ナトラ ⅩⅩⅤ
とある建物の中にたどり着いたナトラは、窓のカーテンの隙間から外を覗く。天気は良好だが街明かりのせいか星が見えない。
「さて、建物伝いの移動はもうできないな」
ナトラたちは銃撃されるリスクを下げるため建物伝いに移動した。基本的には窓やドアから侵入したが、すぐに見当たらない場合は〈禁錮破り〉を使用して、屋外にいる時間を極力少なくした。
道中で人間と出くわしてしまうことも何度かあったが、大抵は後ろから首を絞めたり、後頭部を叩いたりして失神させてやり過ごす。その度にエドワードが申し訳なさそうに頭を下げているが印象的だった。
そうして、距離にして四百メートルほど移動してやってきた所は古書店らしく、カビ臭い本がギッシリ詰まった棚が壁際に並んでいた。侵入した時は閉店した後だったらしく、暗い店内で老人の店主が一人で金を数えていて、彼を寝かすのに苦労はなかった。
エドワードは店主が気になるらしく、彼の方をチラチラ気にしながらも、
「ここまで妨害はありませんでしたね」
「俺たちが駆け込むところは限られているからなぁ」
「むしろここからが本番です、殿下」
ナトラは再び外の様子を観察する。
この古書店は“第一ストリート”という大きな通りに面しているのだが、この大通りを挟んで向こう側の区画は官庁街で、行政施設が密集しており、オヴリウス帝国大使館もそこにある。都合の良いことに大使館は大通りに面していて、その煉瓦造りの大きな屋敷が遠目でも良く判った。
「……帝国は煉瓦が好きなのか?」
「特産品だ。良い粘土が採れる」
斜め向こうにある屋敷は、鉄格子できた正門は閉じられているが、そのすぐ向こうにはオヴリウス帝国の軍服を着て、肩にライフルをかけた衛兵二人が待機していた。彼らは玄関の前で立ち話をしていて、あまり緊張している風ではなかった。とりあえず無人というパターンは無いようだ。
「つーかなんでこんな渋滞してるんだこの街は」
「道路事情はどこも難しいんだ」
問題はこの第一ストリート。八十メートルほども道幅があって、強い街灯が狭い間隔であり明るく、夜であっても人通り、車通りがかなり多い。この通りに限った話ではないが、ゼプァイルの道は交通量が多く、そのくせ我が物顔で横断する者が後を絶たない。そのため馬車や蒸気車の流れが滞りがちだ。この通りは特にひどく、車列はノロノロとして、徒歩の方が早そうである。
周囲には高い建物が多く、銃撃に適した地形と言える。ナトラが待ち伏せするならこの辺りだろう。
「さて…… 正門から尋ねるのはマズいんじゃないか? やっぱり遠回りして、今までと同じく建物伝いじゃダメか?」
「あちら側は政治的中枢だ。侵入すれば外交問題になる。失神や迷惑料では許してはくれまい。そもそも、警備のレベルがこれまでの施設とは段違いだぞ」
ヘタにコソコソすると問答無用で攻撃される可能性もあるわけで、やはり正門から入るしか無いようだ。
「となると…… 俺が一人で行って向こうの戦闘用魔導師を連れてくる。待ってろ」
「了解した」
ナトラはジャケットを脱いで、それでホルスターから外した〈座鯨切〉を覆い隠して手に持って、建物から出てる。
人波は忙しなく雑多だったが、エドワードが襲撃されたことが嘘のように日常的。ガス灯が照らす夜の街では、誰も彼もナトラになんて気づかないわけで、騒ぎになったりはしなかった。
ナトラは、人波と一緒に渋滞の合間を縫い大通りを横断して、少し歩道を進み大使館の正門の前まで着た。距離にして百メートルと少しだろう。
正門の向こう側に声をかける。
「おい、代表団のキラミヤだ。協力を仰ぎたい」
「おおッ? キラミヤ殿ッ、良くぞここまで」
「何があったのですか? 殿下は何処に?」
門の向こう、玄関の前で談笑していた衛兵はすぐに近寄ってきて、門を開けナトラを招き入れた。
話が早くて良い。まずは自分の身分を疑われると思っていたので、手間が省ける。
「支局の中で襲われた。エドワード殿下は近くまで来ているんだが、ただ人目が気になってな。護衛が欲しい」
「やはりソヒエントですか」
「かしこまりました…… おおいッ! 何人か来てくれ」
と衛兵が叫ぶと、屋敷の中からライフルを持った衛兵がさらに二人出てきた。
「……魔導師が二人いるのだろう?」
「はい。彼らは殿下の身を案じたアインツグラーツ大使の命令で同盟支局の方へ向かいました。入れ違いになってしまったようです」
「そうか…… お前ら、魔力の扱いは?」
「多少訓練はしておりますが」
「簡単な身体強化くらいで」
これは大誤算。
衛兵たちは随分と屈強な印象だからてっきり手練れと思っていたが、ナトラは見当違いをしたらしい。かと言って、贅沢は言ってられない。エドワードを囲えるだけでも価値がある。
ナトラは不満を声に出さないように気をつけながら、
「そうか…… ライフルは置いていけ、上着も。目立つ」
「はッ」
四人の衛兵は言われた通りに軍服を脱ぎ、屋敷の壁にライフルを立てかける。腰には銃剣があったが丸腰では困るし良しとした。
来た時と同じように大通りを渡り、古書店に戻ると、シエスタが嬉しそうに声を出す。
「おお、四人も魔導師がいたのか?」
「あ、いえ。我々は魔導師ではありません」
「活性術師というほどでも……」
衛兵の言葉を聞いたシエスタは、辛酸を舐めたような顔になったが、
「贅沢は言ってられない、か…… 諸君、敵は銃火器を装備した活性術師一個中隊。私が前を行くから、君たちは殿下の左右を、キラミヤが最後尾を。できるだけ殿下の身を隠すように」
「エドワードはいつでも澄碧冠被れるようにしておけよ」
「はい。みなさんも…… 頑張ってください」
“生きてください”とでも言いたかったのだろうとナトラは勝手に察した。
準備を終えた一行は古書店を出て、大使館へ向かう。先ほどと同じ街なのに、先ほどとは比べものにならない緊張感である。
いつ道ゆく人が斬り掛かってくるか分からない。
いつ馬車が爆発しないかと分からない。
いつ銃声が鳴り響く分からない。
「うわあああ!!」
車道を半分渡った頃である。突如、男の叫び声が響いた。
一同に戦慄が走り、ナトラは〈座鯨切〉に手をかけた。
振り返ると、どうやら渋滞に焦れた馬車馬が癇癪を起こして、そばにいた通行人にちょっかいを出しただけのようだ。
そうとわかると、衛兵たちの横顔が弛緩していくのが分かった。
「気を抜くな、歩け」
ナトラがそう指示を出すと、一同は再び気を引き締めて歩みを進めた。その後は何事もなく、無事に大使館の敷地内に入ることができた。この第一ストリートが最もハイリスクだろうと思っていたから一安心。今後の事はエドワードを屋敷の中に入れてから考えれば良い。
露骨に笑みを浮かべた衛兵たちは立てかけていたライフルを拾いながら、
「これで、一段落ですなぁ」
「ソヒエントも、案外無能なのですなぁ」
「まだだ。早く屋敷の中に入るぞ」
とシエスタが急かすと、二人の衛兵がわざわざドアの前に立つのを待ってから、玄関の両開きのドアを開けた。
「はい、ささ、こちらです殿下」
まだ銃撃を警戒しているナトラは一団の最後尾から、エドワードが入っていくのを眺める。
屋敷の中は異様に明るく、眩しく感じた。それでもすぐに目が慣れ、中の様子が良く見える。
内装は帝国の建物らしいものだった。
秀麗なエントランスホールの吹き抜けは天井にまで続いており、そこからシャンデリアがぶら下がっていた。壁は白っぽい漆喰。一階の床は大理石。ニスの効いた木製の大階段と廊下があり、中央には銅像が鎮座。
そこでは五十人ほど兵士がライフルを構えて待っていた。
最悪のパターンである。
道中で襲うはずもない。大使館は堕ちていたのだから。