序曲
「――ねぇ、本当に無事なのね? 信じていいのよね? 妹は――」
「ええ、ですから、アモル様は一刻も早く…」
「分かってるけれど…。今際の時にはきっと遺言なんて告げる余裕は無いでしょ。だから、今言っておきたいのよ。少しくらい顔を見に行けない?」
そうしてせがむ彼女には、自らの決められた死を悲しむ素振りの一つも無かった。
護衛の兵士は素っ気なく返して彼女の背を再び狭い馬車へと押し上げる。
「私がいくらでもお伝えしておきましょう。今はとにかく急いでください。…我らがラティナ帝国軍と言えども、あまり長くは怪霊王をディエシレに留まらせていられません」
「…ええ、そうね。今頃何人死んだことか…。クレドも待ってる。早く行かなくては、ね」
彼女は自らドレスの裾を持ち上げて座席の奥へと進んだ。
兵士はそんな彼女を閉じ込めるように隣にどっかりと座り込んで戸を閉めた。
外からは鞭の音が響き、馬が嘶く。
続けて座席が大きく揺れ、その窓の無い密室からでもアモルは馬車の猛進を感じ取ることができた。
――運命の時が刻一刻と迫る肌寒さを。
「…妹様は…ディアナ様は、その身を懸けてディエシレへの道を切り開いて下さいました。その勇姿に応えるために、今あなた様が立たねばならないのです。…あなたは、我々にとっても希望です。…必ず、やり遂げて下さいますようにお願い致します」
兵士は重たい鎧をガチャガチャと鳴らしながら深く頭を垂れる。
顔も兜に隠れて見えないが、その声に籠る熱意は彼女もよく分かっている。
「ええ、必ずやり遂げる。約束するわ」
短い言葉ではあったが、とても澄んだ声だった。
…彼女の声には不思議な力がある。
聞く者に安らぎと活気を与える勇者の声。
兵士も顔を上げると静かに息をついて「…お願いしますよ」と肩の力を抜いた。
「…けど、やっぱりあの子が心配ね」
アモルが呟いていた。
その慈愛に満ちた響きは、聞く者に優しさを取り戻させる。
「…妹様ですか?」
兵士が問うた。
彼女はそれに静かに頷く。
「連絡によれば、作戦経路上の怪霊獣を掃討していた際に一般兵を庇って攻撃を受け、今なお昏睡状態とか…」
「いえ、そんな事は心配じゃないの。怪我なんかに屈する子じゃない。…なんたって、あの子は『ヒーロー』になる子だから」
「……ヒー…ロー……ですか…?」
深刻そうにしていた彼女は、場にそぐわない言葉に困惑している兵士の様子を見ると一転してクスクスと笑った。
膝の上に白く長い両手の指を絡めて、背凭れに身を任せるようにして天井を仰ぐ。
「そう、ヒーローになるって。…私や彼のようなヒーローに、ってね」
「……はぁ…確かに、あなたは英雄でしょうね。この作戦が成功し、人類に軍配が上がるなら――」
「それを言うならあの子だって英雄よ。でもあの子はそんな実績に興味は無い。…あの子が目指すヒーローさんは、そんな偉そうな人じゃないんだから」
兵士は益々難解そうに首を捻った。
その様を楽しげに笑った彼女は、口元を隠す手を膝に下ろし、最期に見ることも叶わなかったあの子を想って遠くを見た。
「…さて、私もあと一回、お姉ちゃんをやりましょうかしらね」
馬車に隙間風が舞い込む。
「そこから先は、あの子の舞台」
風に流れた美しい髪を手櫛で梳いて、
「あの子と、その仲間が繋いでいくのよ」
彼女の瞳は希望を照らした。
――この世に光明を拓けると信じて――