ユーリ Ⅲ
オヴリウス代表団事務監ユーリ・エーデルフェルトは、ベッドの間近という特等席で心の折れたエドワードの表情を見て、それはもう昇天してしまいそうであった。
ユーリは異端である。他人からの悪感情を一身に受けたかった。他人を絶望の淵に追い込みたかった。その結果、自身に破滅が訪れても良かった。
退室したルルゥから報せを聞いただろう、オヴリウスの面々が騒々しく医務室に駆け込んでくる。
ユーリは彼らを宥めようと、
「まあまあ、みなさん落ち着いて。ここは医務室、騒がしいのはご法度です」
と言っても彼らの「大丈夫か」「良かった」と安堵のざわつきは治らず、エドワードのベッドを囲む。
ベッドのそばにいたユーリもその人並みの中で揉まれる形なった。その数は想定していたよりも多く、というか団員全員がでは狭い医務室に集まっているようだ。
ルルゥにしては気が利いているから、ミドかハンシェルあたりが集まるよう指示を出したに違いない。先の銃撃事件以降、団員達の団結は目に見えて固くなっている。その中心人物であるエドワードの回復だ。これくらいの反応は尋常である。
しかし囲まれたエドワードは俯いて反応なし。頭の中に押し潰されないように必死なのだろう。
ユーリはスクッと立ち上がり、奇襲のような宣言する。
「さて、みなさんこれよりエドワード・リゼンフォーミル・フォン・オヴリウス本部長の辞任手続きを始めます」
そして、あらかじめ用意しておいた辞任届を見せびらかす。すると騒いでいた団員たちは絶句してエドワードに注目する。彼は年相応に肩を小さくして、表情は青く、今にも消えてしまいそうだった。それでようやく心が折れたことを察したらしい。
通常、団員たちの職務権限の手続きは本部長の管理の下、事務監が行っている。しかし事務監は、本部長が辞任した場合の代理であるため、無用なトラブルが発生しないよう本部長辞任に関してのみ、半数以上の団員たちの面前で処理をするように定められている。
絶句の時間が終わり、団員たちが異口同音に何かを伝えようとした瞬間、口角上がりっぱなしのユーリが先手を打って何も言わせない。
「まあまあ! 落ち着いて話を聞いてください! 本人の意思です、尊重しましょう! 辞任すると言っても、手続きがありますからッ。まあエドワード本部長が辞任届に名前を書きしたため、それを僕が受理するという手続きを皆さんで確認するだけですから、皆さんはどうぞ黙って、黙って気楽に構えてください。そういう規則です」
と言ったものの、やはりアナスタシアの堪忍袋の緒が切れる。彼女はバネ仕掛けのようにジャンプ。ユーリの頭の上を飛び越えて、ベッドの上で身体を起こしていたエドワードを押し倒して胸ぐらを掴む。
「テメェ!! 目覚めて早々寝言ほざいてンじゃねえよ!!!」
「……ごめんなさい」
蒼白い顔を見てアナスタシアの威勢は挫かれそうになったが、それで黙るような女でもない。
「なッ…… ふざけんなぁ!! なんのためにジャスパーが死んだか分かってんのか! あああ!?」
と彼女は声を荒げて涙目のエドワードを前後に揺さぶるが、覇気が戻るわけもなく黙り込んだままだ。
すると、人並みの端からミドの声が飛ぶ。
「エーデルフェルト事務監、一体なにを吹き込んだの?」
「吹き込むだなんてとんでもない。ただありのままを報告しただけです。ねぇ? 本部長?」
「う、ひっぐ…… はい」
エドワードは泣きじゃくりながら頷くと、それだけでユーリを問い詰める根拠がなくなる。実際、ユーリは事実しか言っていない。折れる方が悪いのだ。
「いけませんよ〜、あなた方ができるのは見守ることだけ、静かに彼の決意を……」
「事務屋はスッこんでろ!!」
実に心地の良いアナスタシアの罵声。他の団員たちはかなり理性的だから、こういう機会は滅多になく、噛み締めてしまう。
アナスタシアは再び、エドワードを揺さぶる。
「一回死にかけたくらいで何ビビってんだよ! 国別対抗戦はまだまだこれからだろう!!」
「お嬢ッ」
「あんだよ?!」
「もっと言ってヤってくださいッ!」
「おうよ!」
普段ならハンシェルあたりが羽交い締めにして止めるのだが、心境としてはアナスタシアと同じらしく今回は同調。その他大勢も静観の様子である。
「試合か!? ちょっと負けたけどまだまだ全然優勝できるって!」
「そんなの…… わ、分かってます」
「ああ?!」
罪悪感に負けたエドワードの眼から涙がボロボロとこぼれ落ちる。ユーリにはそれが宝石よりも美しく見えた。
「いっぱい、死んじゃいました…… 僕のせいで、僕が、死にたくないばっかりに、でも、でも…… 僕のために、皆さん死なせたくない、ううわぁ、あああ、わああ〜〜」
自分の行動の結果、多くの死者を出した現実に耐えられずグシャグシャに泣きじゃくる。これまで皇太子としての態度を保っていた彼だったが、追い込まれた姿はやはり年相応である。
「どうじで、うう〜、みんな仲良くできないんですか? う、うあぁ…… ズズッ、殺し合って、変ですよ! 仲良くしましょーよー!」
至極真っ当で正しい、子供の理屈を嗚咽混じりに叫ぶ。ユーリはこういうのをずっと聞きたかったので、非常に満足である。このシチュエーションを作れてたことを誇らしかった。
アナスタシアは弱い者イジメをしている気になったのだろう、分かりやすくアタフタして次の言葉が出ない。
この隙をついてユーリは進行する。
「さ、辞任届を書いてもらわねばなりません。本部長の意志を尊重しましょう。アナスタシアさん退いてください」
「イヤだ。あ、ナトラもなんか言えよ!」
「ん? そうか? そうだな」
医務室の出入り口付近にいたナトラは、団員たちの合間を歩いてエドワードに近づく。彼の序列を考えれば本来、逐一発言を求められるわけもないのだが、エドワードを焚き付けた張本人であるのは周知だから、団員たちは口を挟まない。
ナトラは、ゼプァイル支局襲撃事件から十日ほどで復帰して試合にも出ていた。しかし身体は治っても覇気がなく、ずっと見るから憂鬱そうであった。
この様子では、エドワードの辞任を止めることはできないだろう。
ナトラはベッドの傍まで近づくと「とりあえず、離れてやれ」と馬乗りになっていたアナスタシアを退かす。
彼の手には〈澄碧冠〉があった。これを取りに行って遅れたのだろうか。
「回復おめでとう。なんだい、幽霊でも見たような顔だな」
「ナ、トラ、さん」
エドワードは、目覚めてからは死者の事で頭が一杯で忘れていたのだろう。一緒に死線を越えた仲間の顔を見る目は、安堵感より罪悪感の方が強そうな、とにかくバツが悪そうである。
「いえ、生きていてくれて、嬉しいです……」
「ま、俺もちょっと前まで死にかけてたんだけどな」
エドワードは少し冷静になったのか、病衣の袖で顔を拭く。それを待ってから、ナトラは〈澄碧冠〉を彼に渡そうとした。
「ほら」
「やめてくださいッ」
しかしエドワードは身を捩って拒否。
〈澄碧冠〉は帝国皇太子の証である。これを冠ることは政争の世界に身を置くことを意味する。今の彼には無理だろう。
「……理想論はごもっともだけど、現実はそうなっちゃない。殺し合いのない世界を作りたいなら、殺し合って勝たないといけない…… こんなこと、こうなる前に理解せにゃ」
「解っているつもりでした。でも、ウッ…… 僕の想像とは違いすぎて…… 無理です」
しかしナトラは淡々と、
「……冠れ」
「冠れません」
「覚悟を決めろ。貴方の命令で殺し合いが起こる覚悟を」
「……無理ですよ、重いですよ、今回のことでもこんなに辛いのにッ…… 死んだら、お終いではありませんか」
「そうだ。エドワードの理想のために仲間を使い捨てて敵を滅ぼせ」
ウットリするほど厳しい呪いの言葉にビクンと身をこわばらせたエドワードは、寒そうに肩を抱く。
「矛盾してますよ」
「戦わなくちゃ…… 世界は残酷なんだ。エドワードは死にたくなかったんじゃないのか? 断言するけど、どれだけ命乞いしたってノルマンディーは殺しにかかるぞ。奴さんからしたら、皇太子が生きてるかぎり不安の種が残るんだからな」
「こんな想いをするなら、死んだほうがいい…… 皆さんに死んでほしくない。ううぅ〜〜……」
「……いや、でもッ、戦わないと、いけないんだ」
“気持ちが通じる”というような様子ではない。むしろ全く通じてない。
しかし、ナトラはまだ納得できないのか、〈澄碧冠〉を持ったままベッドから離れない。
「いい加減にしてください。本部長の意思を、尊重しましょう? もちろん、“力づくで止める”のはさすがにペナルティ出ますよ? さて、署名を」
恍惚のユーリはベッド横のサイドテーブルに辞任届と万年筆を置く。本文は既に用意済み。
エドワードは万年筆を持つ。認めるのは名前だけ、数秒もあれば終わってしまうだろう。
ところが、弱々しい女の声がしたが“待った”をかける。
「勘違いするな、事務監、役者交代だ」
「はい?」
声のした方を見ると、団員達の人並みが開けて視線が通っていた。そこには昏睡しているはずのシエスタが、ルルゥに介抱されながらそこに居た。シエスタの顔色は真っ青で呼吸はゼーゼーと荒く、病衣がはだけて胸元や素足が露わになって脂汗が滲んでいた。
彼女はナトラから、震える手で〈澄碧冠〉を奪い取った。
それを見た瞬間ユーリは萎えた。シエスタは今、この状況をひっくり返すことのできる唯一の人物。だからこんな強引に辞任手続きを進めていたというのに。彼女が出てきてしまった以上、ユーリとしてはつまらない展開になりそうだ。
「シエスタ!」
万年筆を放り捨てたエドワードはベッドからヨタヨタ歩きシエスタの元へ。手を取ると彼女は微笑む。だが視力が悪くなっているのか、目を細めた。
それでもエドワードの声は聞き取れたようで、
「おお、殿下…… はぁ、はぁ…… ご無事で、した、か」
「はい、あなたのおかげです。あなたは命の恩人です」
「何という、僥倖。はぁ、このシエスタ、感無量で、ございます」
病み上がりで立っているだけでも辛い彼らは、行儀悪く床にヘタリ込む。
力仕事を終え二人から離れたルルゥは、草臥れた様子で、
「目覚めるのはまだ先だと思っていたが、大した女だよ」
その口ぶりは、わざとらしいものだった。いくらなんでもタイミングが良すぎる。何か薬でも使ったのだろう。
「彼女はまだまだ安静にしておくべきだと見えますが? ヘンドラム先生?」
「患者が回復したかどうかは医官の専権だ、口を出さないでもらおう。エーデルフェルト事務監?」
見事に意趣返しをかまされしまう。
そんなことはお構いなしに、シエスタの肩に手を乗せたエドワードは彼女を労う。
「シエスタ、身体を癒したら国に帰りましょう。しばらく休暇を……」
「それは、なりません」
主君の慈悲深い言葉を遮った彼女の顔つきはキッと毅然としたモノに変わった。
「殿下は、国別対抗戦で優勝し、ノルマンディー伯爵を御し、臣民を従え、勝利するのです」
と彼女はまるで未来でも見てきたかのように断言して、さらに続ける。
「僭越ながら、お心の内、愚察いたします。お辛いことでしょう…… エドワード皇太子殿下、あなたの理想はなんですか?」
「僕は…… 僕に理想なんて…… ただ、戦いがなくて、みんな笑顔でいてくれて、仲良くできれば、そうなってくれれば十分じゃないんですか?」
「はい、私もそう思います。しかしそれを実現させるのは、あなたが思っているよりも遥かに純粋で、崇高で、難しい。ですから私は…… 私たちは、命をあなたに委ねるのです。理想を共にするお方と…… 共に戦うのは、臣下として、当然…… ジャスパー・マーベリックも、そうだった、はず。あなたは、良い理想を、お持ちです。お勝ちください」
と言い放ったシエスタは、力を振り絞って〈澄碧冠〉をエドワードに手渡すと、フッと意識を失いその場に倒れた。
「シエスタ? シエスタ!」
「落ち着け、眠っただけだ。ベッドに」
言いたいことを言ったシエスタの顔は蒼くとも満足そうである。
すぐにハンシェルたちが彼女を隣のベッドに運ぶ。エドワードはトタトタとついていき、〈澄碧冠〉を抱きしめながら寝顔を見つめる。
エドワードは振り返り、団員たちの面前で泣き腫らした顔を晒す。
「僕は死にたくありません、みなさんに死んでほしくありません…… まだまだ未熟です。それでもみなさんは、僕と一緒に、戦ってくれますか?」
言葉を発するだけでも重圧なのだろう。顔は泣き腫らしたまま、自信など感じることなどできず、とても為政者の資質があるようには見えない。
しかしアナスタシアが立ち上がり、なぜか得意げに胸を張って、
「バカやろー、ンなこととっくに腹括ってるって。全員な。とりあえずブリュンベルクは次の皇帝にお前を推してやる」
「お嬢、親父殿に無断で勝手に決めちゃいけませんぜ?」
ハンシェルが困った顔で窘めるが、アナスタシアはヒラヒラと手を振って払い除ける。
「いいんだよ、どうせ親父がノルマンディーに付くわけないんだから。旧本部長派は?」
「ま、相互理解を深めて平和に繋げるのが国別対抗戦の建前なわけだし、ソヒエントの連中には落とし前つけさせたいし、エドワードくんも良い子だし、他に代案もないし。異論はないわ」
とミドが了承すると、他の旧本部長派も文句はないらしく、各々頷いた。
当然、帝室派閥が反対するわけもない。
「分かってなかったのはエドワードだけだよ。流星事件も大概アホだけど、〈骨喰の王〉の件はみんなブチギレてんだ。このままじゃいけないってな…… な? 事務監?」
と、アナスタシアがまだ意思表明していないユーリに向かって言質をとりにくる。
難しいところだが、後々のことを考えればポーズだけでも賛成しておく方が有利だろう。
「嫌だなぁ、事務監としての職務を全うしただけのこと。僕は最初からエドワード君と共に戦いたいと思っていますとも。世界平和のためにね」
ユーリが心にもない言葉を会心の笑みで紡ぐと、見事に場がシラける。今日のところはこれで我慢しておこう。
「……ナトラさん?」
突然喋らなくなったナトラは白昼夢を見てるように惚けていた。エドワードが不安そうに彼の袖口をクイクイ引っ張ると、彼はハッと気がついて、しばらくエドワードの泣き顔を見る。
「あ、うん…… 悪かったな、キツいこと言って…… 俺が悪かったんだ」
「そんなこと」
「ありがとうな」
「はい?」
「戦おう、エドワード、みんなを背負ってくれ」
「はい、ちゃんと、背負います。う、うう…… ずぅ。僕も、みんなと戦います」
「……それでは本部長辞任手続きは中止ということで、よろしいですか?」
「はい」
そして〈澄碧冠〉を、帝国皇太子の証を自ら頭に載せた。
泣き腫らした顔は、幾分かマシになっていた。
誰からともなく拍手が起こった。その音は次第に大きくなり、医務室に響き渡る。
無能な子供がこれだけ支持されるというのは大したのだと、ユーリは素直に感心。そこに拍手を贈ってやった。
しかし相手が悪い。ケイネス・ローランド・フォン・ノルマンディーという権力主義者を御するには、覚悟よりも実力が必要だ。
そして問題が解決したわけではない。むしろ山積みと言っていい。
ということで難題を一つ出題。
「では、国別対抗戦やソヒエントの対策はいかがされるのですか? 試合は…… まあ勝てばよろしいでしょうが、悪辣な連中相手では、そう簡単ではありますまい?」
意地の悪い問いにエドワードは、さも簡単な計算を出題されたかの様に、
「それなら、僕に考えがあります」
彼の苦渋を想定していたユーリは、気付かれぬように溜息を吐いた。
ユーリは異端である。