1-5
そこには先程入っていた、トイレの個室の中と同じ風景があった。
棒立ちのまま、個室の壁、便器、天井と目を走らせる。
ふと、後ろを振り返ると、ある筈のゲートが無い。
ゲートは消えていた。
見えるのは、何事も無かったかの様に佇む個室の扉と、あのどこぞの旅行会社のポスターのみだ。
個室の中に立ったまま考える。
「本当に戻ってきたのかな…」
その時、ふと、遠くの音が聞こえる。
トイレの中で聞こえていた、僅かな駅中の音だ。
それに気付き、思わず個室の扉を勢い良く開け、トイレの外に駆け出る。
すると、トイレへ入るために通った、従業員用の様な薄暗い通路に出た。
「さっきの草むらじゃない…」
薄暗い通路の先には、行き交う人が見える。
本当に、元の世界に戻ってこられたのかを確認したい衝動に駆られ、足早に通路を抜ける。
通路から抜けると、そこは先程、途中下車した駅だった。
間違いない…筈だ。
良翔の向かったトイレとは別の真新しいトイレも見える。
真新しいトイレには、今も多くの人が忙しなく出入りしている。
良翔の側を、良翔に対し興味を持たない人々が通り過ぎていく。
「帰ってこれた…のか?」
思わず、ポツリと呟く。
近くを通り抜ける人は、良翔のそんな呟きも気にせず通り過ぎて行く。
良翔は、その場にしゃがみ込みたくなる衝動を堪えて、一旦改札を出ることにした。
一刻も早く、どこかで落ち着きたい。
そんな衝動に駆られ、改札を出て、手近な喫茶店を探す。
幸いにも、少し歩を進めると、駅通路に面した喫茶店が見えた。
そこに迷わず入る。
注文口でコーヒーを頼むと、小腹が減っているのに気付き、出来合いのサンドイッチも一緒に頼む。
茶色いトレーにサンドイッチとコーヒーが乗せられ、トレーごと手渡される。
会計を済ませ、渡されたトレーを持ちながら、店内を見渡して空き席を探す。
駅通路に面した、窓に沿って並ぶカウンター席の端が空いていた。
良翔は迷わずその席に向かい、腰を落ち着ける。
「はぁ〜〜〜」
思わず大きな溜息をつく。
灰皿が目につく。
このご時世に、まだ分煙もなく周りを気にせず、タバコが吸える喫茶店は珍しかったが、そんな事は気にもとめず、良翔はタバコに火を付けた。
自分を落ち着ける様に、大きく一口吸い、そしてユックリと煙を吐き出す。
その後、コーヒーを一口飲む…筈だった。
カップを手にしようとした右手が小刻みに震えていたのだ。
カップの取手を握ると、カップと皿が小さくカチャカチャ音を立てた為に、手が震えていたのに気が付いたのだ。
良翔は戸惑い、カップの取手から手を離す。
目で見ても分かる程、右手が震えている。
手が震えているのが、周りから見られてしまうのが恥ずかしく思え、テーブルの下に右手を下げた。
タバコを一度置き、空いた左手で、右手の手首をギュッと掴む。
暫くして、震えがおさまる。
タバコは勝手に半分程燃えてしまい、灰の塊がタバコの先に陣取っている。
震えの止まった右手でタバコを消し、再度コーヒーの取手を掴む。
大丈夫、もう震えていない。
いつもより、カップの取手を持つ右手に力が入っているのを感じながら、口にコーヒーをユックリ注ぐ。
ユックリと、だが、一口飲む度にシッカリとコーヒーの味を舌を通して感じながら、半分程飲む。
美味い。
気を取り直して、もう一度、新しいタバコに火を付ける。
先程は、殆ど味を感じる事が出来なかったタバコも、今度は身に染みる程、美味く感じられた。
コーヒーとタバコのお陰で、落ち着きを感じる事が出来た良翔は、暫く交互に味わう。
一息ついた、とは正にこの事だろう。
そして、落ち着きを取り戻した頭で、先程までの不思議な体験を思い返してみる。
「さっきのアレは一体何だったんだ…」
まるで最近ハマってる、異世界転生の小説の様な出来事じゃないか、と自嘲気味に思う。
「あまりにも仕事に行きたくなさ過ぎて、現実逃避した意識が、現実と混濁する程の妄想でも見てしまったのだろうか…」
自虐的な感じもするが、結局、適切な解を導き出せる筈もない。
何となくの答えに強引に結び付ける。
飲み干してしまったコーヒーを追加で一杯購入し、サンドイッチにも手をつけ始める。
食事も喉を通り始め、何となくの答えに辿り着いた良翔は、もう少し楽観的に考えることにした。
良く良く思い返せば、意識が飛んでいたとはいえ、あんなトイレの個室の中で、中々に楽しい夢を見たのだ。
自分が、脳の中に話しかけてくる何ちゃらナビゲーターを作り出し、そのナビゲーターの力を借りて異世界の地を踏み、そしてゲードなるものを自ら生成して戻って来たのだ。
こんな夢、見た事が無い。
思わず小さくクスリと笑ってしまう。
そして、夢だったにも関わらず、非常にリアルだったという事に気付く。
何せ記憶がハッキリしているのだ。
夢の中の出来事を、ついさっき体験した事とはいえ、こうも鮮明に覚えている事など、初めての経験なのだ。
そこで、一つの実験を思い付く。
何ちゃらナビゲーターさんの存在だ。
何ちゃらナビゲーターさんは自分の中に居ると言っていた。
ならば、夢であるなら呼び掛けた所で何も返事は帰ってこない筈だ。
良翔は(無機質だが何となく女性の声に似ている気がするので)彼女に恐る恐る呼び掛けをしてみる事にした。
「…ナビゲーターさん…、聞こえ…ますか?」
心の中でそう呟く。