっと噛み砕いて言えば、『肉体』『霊力』『魂』『怪霊力』の境界が曖昧となって混ざり合い、それらを際限無く高めることができる者ということじゃ。この世に存在する全てのものを自らの力として取り込むことで、そのエネルギーは無限へと至る」
「……さっぱり分かんねぇぞ…」
少しは考えたものの早々に頭を抱えることになったルナに対し、神仙は楽しげに笑って「ふむ…」と右上に眼を動かす。
「…例えば、そうじゃな。まずディアナの奴は収霊という技で、大気中に漂う怪霊力を――本来波長の異なる怪霊力を領域に取り入れることはできんから――外経門に触れたものから順に自分の波長に合わせることで領域に取り入れておるな。…まぁ難しけりゃ怪霊力を取り込める技だとだけ思ってくれりゃいい訳じゃが、この技を凄霊長が使うとどうなると思う?」
「さ、さぁ…。どうなるんですか?」
「うむ、答えはな…『肉体に触れた物は怪霊力だろうが霊力だろうが肉体だろうが魂だろうが波長変換の手間も無く全て自分の力の一部にする』じゃ。しかも、一瞬でな。…そして、通常の術者は領域の大きさを超えて取り込むことはできんし、取り込んだ怪霊力を霊力に変換するなどもできんからさっさと技として使わんとならん。しかし凄霊長ならば、上限無く取り込めてしまう上に、怪霊力と霊力の区別が存在せんので半永久的に溜め込んでおける」
…おおぉ、と大きく口を開けて驚いたルナに、神仙は満足そうに笑う。
「そいつぁ最強ですね…」
「な、まさに最強じゃろ? 故に伝説なんじゃ。文献に残っておる歴史の中では実に三回しか現れたことの無い幻の存在じゃよ」
「…でも、そんなにすげぇ奴ら、怪霊衆より厄介じゃねぇですか。その時の人間達ってそいつらをどうしたんですか?」
「ホッホッホ…。いや、きっとどうにかする必要も無かったろうな。これはわしが研究で築いた中で最も有力な見解なんじゃが、凄霊長となるにはC.A.P.を優に超えた凄絶な極限状態と大きな覚悟、そして精練された純粋な魂が必要となる。そんな大層なものを抱ける者が悪い奴なはずがないじゃろ? 当時の人間達が彼らを恐れ、事実のように悪行を吹聴した記録は勿論あるが、今となっては容易に見抜ける杜撰な噂ばかりじゃったしな。その力を求めて国家間の無駄な争いに発展したこともあったようじゃが、凄霊長は決してその身を俗世に晒さなかったらしい。凄霊長は三度に亘り人類の脅威の前にのみ姿を現し、世の変革をもたらし去っていく」
ほうほう…、と難しい顔で頷いているルナだったが、ふと小さく首を捻る。
神仙がそれを優しく見守っていると、その眼に促されて素直な疑問が飛び出す。
「シーエーピーって何でぇ?」
「…ほぉ」
心底不思議そうにしているルナの様子に、寧ろ彼の方も訝しげな視線を送る。
その視線がスッとディアナへ向くと、彼女は『しまった』というような苦い顔で振り返り急いで弁明を始めた。
「す、すみませんお師匠様…! ルナの怪霊領域が解放されてから話すつもりでいたんですが、…その、タイミングを逃してズルズルと…」
「んー、まぁ知らんでも困らんしなぁ。でも怪霊術師には常識レベルの単語じゃし…」
「は、はい! 割り込んで申し訳ありませんがこの場で説明を…!」
ディアナはせかせかと姿勢を正して咳払いし、上半身をルナへと向けた。
ルナも真似るようにせかせかと姿勢を正して向かい合う。
「…えっとね、ルナ…C.A.P.っていうのは、『中枢性覚醒現象』の略語だよ。人って命の危機に瀕した時、火事場の馬鹿力みたいな感じで普段ではあり得ない力を発揮することがあるの。一般常識ではこの原理が『普段は身体への負担が無いように三割に抑えられてる力が五割以上発揮されるから』とされてるけど、本当は防衛本能に刺激されて怪霊領域が拡張されて怪霊力の暴走が起きてるの。この現象がC.A.P.と呼ばれてて、これを発動することで怪霊術師達は領域を抉じ開けていくの。ルナも第一修業でたくさん崖から落ちたりしてたけど、あれはC.A.P.を引き起こすためにわざとやらせていたの。僕が怖い感じで追い詰めてたのもそのため。……ちゃんとあの時に説明しなきゃいけなかったね、ごめんね」
「お、おっす。…まぁ想像してた通りでした。大丈夫です、おっしょーさま。オレっち、ちゃんと分かってました」
「ほ、ほんとっ? で、でもごめんね。今更の話になって…」
神仙の視線を気にして萎縮気味のディアナの姿に、ルナは安心させるようにカラカラと笑って頷く。
あまりこの空気を引き摺るのは好ましくないので、気分一新させたい神仙は一息ついてヴィスへと振り向き、「そういやお前さん」と声を掛けていた。
彼はただの話題作りのつもりで、
「船に乗る前、面白いことを訊いて来おったよな。『凄霊長に会ったことがあるのか』とか。お前さんはどうじゃ? 会ったことがあるのか?」
ずっと不機嫌そうにしていたヴィスだったが、その質問に暫し物思わしげに沈黙し、静かに顔を上げて答えた。
「…半凄霊長には会ったことがあるぜ」
その返事に神仙の眼が変わる。
ルナとディアナも空気の違いを敏感に感じ取り、即座に思考を切り替えて会話に耳を澄ませた。
「…なに、半凄霊長じゃと…? …何じゃそりゃ、半分だけ凄霊長ってのかい」
「らしいな、本人談だが。…しかし、確かに奴は『瞬間移動』やその他特殊な技を多く用いる。信憑性はあるだろうぜ。ただ半分と言っているように、奴のエネルギーには際限があった。決して無限などではない。それに常に半凄霊長の状態という訳ではなく、通常時にはただ強力なだけの怪霊獣だ。そうでなければ奴が俺様の下に甘んじているはずがないからな」
彼の話が進むに連れ一つの確信を得たディアナは「それは誰なの…?」と問い掛ける。
ヴィスは振り向いて答えかけていたが、眼が合うなり思い出したように舌打ちをかまして顔を背けてしまう。
神仙はただ静かに俯いて熟考しているだけでその場へのフォローも無く、そうした諸々の状況の板挟みに遭ったルナは青冷めた顔でキョロキョロしながら「か、怪霊衆の誰かかっ?」と無理に声を弾ませた。
ヴィスは少し返答を渋ったが、不安そうなルナの姿を眼にすると大きな溜め息をついてディアナに顔を向けた。
「……リーラハールス。奴が半凄霊長だ」
「…ありがとう。……リーラハールスと言えば、…確か、あなたを含めた怪霊衆での三番手だった奴だよね。…ということは、現怪霊衆のトップは半凄霊長以上の実力者なのか…」
ディアナが小さく頭を下げて思案に耽ると、彼はまた不機嫌そうにフン…と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
ルナはその険悪な状況に密かに頭を抱えて「う~…」と唸っていたが、頭痛を催し始めたので自分では対処しきれないと割り切ることにして話に加わった。
「…そんなすげぇ奴らをディアナは殺そうとしてんのか…。…本当に、そんなのディアナだけで倒せんのか…?」
「……倒さないといけないよ。放っておいたらいつか人間に再び刃を向けてくるからね。姉さんはそんなの望んでない。…だから、もし僕がその道中でリタイアすることになったら……」
彼女は優しく、儚くルナを見つめた。
ルナにはその視線の意味が分からず、コテンと首を傾げている。
そして直後、ヴィスは「チッ…!!」と一際大きな舌打ちを奏でて速足にドアへと歩いていく。
「えっ、あ、おい!? ヴィス、まだ話が途中で――」
「知るか!! 俺様には関係無い! 貴様らで好きに話してろ愚図どもがッ!!」
ルナの制止も省みず彼はドアを蹴り飛ばし、木片と壊れた金具が散らばった廊下を歩いて去っていった。
その轟音にビクッと飛び上がり立ったルナは、そのまま残されたドアの残骸を見つめて「あ、あぁ~…あーあ…」と気まずそうにディアナへと視線を移す。
しかしディアナは、ヴィスの仕出かした事を咎めるような殊勝な気が起こらず、ただ遠退いていく足音に気を取られていた。
「…あやつ、こう…、何とか常識を身に付けてはくれんもんかのぉ…。まぁ、わしが片付けてやろう」
神仙は如何にも面倒臭そうにのっしりと立ち上がると、木片を広い集めにトボトボと歩いていった。
ルナは彼の丸まった背中を見送るとソファーに座り直してまたディアナを見る。
ディアナはルナの心配そうな眼に何を見てか、「大丈夫よ」と微笑む。
そして俯くと、「…大丈夫」ともう一度呟く。
「…まだリーラと戦う訳ではないから。…今回の相手は『メデューサ』。怪霊衆の中では一番弱いらしいから、…気は抜けないけど、絶望的ではない」
ルナには彼女が、不安と戦っているように見えていた。
※※※※※※※※※※※
客室を去って間も無く馬の収容スペースへと辿り着いたヴィスは、入口傍の壁に立て掛けてあった餌袋から左手一杯に豆を取り出してイプセの前に差し出した。
今度は抵抗されず、イプセの食が遠慮無く進むようになっていた。
それをぼんやりと眺めた彼は、先程の怒りがゆっくりと引いていって、代わりに胸中へと現れた一つの悩み事に耽考した。
それは、今この船で向かっている目的地のことであった。
…彼は以前、嘘の地図を書いてディアナを惑わし、本当はリーラの基地である場所をメデューサの基地として伝えた。
故に今進んでいるのはリーラへの道なのだ。
準備不足のディアナ達をリーラの下へ連れていき、絶望を与えて封印を解除させる。
そうすればわざわざ怪霊衆が全滅するのを待つ必要は無い。
ディアナが従わないなら殺せばいい。
どのみち放っておけばリーラは独断でディアナを殺すだろう。
それが彼の作戦だったはずだった。
…しかし今日、リーラの名が話に挙がってくるまで彼はその事をまるっきり忘れてしまっていた。
そんな作戦など無かったことにして、『いずれディアナは怪霊衆を全滅させ得る』と信じていたのだ。
彼はそれが解せなかった。
「…自分で立てた計画を忘れるような阿呆だったか、俺は…」
自嘲して呟くが、それと同時に答えが彼の中にフッと浮いて出た。
「…そんな事も忘れてしまうほど、奴らとの時間に心を奪われたというのか…」
その実感が彼にはあった。
認めたくはないことであったが、…ルナの成長を見守り、時に怪霊獣と戦い、人間の壁を超えたディアナの力を目の当たりにすることや、ディアナやルナと言い争うこと…、その全てが彼には初めてのもので充実していたと気が付いたのだった。
そしてそれを失うことになる未来を、無意識に拒絶したのだった。
時間さえ掛ければディアナは強くなると今も信じているヴィスだが、それでも今リーラと戦って勝ち目が無いことくらいは分かる。
このまま進めば、少なくともこれまで続いていた充実した時間は確実に失われる。
最悪の場合、おそらくディアナはリーラに殺される。
…彼は明確に『止めたい』と感じていた。
しかし、それでも動き出せずにいたのだ。
「…俺様は何を悩んでいるのだ…。……流れを止めたければ、嘘だと打ち明ければいい。…それしかないではないか。……それが何故、口を閉ざしているのだ…」
彼は自らに言い聞かせた。
しかしその言葉通り、彼はやはり動けない。
…もし、『メデューサの居所に嘘をついていた』と告げた時、何が起こるだろう。
彼はこう考えたのだ。
ディアナやルナとの関係が崩れる、と。
…そんな人間のような事を自分が気にするはずがないと、彼は何度も眼を背けようとした。
しかし、見つめ直せば直すほど、それしかないと感じるのだった。
いつの間にかイプセの食事が終わっていた。
ヴィスは僅かに湿った手を見下ろして眉を寄せると、洗面器の水を出してその手を洗った。
そうしながらも、既に答えの出ている問いを延々と自身に投げ掛けて、彼は呆然として洗面器の水を垂れ流しにしていた。
《…何じゃお前さん、大層な剣幕で出てったと思ったら馬の餌なんぞやっとるのか》
ふと、そんな神仙の声が彼の頭に響いた。
彼は驚き、急いで周囲を見渡したが、神仙の姿は何処にも無い。
テレパシーの存在は彼も知っていたが、実際に彼が受けるのは初めての事だった。
彼は蛇口を閉じて気を取り直すと徐に口を開く。
「あの女のことを考えるだけで時間を浪費するなど馬鹿らしい。それくらいなら駄馬を餌付けした方が合理的だ。そうだろう?」
しかし彼の返事に被さるようにまた神仙の言葉が届いた。
《あ、お前さんも送心を使えるのか知らんが、会話めんどくさいからわしだけ話すぞ。何か話すことがありゃ、後でディアナ達がいないところで話し掛けてこい》
それを聞き、今のが独り言に終わったようだと分かると、ヴィスはジロリと馬を睨んで咳払いし、佇んだまま傾聴した。
当然ながら、馬達は何も知らず脚を畳んで昼寝を始めている。
《お前さんが悩んどる事のヒントを出そうと思ってな。答えはもうすぐそこまで来ておるのだから、これを伝えれば解決するはずじゃ》
「…ヒントだと…?」
《いいか、言うぞ。…まずはお前さんがディアナに憧れとる理由から洗っていくのじゃ。お前さんのディアナに対する憧れは『人間という弱小種族でありながらその限界を超えて怪霊獣と渡り合っている』という所にあろう? …産まれてから最強であり続けたお前さんは、『挑戦』と『成長』に飢えておる。だからそれを絶えず続けて人の限界を超えたディアナに執着しておるんじゃ》
その助言はすんなりと腑に落ちた。
ヴィスも大きく首肯し、その先を求める。
《しかし、じゃ。それなら必ずしもディアナに憧れずとも良いのじゃよ。人間の中では怪霊術の先駆者であり、ディアナ以上に限界を超えて高め続けたこのわしがおるんじゃからな。特に強さに主軸を置いておるお前さんの道理で行けば、ディアナよりこのわしの方こそ憧れの対象になるべきだったはずじゃ。…しかし、お前さんはそれでもディアナを選んだ。…分かるか? ここに大きなヒントがあるのじゃぞ》
ヴィスは、そう言われれば、と眉根を寄せた。
確かにディアナより神仙を追い掛ける方が正しいように感じた。
しかし、やはり彼はディアナを追い掛けたく思った。
《その理由を見つけることがお前さんの悩みを打開することに直結するのじゃ。お前さんにとってディアナはどんな存在じゃ? それと比べてわしはどうじゃ? それさえ分かれば非常に簡単なことなんじゃ。ただし、わしに答えをせがむなよ。これはお前さんが自分で気付いてこそ意味がある。その真理を手にした時、お前さんはきっと大きく生まれ変わる》
ヴィスは今一度、ディアナを憧れることの利点を真剣に考えることにした。
神仙には無くて、ディアナには有るという、『憧れるべき価値』とは何かを…。
技術・経験・力…これらは全て神仙が上回っている。
人間の外見の美醜などはヴィスには分からないので、それも価値には結び付かない。
ならば残されるのは、『心』だけだ。
その者が胸に抱く信念・器・誇り…それが評価に価すれば彼が憧れるのも納得できた。
しかし、甲板で眼にした弱々しく浅薄な彼女の姿を彼は覚えている。
あの姿にそのような憧れを抱く要素があるのかと言えば、決してそんなことはない。
もはや、ディアナに憧れるべき何かがあるのかどうか、彼自身にも分からなくなっていた。
その時、まるでそれを感じ取ったかのように神仙の最後のヒントが呈示される。
《…しかし、気づいておるか? もうお前さんはあやつに憧れてなどおらんということを…。お前さんはディアナに失望し、憧れに自信を持てなくなったのだ。しかし、それでもやはり信じたい。ディアナに失望し、情けない人間だと知ってもなお、それを包み込めるほどの何かをディアナが持っていると漠然と知っておる。称賛されるべき人間じゃと、欠点だけの存在ではないと、そう己の心が叫んでおる。…分かるか、それが『歩み寄る』ということなのじゃ。ディアナという一人の女の子を尊重し、認めるということじゃ》
「…………」
《お前さんがどうしてディアナを称賛したいのか、それを考えてみぃ。…わしからは以上じゃ。頑張れよ》
神仙の声はそれで途絶えた。
しかし、ヴィスは尚更分からなくなった。
今、彼はディアナに拘る理由を見失っている。
その理由無しに尊重するなど、あり得ないことだと感じている。
考えることが煩わしく、さっさと『つまらない女だ』と切り捨てて、リーラに殺させてやればいいとすら思う。
…それでもディアナを諦めたくない。
彼はそう思っていた。
その夜、客室にも戻らず甲板から青白い月を見上げていたヴィスの下へ神仙が訪ねてきた。
神仙が一言「相談に乗るか?」と訊くと、彼は振り向きもせず、
「俺の答えは俺が決める」
それがただの意地でしかないと分かりながらも、神仙は無言のまま隣に立って同じ月を見上げるだけでいた。
サリカ大陸への到着までの一晩、ヴィスは誰との会話にも応じず思案に暮れていた。
※※※※※※※※※※※
――…そして港に着いてもそれは変わらない。
一人で港町で待つこととなった神仙との別れにも、彼は一言さえも残さなかった。
お前さんらの使命じゃから手助けせんが頑張れよ、と神仙。
二怪霊神仙の弟子として恥じぬ戦いをしてきます、とディアナ。
緊張すっけどがんばるぞ、とルナ。
彼だけはそのやり取りに背を向けて、見た目の上ではきびきびと突き進んでいた。
ディアナとルナは彼に遅れないように急いで追い掛け、早々に町を出る。
…その時のヴィスの表情を知っていたのは、神仙ただ一人かもしれない。
ヴィスにとってその後の数日は剰りにも目紛しかった。
考え事を気取られまいとただ速く馬を走らせて、考えているつもりが堂々巡りばかり続き、そうしていつの間にか十日も過ぎていた。
未だに答えが出せずヴィスは焦っていた。
このまま後十日馬を走らせれば、リーラの基地に辿り着く。
葛藤に疲れ、思考を止めた彼は思わずイプセの足まで止めさせた。
すぐに気が付いて振り返ったディアナは「ルナ、ストップ」と指示を出して引き返してくる。
彼女は彼の顔色を見て「…休む?」と提案し、馬の背に乗せていた干し草詰めの袋を撫でた。
「…いや」
彼は悲壮な覚悟を帯びた険しい顔でディアナを向き、ルナを一瞥する。
彼女らの不思議そうな、無知な顔を見て、その決意は鈍り出す。
そしてとうとうその決意は、漠然とした恐怖に折られた。
「……俺は、港に戻る。この先へは貴様らだけで行け」
それはヴィスが考えた中でも最悪の、何の解決にもならない答えだった。
ディアナの死の未来を拒絶していながらも、具体的な解決は取らず、ただそれを目撃せずに済むだけの道を選んでいた。
…今ならまだ撤回できる、と彼は言った直後に思った。
しかし口は動かなかった。
この時に彼は気が付いたのだった。
…神仙が話した『己の敵』とは、こういうことなのだと…。
「…な、何ででぇ…? …もう半分まで来たんだぞ。もう半分走れば着くからがんばろうぜ。何か、おめえらしくねぇぞ…」
ルナは不可解そうに眉を寄せて前に乗り出し、そう励ましていた。
その決定的なズレが、彼の敵を強固にした。
少しの間じっと彼の表情を見ていたディアナは、何処か悲しげな笑みを浮かべた。
ヴィスはそれに目を見開いた。
それは彼が彼女から向けられた中で、最も優しく温かい笑顔だった。
「…うん、ここまで付き合ってくれてありがとう。なるべく早く終わるように僕達も急ぐから、お師匠様と一緒に待ってて」
ヴィスは息を呑んで彼女と視線を交わし合うと、堪えるように顔をしかめてイプセに踵を返させた。
そしてすぐ、全速力で元来た道を引き返していく。
「…な、何だろうな…。…いいのか、ディアナ?」
ルナは難しそうに首を捻って彼女に問い掛けた。
ディアナは遠退いていくヴィスから眼を背けるように進むべき向きへ戻り、小さく頷いた。
「僕達は今から、元々彼の仲間だった者を殺そうとしてる。…そう考えたら、やっぱりね」
「…でも、あいつ、そんなの気にする奴かな…」
「……僕も分からない。彼も知らない内に怪霊衆に仲間意識ができてたのかもしれないし、それとは全く違う理由かもしれない。…でも、辛そうで、いつもの彼らしくなかったから…」
そう告げて彼女は進み始めた。
その迷いはセクレトにも伝わったのか、走りも弱々しい。
「…それに、あたしにはもう彼を縛りつける気持ちも権利も無いから…」
その心細い声にルナも何か応えなければと考えたが、どうしてもヴィスとディアナとの間に起きた出来事が掴めなくて、小さな無力感に包まれた。
だからこそ彼女は、「…行こうぜ!」と笑いかけてディアナを導くように前を走った。
そうして三竦みの足音は、大陸の中心で離れ離れになっていく。




