一一ノ業 命懸けの大難関、最初の修業は岩山登り!
――同日、ラティナ帝国首都パロより南西千キロメートル、ディエシレの丘。
リーラハールスは王を出迎えんと自らその地に赴いていた。
その焼け焦げた大地を埋め尽くす凝固した血溜まりの数々は確かに王が戦った痕跡であると認め、ならば何故王は自分の下へ帰還しなかったのかと中心に佇み黙考する。
付き人のノサティスは大勢のオーグレスを引き連れて周囲を歩き回ったが、王の居所を掴めず身の縮む思いでリーラの下へ戻り跪いていった。
普段は紅葉のように尖って逆立った炎の髪がしょんぼりと弱まり、金の数珠を首に掛け、赤い腰巻きを巻き付けた五尺にもなる勇敢そうな身体も、背を丸めていて情けなく映る。
そんなノサティスの黒銅のような肌に対し、清廉さすら感じさせる白緑の美しい肌を肩から脚まで覆う黒いマントの上下から覗かせるリーラは、その手足を血に染めた様や六尺ほどの長身、そして整った顔立ちに金の目と全て後ろに流した黒い長髪も相俟って奇妙な気品を漂わせていた。
ノサティスが申し訳なさそうに赤い瞳を伏せて報告を始める中、リーラは然程咎めた様子も無く周囲を見渡しながら傾聴した。
「…リ、リーラハールス様…申し訳ございません、ただいまオーガどもを総動員させて探し回らせておりますので、もう暫しのご猶予を…」
「ええ、ご苦労でしたね、ノサティス。…しかし、我が王は既にこの辺りから撤退しているようです。広域を対象に読霊を用いたというのにまるで見つかりません。あれほど強大な霊力ですから、近くにいればすぐに見つかるというもの…。既に地の果てまで離れてしまっているとしか思えません」
「さ、左様でございますか…。では、如何に…?」
「オーガの方々には引き続き捜索をお願いしましょう。但し一月に一度は基地へ戻るように伝えてください。案外早くに捜索の必要が無くなるかもしれませんからね。私は大陸を渡ってきている怪霊衆の皆様から話を伺って廻ります。お前にはその間サリカ基地の留守を任せます」
「…は、はっ!」
リーラの基地を任されることは、ノサティスにとって何にも代えがたい重大な使命だった。
彼は一層声を張って真摯に引き受けると、畏れ多いと体現するように深く頭を下げた。
リーラはそんな彼にフッと笑みを浮かべ、身を屈めて優しくその肩に触れた。
「そう気を張ることはありませんよ…。お前の仕事ぶりには私もいつも感心させられています。基地の方々からの信頼も厚い。ノサティス、お前だから私も安心して任せているんですよ」
「…は、はい! …ありがたき、幸せ…」
「ええ。…では、まずはラーベルナルドのところですかね。行って参ります。よろしくお願いしますよ」
リーラはそうしてノサティスへの激励を言い残すと颯爽と立ち上がり、全身から怪霊力を放出し微量を広域に散りばめ、瞬間移動を発動してその場から立ち去った。
ノサティスはリーラの強大で研ぎ澄まされた怪霊力を肌身に感じながら、立ち上がって彼の去っていった方へ向くと、一礼を以て心からの敬意を示す。
「…リーラ様、このノサティス、必ずやご期待に添える働きを致しましょう」
曇天の空の下、軍勢を従えたノサティスは駆け足で基地へと戻り始めた。
※※※※※※※※※※※
モンヴァーティ――その山肌は鋭利な岩に包まれ、殆ど垂直と変わらない斜面が続き、麓から山頂まで山をぐるりと回るように道が舗装されている。
山頂は雲を突き抜けて白澄み、山の所々から黒煙と噴火の煌めき、火山灰を含んだ火成岩が岩肌を侵食している。
その全ての光景が物珍しいルナはぱっくり口を開けて背伸びをしながらモンヴァーティを仰ぎ見ていた。
「…でっ…けぇ~……。くもまでつらぬいてらぁ…。……山…くも…」
ルナは感嘆の声を一頻り上げると、昼間にディアナが村長から破格の値で譲り受けて渡していた百科全書を開き始めた。
そうして山とは何か、雲とは何かを調べて、その二つの高低関係を探ろうとしていた。
「フン、然程高くもなかろう。エメレスタの方が二、三倍高かった」
「最高峰と比べてもしょうがないでしょ、修業しに来ただけなんだから。…というか、『高かった』って、登ったことがあるの?」
「殺しを覚える前は暇を持て余して各地を放浪していたからな。俺様に仰がせるなど生意気だと思って頂上まで一跳びし見下し返してやったものだ」
「そのまま余計なことを覚えなければ良かったのにねぇ…」
懐かしそうに語るヴィスに対してディアナは哀れみにも近い表情で溜め息を溢した。
それから何気無いような所作でヴィスの腕を縛る緊箍蛇にそっと触れて、彼がそこに眼を移すより早く怪霊力を流し込んでいた。
緊箍蛇は真っ赤に膨れ上がって小さな爆発を起こすと跡形も無く崩れ去り、両腕が唐突に自由になった彼はその腕を上げて見つめると訝しそうにディアナを見た。
「…何の真似だ」
「言ったじゃない、外すかどうかはソウラモンブルでの様子を見て決めるって。あなた、ちゃんと大人しくしていたから」
「…フン」
ヴィスは感謝などしないと言うようにただ鼻を鳴らして腕を組む。
ディアナはまた肩を竦めて小さく息をつくと、彼と同じようにモンヴァーティを再び仰いだ。
「それに、両手を使えないままでは登れないでしょうからね。修業をつけるのはルナの方だから、一々あなたに構ってられない」
「あ゛ぁ? …舐められたもんだな。そこまで言うなら足だけで登ってやる」
「手を使いなさい手を。クライミングの基本は手でぶら下がり、足で身体を押し上げるの。……まぁ、今回に限っては僕とヴィスだけね」
ディアナが最後に放った不可解な言葉の謎はすぐに氷解する。
彼女は百科全書に釘付けになっていたルナの足下へと腕を伸ばし、大地との契約を果たすと操霊に掛かる。
彼女の手から放たれた怪霊力の細い放電は地面から粘土を生成しルナの両足に絡み付かせ、ルナはそれに脚を縛られて姿勢のバランスを唐突に失う。
「お? …お、お、おぉ、ぉっ!?」
慌てて尻尾でバランスを維持しに掛かるも限度があり、倒れた方向に手をつけるように方向を転換すると、そこにディアナが駆けつけて彼女の正面に腕を突き出して凭れ掛かせた。
「あ、あんがとディアナ……あっちがう、おっしょーさま……あんがとです…」
「……『お師匠様、ありがとうございました』だよ。僕が脚を縛ったんだから礼は要らないけどね。…まぁ、敬語の間違いなんかその都度言及してたらテンポが悪いから、今後は一日の終わりに反省会でもしようか」
「おう…は、はいです」
ディアナは返事を聞くとすぐに「預かるよ」と百科全書を奪い取りリュックの中にしまい、そのままスタスタと山崖に近寄る。
その後をピョンピョンと両足跳びでついていくルナを横目で見ながらヴィスも山へと近づいていった。
「本当の登山ルートは此方と反対側にあるの。けど今回はルナを鍛えるために非正規ルートから登る。見て分かると思うけど、このオーバーハングを二五メートル登りきった上に休めそうなスペースがあるから、一先ず僕とヴィスが先にそこまで登るよ」
「それが、しゅぎょう…ですか? オレっちは二人がのぼるまでまつんですか?」
少しずつ敬語を理解し始めてきたルナの問い掛けに、ディアナは表情を消したまま頷き返し我先に岩壁を登り始めた。
ルナはその登り方を覚えようと懸命に眼を凝らしてディアナの挙動を頭に入れる。
「フン、要領の悪い…。こんなもの一跳びで上がればいいことだ」
ディアナが腕を伸ばして岩壁の突起に手を掛けている後ろでヴィスはそう言うと、山から少し距離を取って身を屈める。
ディアナは彼を止めるようなことはせず自分のペースで突起に爪先を掛け、慎重に体勢を整えると重心を移動するようにして身体を持ち上げ新たな突起に手を掛けた。
そしてヴィスは勢い良く山頂を目指して跳んでいくと、垂直に七メートル近く跳び上がっただけでそのままルナの隣に着地してきた。
ヴィスは地面に膝をつくと封印の影響を省みて舌打ちをかましながら無言で立ち上がる。
「…オレっち、しってんぞ。さっきみたいの、ダサいっていうんだろ?」
プツッとキレたとヴィスは「フンッ!」と全力の腹パンをルナに決めると、いそいそとディアナの左隣の崖に手を掛け始めた。
ルナは両手で腹部を押さえて膝を曲げ、ギリギリで嘔吐を堪えると深く咳き込んだ。
「ゥエッホッ…ゲホッ、ゲホゲホッ…! …い、いってぇな! てめぇなにしやがんでぇ!」
「貴様から堂々と喧嘩を売っておいて何を言っているこの馬鹿が。殺されなかっただけありがたく思え」
ディアナは十メートル程登った地点から二人の争う様を見下ろしていたが、今回はルナの肩を持つようなことはせず岩登りに戻った。
自分にはルナを罵倒するようなことはできないが、叱るべき所では叱らないと善悪の判断がつかない人間に育ってしまう。
だからこそ、それができるヴィスにその場を任せられればこれ程楽なことはないのだ。
腑に落ちないのは、ヴィスにしては随分と甘い罰を与えたことだった。
「ヴィス、早く登りなさい。あなたが登ってからじゃないとルナが登れないの」
「分かっている。俺様に指図するな、女。殺すぞ」
「はいはい。じゃ、早く」
その短い会話の内にもディアナは更に七メートルは登り詰めていた。
残り八メートル…勝負をしていた訳ではないが、その事がヴィスの手を焦らせていた。
ルナに簡単な制裁しか与えなかったのは別に優しさなどではない。
下手な騒動を起こしてリーラとの合流を先延ばす羽目にならぬようにするため、そしてこの山登りでディアナに遅れを取ることをプライドが許さなかったためである。
そしてまた、数日に亘る屈辱の連続に、彼の忍耐力が上がってきたためでもあった。
「…こんな岩山、一瞬で…」
ヴィスは先を進むディアナを睨みながら大きく腕を伸ばして岩の突起に掴み掛かった。
そして両手、両足を突起に掛け、軽々と登って行ったものの、その途中で手を伸ばすべき場所を失ってしまった。
そうして戸惑っている内に、見上げたヴィスの視線の先ではディアナが休憩スペースまで登り着いて寝っ転がり一息つき始めていた。
「く、クソッ…! 舐めやがって…!」
ヴィスは片手で突起をキリキリと握りしめ、その手で身体を支えながら僅かに遠い突起へともう一方の手を伸ばした。
腕が震え、脚も震え、随分と無理のある体勢の負担は全て三つの突起に伸し掛かっていた。
そしてとうとうバコンッと大きな音を立てて彼が掴む突起がバラバラに砕け、そのまま真っ逆さまに地面へと落ちていった。
彼は地面に背中を強く打ち付け、暫く呼吸もままならない様子で呻いていた。
「あらら…、大丈夫ー? もし無理そうなら、あなたは空を飛んで来てくれてもいいよー。これはルナの修業なんだからー」
上から覗き込んで声を張ったディアナは純粋な気持ちで労っていたが、ヴィスにはその方が却って屈辱的だった。
まだ息が出来ないにも関わらず気力で立ち上がった彼は、そのまま深呼吸しようとして噎せ返り、それをきっかけにして普通の呼吸に戻っていった。
「――ゴホッゴホッ……く、クソッ…封印が無ければ、こんな山…!」
「…封印が無くても、慣れてないんじゃクライミングは難しいと思うけどー。命綱も無いしー」
「…ッ!」
ディアナの指摘は当たり前のものだったが、ヴィスはそれを聞いて激しいショックを受けた。
今彼は、封印さえ無ければ一跳びで登れる、と言おうとしていた。
しかしその発言こそ目の前の問題――クライミング――からの逃げであり、彼にとっては明確な敗北なのである。
彼は今、目の前の障害に敗けたことを自分で認めた。
しかもそれは封印というハンデとは全く関係の無いところでの、彼本来の実力での敗北ということになる。
彼は産まれて二度目の敗北に愕然としていた。
「……ヴィス? ねぇヴィス? …ちょっと、…おーい! ヴィスってば! ルナが控えてるから諦めて飛んできて! ねぇー!」
彼の心中など知らないディアナはそうして呼び掛け続けていた。
ヴィスは奥歯をギリギリと鳴らして食い縛ると顔を上げ、
「…飛ぶとは何だ? 何をすればいい?」
「えっ? …空の飛び方、知らないー? ある程度強い怪霊獣なら殆どが習得してたはずだけどー」
「俺は不要な技は覚えん。持っている力だけで十分戦えていたから、小技を習得する必要など無かったのだ」
あー…と納得して苦笑いを浮かべたディアナの姿が、今のヴィスには屈辱以上の何かを与えた。
ディアナはスペースに立ち上がると、徐々に持ち上がっていくようにふわりと宙に浮かび上がった。
身体と共に髪もふわふわと宙を舞い、しかし服だけは重力に引かれて垂れ下がっている。
スペースから手前へ移動するとそこから崖をゆっくりと下り、そのままヴィスの傍まで下降しつつアドバイスを送った。
「基本的には自分を操霊で操るのと同じ要領でできる。必要な怪霊力は体重や移動時の出力によって変わるけど、少ない量から少しずつ膨れ上がらせていけば必ずできるはずだよ」
「…ふむ、操霊の要領か」
ヴィスは言われるまま怪霊力を込め、両手を自らの胸へと翳す。
そしてその両手から胸へと放電を起こし、彼の髪がふわりと浮かび上がる。
その内浮遊感からゆらゆらと身体を泳がせ始め、ものの数秒で彼は宙にその身を浮かせた。
「あ、そうそう。何だ、普通にできるじゃない」
驚かせないでよ、と軽く微笑んだディアナに対し、ヴィスは手からの放電を止めてフンと鼻で笑った。
彼は身体の内側を通して操霊の力を行き渡らせ、目に見える放電など無しに更に宙へと上昇していく。
「…つまらん技だ」
彼の自嘲めいた妙に覇気の無いぼやき声にディアナは小さく首を傾げ、それから気を取り直すとルナを振り返って自らも宙に浮かんでいった。
「じゃあ、僕らは上で待っているから。ルナも早く登ってきて」
「――…あっ…は、はい! おっしょーさま!」
長らく出番がないのでぽけーっとしていたルナは呼ばれるとピシッと背筋を伸ばして、両足跳びで岩壁へと駆け寄っていった。
ディアナとヴィスは先に休憩スペースへと辿りつき、その場で腰を下ろしてルナの様子を眺めた。
「…っていってもよぉ…手だけでこんなんのぼれんのか…?」
ルナは雲まで貫く高い山を見上げてゴクリと固唾を呑み込み、岩壁の割れた隙間に両手を差し込む。
そうしてグッと思い切り力を入れると軽々と身体が飛び上がり、その勢いに乗じて三メートルの高さまで両手を伸ばして岩壁にしがみついた。
案外やれてしまいそうだと気が付くと不安は綺麗に吹っ飛び、新しい遊具を見つけた子供のように目をキラキラと輝かせた。
そうして二度目、三度目とバネの真似事のように飛び上がっては窪みに手を掛け、悠々と十メートルへ差し掛かっていった。
「あっはは! ギューン! ギューン!! ギュー――…あっ…」
そうしてとうとう一八メートルに差し掛かったと思われたその時、手を掛けた窪みがボロッと崩れ、「にゃあああああぁぁぁぁぁ……」とヘンテコな悲鳴を上げながらルナが地面まで転げ落ちていった。
ドシンと大きな音を立てて背中を打ち付けたルナは先程のヴィスのように激しく咳き込んでのたうち回り、一方ディアナは彼女には大したダメージにもならないことが分かっていたのもあって今の変な悲鳴に腹を抱えて笑っていた。
ヴィスは然して面白くもないといった表情で見届けると、休憩スペースから更に先の崖へと臨んでいった。
「俺は先に進んでおく。構わんな?」
「プフフッ…ククク……あ、え? あ、うん。い、いいよ。あ、でも落ちてこられるのは困るから、失敗したらその瞬間に宙に留まるようにして」
「ああ」
笑いの壺に嵌まっている彼女を置いてズカズカとヴィスは突き進む。
彼は今のルナの登り方から少しヒントを得ていた。
彼はヒントを基にして、突起は掴まず、岩壁を殴り付けて穴を作った。
そしてそこに手を掛けて登り始める。
ディアナは振り返って彼の様子を眺めると「石屑が掛かるんだけど…」と文句を垂れたが、彼はそんなもの聞く耳を持たずに登り続けていた。
「いちちちち…。…いってぇ~……もー、今ドはおっこちねぇぞ…」
背中を擦って起き上がったルナは、ディアナの頭上を更にヴィスが登って行っているのを見つけ、
「…あいつ、なんかやる気マンマンだな…。なんでだ…?」
と暫し首を傾げる。
しかし、思い当たる節は何も無かった。
それはともかくとしてヴィスの行動からヒントを得たルナは、両腕を振ってタイミングを計りながら脚を曲げ伸ばしして、「わぅっ!」と勢いをつけて大きく跳び上がった。
壁に沿って八メートル程ジャンプして最高点に達すると、その場で右手を壁に打ち込み、先程までのやり方と同様に岩に嵌まった手で身体を押し上げて上昇を繰り返す。
彼女もこれにより不慮の落下を逃れることができたのだった。
「…ヴィスのせいで変なこと覚えちゃったなぁ…。…でも、まぁいいか。実際力が有り過ぎる二人にはこのやり方の方が良さそうだものね」
溜め息混じりに呟くディアナの前に、休憩スペースを超えて飛び上がったルナがスタッと膝を曲げて着地する。
ディアナは褒めて欲しそうにニマニマしているルナに一瞬言葉を詰まらせると、
「…次は更に長いこの崖を登るよ。これを登り切るまでが今日の課題。高さは今登ってきた分を合わせて二百メートル。落ちたら死ぬからそのつもりでね。もし死にそうでも僕は助けない。あなたが自分の力でどうにかしなさい。ここでそれができないなら足手まといにしかならない」
「…え……う、ん…」
ディアナの冷たい声と言葉に、ルナは驚愕して目を見張り、心に小さな穴が空いたような気持ちになった。
その対応はルナの知る彼女からは随分と掛け離れていて、本当に別人ではないかとじっとその背中を見つめた。
ディアナは彼女の視線を振り切るかのように速度を上げて飛び上がり、一足先に崖上に辿り着いていた。
「…きびしくするっていってたもんな…」
ルナはそう自分に言い聞かせて先程と同じ要領で登り始めた。
休憩スペースの狭い足場から全力でジャンプし、最高点で壁に手を抉り刺しながら身体を押し上げて進む。
見上げるとヴィスは既に失敗を繰り返しながら地上四六メートルまで登っていた。
ルナはすぐにそこまで追いつくと四八メートルの地点で一度止まり、得意になって彼にアドバイスを送った。
「オレっちのやり方でやりゃあもっとはやいぞ」
「貴様とは事情が違う。俺は足の使い方を学んでいるのだ。さっさといけ、邪魔をするな」
「…な、なんだよぉ……しんせつでいっただけだろ~…?」
ディアナに続いてヴィスまで冷たいので少し落ち込んで先へと進む。
ただ、ヴィスの方は普段からこうだったなと思い出すと少しは心の余裕が生まれた。
…しかし、そんな風に考え事をしていられる状況では無かった上に、心に余裕が生まれたことで注意が散漫になっていた。
ルナがミスを冒して、手が壁に刺さらず身体を押し飛ばしてしまったことはある意味必然のことだった。
背中を撫でる風とディアナの忠告が彼女にゾッと寒気を覚えさせ、悲鳴すら上げられない程に切迫させた。
そのまま落下してヴィスを横切っていくと、その勢いはどんどん増していく。
ヴィスは振り返りもせず黙々と登り続けているし、崖の上は遠すぎてディアナの姿など見えなかった。
彼女を安心させるものは視界の何処にも無く、この高さだと死ぬのかどうかとそればかりが思考を巡っていた。
…恐怖が心臓を激しく打ち付ける。
頭に血が昇って身体が熱く感じる。
ここまで死へと追い込まれた経験はルナにはない。
腕を振って踠いていた彼女は、遂にその頭が地面に触れようとしているのを圧力から感じ取っていた。
もはや達観し、これで終わりだ、と目を瞑ってその時を受け入れた。
…しかし、中々その時が訪れない。
それとももうあの世とやらに来てしまったのか、そう思って目を開けた。
まだ宙にいた。
落下の風は感じない。
意を決して地面へと振り向いてみた。
すると目前に地面があり、彼女は自分が激突の寸前で宙に浮いたことを理解した。
「…お、オレっち…ういてる…。…そ、そらを、とんでる…!?」
ルナは混乱と興奮が半々の気分であちこちに顔を向けたり腕を振ったりしていた。
そうやって自分が飛べたことを確認していた。
するとその最中、不意に身体を支える浮遊力が途絶えて、ポトッと背中が地面に着く。
ルナは何が起こったのかとキョロキョロ見回して立ち上がり、ヴィスがいる辺りを見上げて全身を強張らせてみた。
しかし、自分の意思では飛べないようだった。
「…さっきどうやったんだ、オレっち…」
困惑を口にしながら再び登り始める。
最初からのスタートになってしまい、ヴィスも先へ向かっているのでルナは焦っていた。
先程まで以上に勢いを上げて登っていき、二一秒掛けて何とかヴィスと同じ位置まで追いつく。
その時には六八メートルまで突き進んでいたが、もう体力が限界だった。
「はぁっはぁっ……く、くっそぉ…と、とばしすぎちゃったかな…」
「フン、だらしない。貴様ほどの霊力があれば本来疲れなどしないはずだ。そんなもの気のせいだ」
「んなっ、んなこといったって―――あっあっ! わぁっ!」
ヴィスと喋って気が抜けてしまい、ルナは再び壁から手が離れ真っ逆さまに落下していく。
急いで空を飛ぼうとするが、飛び方が全く分からない。
やはりもう駄目かと感じるとあの激しい鼓動が襲い始めた。
しかし結局、地面まで近づくと自然に身体が宙に留まり、全てが杞憂で済んでしまった。
それから何度か落下を繰り返し、必要に駆られれば勝手に飛ぶようになるのだと思い込んだルナからは恐怖が徐々に薄れていった。
合計八回死の危機に瀕した彼女は遂に恐怖を克服し、ヴィスも先に崖上に着いてしまったのでゆっくり休みながら登るようになっていく。
完全に陽が落ちて人の目には殆ど何も見えなくなった頃、痺れを切らしたようにディアナが上空から飛んでルナに近寄り、
「陽が暮れてしまったからもう終わり。お疲れ様。今日はもう休みましょう」
「…へ? ……は、はい。…でもおっしょーさま、オレっち、まだ……」
「登り切ることが目的ではないの。ほら、終わり。掴まって」
ルナの困惑は差し置いてそう告げて、ディアナは彼女の腕を掴んで崖上を目指し運んでいく。
修業の目的も何も分からないルナには自分の中に不思議な力があるらしいという朧気な感覚と、山登りを達成出来なかったという挫折だけが残った。




