エドワード Ⅷ
七月十七日、火曜日。
エドワードは三週間ぶりに目を覚ました。
目を覚ましてからしばらくは、何も感じず、何も考えられず、時間感覚が狂うほどひたすらにボーッとしていた。
「おや? 気がついたかね?」
呆けていたエドワードに気がついたルルゥが枕元に来ると、迫る足音に刺激され、次第の意識がハッキリしてくる。
どうやらエドワードは医務室のベッドに寝ているらしく、薄緑の病衣を着ていた。左右に衝立があって、ダークブラウンの天井からは電球がぶら下がっていて眩しい。
記憶も曖昧で、とにかく凄惨なことが起こったことしかわからない。
「シえ、スタ…… みんあ、あ、?」
しかし思うように舌が回らない。筋肉が強張っているのもあるが、口腔が乾いて粘ついてて呼吸をするとなんだか臭い。
加えて、副作用のせいなのか、目眩に吐き気、耳鳴り、どうやら熱もあるようで、暑い時期なのに悪寒で凍えてしまいそうだ。昏睡を続けたほうが遥に快適だっただろう。
「飲めるかね?」
と言ったルルゥがストローの挿したコップを差し出す。エドワードは受け取るために手を伸ばそうとするが、震えて定まらず、思うように身体が使えない。
「ん〜」
ようやくコップに触れたが、握力も弱っているのかうまく掴めない。
「ふむ、まだまだ副作用がキツイな」
諦めたルルゥがストローを口元に持ってくる。少し下品な気もしたが、吸い付いてチューッと水を飲むと口が潤って、気休め程度には気分も良くなる。
これだけコンディションが悪いと、何もかも投げてずっと寝ていたいところだが、エドワードの責任感が許さない。聞かなくてはならないことが沢山ある気がする。
「あ、あの一体何が?」
「それは……」
「ばあ!」
そして、まるでどこかで監視していたかのようにタイミングよく、満面の笑みのユーリ・エーデルフェルトが衝立の向こうから顔を覗かせる。
生憎、エドワードには驚く体力すらなく、嬉しそうな彼の顔を恨めしく見つめるしかできなかった。
「アハー、お久しぶりです本部長。ご気分はいかがですか?」
「あまり、良く、ありません」
「それはそうでしょう。さてあなたが寝ていた期間の報告をしなくてなりません。よろしいですか?」
「待て、医者として……」
ルルゥが口を挟むと、ユーリは嬉々として捲したてる。
「アハ、これはこれは、何おっしゃるかと思えば。僕は本部長代理という重責を二度も、二度も負いました。だからこそ、そのような常識的な価値観を否定します」
「いやしかし」
「代表団本部長とはッ、身を砕きながら命を削りながら職責を果たすものなのですぅ。その覚悟がないのなら今すぐ辞任するべきです。違いますか? 違いませんね?」
「僕も同感です、ルルゥ先生は……」
「黙れ、患者は患者らしくしていろ」
ルルゥの有無を言わさぬ言いように「え、あぁ、はい……」とうまく返事をすることができなかった。
「事務監も、医者の領分を侵さないでもらおうか」
「団内規約にも本部長が回復した場合、代理のものは速やかに現状報告と本部長権限の返還をするよう定められています」
「回復したかどうかの判断は医官の専権だろうッ」
「では、速やかに判断してください」
「だからッ、待っていろと言っているッ!」
ルルゥにしては珍しくヒートアップした言葉が飛び出すと、ユーリはニタァと笑みを浮かべてから、近くにあった椅子に座って脚を組む。
「どうしたんですか? 早く検査を」
「その前、皆にこの事を伝えてたいのだが?」
「回復したかの検査を終えるまでは、手続き上は昏睡状態です。何も報告する事はないと思いますが」
「そう言うと思ったよ」
よほどイラついたのか、ルルゥは手早く白衣から煙草を取り出して火をつけた。エドワードが彼女の喫煙姿を見たは初めてだったので、なんだか新鮮で、ボケた視界で観察してしまった。
「ハぁー…… 何を見ているんだ?」
「いえ、美味しいモノですか?」
「身体に悪いらしい」
返答になっていない返答をした彼女は紫煙を吐き、気持ちを半ば強引に切り替え検査を開始した。
三十分ほどかけて丁寧に。
その間もユーリがずっと小言を唱えてくるので、ルルゥはずーっと不快そうであった。
一通りの検査が終わると、ルルゥがカルテを確認しつつ、
「やはり副作用が重い。“意識は回復したが、判断能力があるとは認めない”…… その上で、君たちのしたいようにしなさい」
「おやぁ止めないですか?」
「止めても、本部長代理権限でねじ伏せるのではないかな?」
「いえいえとんでもない。僕は部下の仕事を尊重しますよ」
ルルゥはカルテをデスクに雑に投げて、
「よく言える。とにかく、彼の判断能力を私は保証しない。彼が誤った判断をしても、彼のせいにしないでもらおうッ」
と吐き捨て、また煙草に火をつけ医務室を後にした。いつも冷静に見える彼女がここまで露骨に態度を荒げるのだからは、原因はユーリだけではなさそうだ。
オヴリウス代表団の現在の状態がかなり悪い覚悟はできた。
入れ替わるようにベッド横の椅子に浅く座ったユーリは、
「さて、あなたが銃撃された後、あなたはシンカフィン共和国大使館に運ばれました」
「シンかフィンッ?」
覚悟してなお、あまりにも突拍子のない名前であった。聞き間違いでもしたのかと思って、身体がベッドの上でビクンと跳ねるが、そのせいでまた内臓がギュルンと気持ち悪く、再びベッドに身を預ける。
不用意に身体を動かすと、うっかり死んでしまうかもしれない。
「やっぱりやめますか?」
「イ、いいえ、報告を。記憶が曖昧なので、全部わかるように」
「分かりました。子供にも分かるよう丁寧に」
そしてユーリから事件の顛末を聞かされた。
事件翌日、オヴリウス帝国、シンカフィン共和国、ゼプァイル市警、大陸同盟保安部による合同捜査が行われた。
その結果、死者の合計三十四名。大使館は全滅。同盟ゼプァイル支局保安部も全滅。さらに多くの市民が巻き込まれました。目立った者だとアインツグラーツ大使、マルティド二等保安官。もちろんジャスパーの名前もあった。
逃げている時、巻き込んでしまった人たちへの罪悪感はあった。同時に助かってくれるだろうと勝手な期待もあった。
だから、実際に死亡報告を受けてみると、その罪悪感、絶望感はあまりに大きく、エドワードの心を潰していく。
「ジャスパーさん…… あ、大使は、あの時…… そう、大使館から攻撃されて。大使が裏切ったのではないのですか」
「いいえ、大使の死体は大使館から見つかっています。犠牲者の幾人かは首無しの状態でしたが、アインツグラーツ氏の首はありましたから、間違いありません…… 魔導具による調査は、帝国本土が拒否しましたが。状況的にはシロかと。続いて、物的な被害ですと……
大使館が保有していた魔導具が二本、ジャスパーが装備していた物が二本、保安部の物が五本行方不明で、猟犬部隊が持ち去ったと思われる。
同盟事務局ゼプァイル支局は放火され全焼。大使館は半壊。エドワードたちを銃撃の際の流れ弾で大使館周囲の建物にも被害が出た。
「この辺の被害総額はどこが賠償するのかが問題になりそうだったので、我がオヴリウス代表団が保証することを、本部長代理が宣言しています」
「え? いやしかし、ソヒエントの攻撃のせいなのだから……」
「もちろん、犯人が捕まれば彼らに請求をお送りしますよ。捕まればね。概算ですが六十億ゼニーは下らないでしょう」
「そんなお金……」
「はい、代表団の予算では賄えませんし、あなたのポケットマネーでも無理でしょう」
「て、帝国の国庫から」
「“帝国”と“帝室”は別です。皇太子であろうとも皇帝であろうとも、帝国予算を動かすには相応の手続きが必要です。違いますか? 違いませんね? もちろん私も無策ではありません。オヴリウス帝国国務省に金銭的な支援を申請し、あなたの意識回復を待ってから折衝すること手筈になりました」
「国務省? 僕の回復?」
「はい。先方の強い意向で。帝都へ出向いて欲しいと」
国務長官といえば、すなわちケイネス・ローランド・フォン・ノルマンディー伯爵だ。エドワードを国別対抗戦に送り込んだ張本人で、政敵である。エドワードを助けるなどということはあり得ない。
考えなしにハウシュカに行けば良くて軟禁、最悪暗殺されるだろう。
「まだまだありますよ。試合の方ですが…… あの後三戦あり、三敗しました。つまりゼプァイル商連ラウンドは二勝三敗で終了。明日にはキャンプを撤収してトートバスに戻る予定です」
三連敗の原因としては、ミドたちがエドワードたちの救援に駆けつける際に、本部長代理の出撃許可を得ずに強行し、それを理由にミドとハンシェルが責任を負って謹慎処分となったことが大きい。
「僕がヘッドコーチ代理の代理として尽力しましたが勝負は時の運。負けてしまうのも致し方ないでしょう。暫定順位は五位。良いんじゃないんですか。帝国ラウンドは最下位だったんだから」
ユーリは自らの失態を悪びれもせず、やはり嬉々として順位表をエドワードに渡した。
一位 ユーグミシェラ連邦 五勝二敗三分 勝点十八
二位 シンカフィン共和国 四勝二敗四分 勝点十六
三位 エインジェン教導国 四勝四敗二分 勝点一四
四位 ゼプァイル商連 三勝四敗三分 勝点十二
五位 オヴリウス帝国 三勝五敗二分 勝点十一
六位 クォンツァルテ諸島 二勝四敗四分 勝点十
ほぼ最悪の状況だ。国別対抗戦全体の三分の一が終了した時点で下位となると再浮上は厳しく、なまじ一時的に首位に立てた分だけショックは大きい。
「ついでになりますが、帝国国内ではあなたの本部長退任論も叫ばれているようですよ?」
ユーリは、エドワードの膝の上に新聞紙を数部置いた。記事を読むまでもなく、見出しの全てがエドワードを強く糾弾する内容だった。
これは致命的だ。
政治的な後ろ盾のないエドワードがケイネス・ローランド・ノルマンディー伯爵と争うためには、世論の支持は絶対条件である。これが崩れるのは帝位継承の不可能を意味する。
政争に敗れた孺子の行く末など死しかないだろう。
「うッ、ぷぇ」
自分の置かれた状況を理解すると気分が悪くなり、腹の中から胃液が遡る。咄嗟に口を塞いでみたものの合間から迸って布団の上に撒き散らしてしまった。
口にも鼻にもツンと痛い酸味がこびりつくが、胃液はまだ止まらない。だが二撃目は、用意が良いユーリがバケツを口元に用意するから、撒き散らすことはなかったが、笑顔で背中を摩ってくる彼が死神に見える。
「辞めるなら、早い方がよろしいのでは?」
「ヒッ」
エドワードのつぶらな瞳からは涙がツツーと流れ、嗚咽混じりの過呼吸になる。
「はあ…… はあ、やめて、ください」
「ほらほらぁ、早く辞めてしまいましょう。土台無理だったんですよ本部長なんてぇ。早く辞表を書いてください僕に提出してください早く早くぅ!」
ユーリが捲したてる言葉が遠くに聞こえて、死んでいった人たちへの罪悪感で頭が満杯になる。
「……や、やめます」
「はいぃ? なんですってぇ?」
涙まじりの言葉を聞いたユーリ・エーデルフェルトは、悪魔のような笑みを浮かべた。
「本部長を、辞めます、うぅ、う」
エドワードの心が折れてほどなく、足音の波が近づいてくる。回復の報せを聞いたオブリウス代表の面々が医務室にやってきたようだ。