アナスタシア Ⅱ
四月二十日、土曜日。
特別試験から一ヶ月経ったこの日、国別対抗戦オヴリウス帝国代表団の結成式が帝都ハウシュカで執り行われる。
アナスタシアもこれにイヤイヤながらも参加していた。
会場となった宮殿の中庭の上には快晴が広がっている。宮殿の白壁には黄金の彫刻が施され、大理石の床の上には年季の入った木彫のテーブル。さらにその上にはビンテージワインの山が築かれているが、陽の下に置いて良いのだろうかと、飲んだこともないのに心配になる。
そんな会場の中には、オヴリウス帝国本国や従属国の貴族で一杯だ。例外はいるにせよ、特権階級の思考回路は似たり寄ったりなのか、どいつもこいつも我が世を謳歌しているような、卑しい笑みが顔に張り付いている。
式の最中の長々しい演説はアナスタシアの眠気を誘ったが、それもひと通り終わりようやく歓談の時間になる。
薄緑のカクテルドレスを身に纏い、髪をアップスタイルにしたアナスタシアは、最初こそ気を使って品良く優雅に歩いていたが、それも四十秒が限界だった。今ではハイヒールを鳴らして人波を掻き割っている。
お目当の人物が見つけると指差して、
「みッけたぞこの野郎ッ!」
「ご機嫌ようさん、お嬢さん」
骨付きチキンを頬張るナトラは三つ揃いのスーツを着ていた。あまり似合ってない。
彼は会釈して後ろ足で退がる。それが癪だったので、アナスタシアはヘッドロックをかけるためにジャンプした。空中で手を伸ばしている時に、人の視線が大量に突き刺さるのを感じる。この場で乱痴気騒ぎをするのはさすがにマズかった。
グッと堪えて彼の前に着地すると、思い通りに行かないのが歯痒くて、せめてリスみたく膨らんだ彼の頬を突く。
「逃げんなよ」
「逃げてないから。あ、このスーツ借りもんなんだ。汚すと買取なんだからな、そこだけ勘弁してください」
「じゃあしょうがない、今日は勘弁してやる。でも次会ったらフライングボディプレスだかンな」
「君こそ、自分が女だって覚えておけよ。黙って愛想笑いしてれば可愛いんだから。あ、これ美味い」
「叱るか、世辞るか、食うか、ハッキリしろよ」
「残念」
そしてナトラは黙々と肉を頬張る。よほど肉に飢えているらしい。ビンタしたらどうなるのか試してみたくなる。
気が抜けて「あーあ」と一旦離れて、ウェイターからリンゴ色のグラスを取って、ナトラの横に並んで大人しくしていると、彼はジトーッとした視線でアナスタシアの全身を舐め回す。
チキンを食べ終えたナトラは、骨の先をブラブラさせながら、
「ご馳走さま。君、本当にお姫様だったんだな」
「それは今更だろう?」
「全然実感ありませんでした」
ブリュンベルク侯国は、オヴリウス帝国の従属国のひとつだ。
国土は狭く、資源は乏しく、人口は少ない。あるとすれば、戦闘用魔導具のノウハウのみである。古くから戦乱のたびに歴史の表舞台に立って来た傭兵国家。建前上、帝国の従属国となっているが、伏して従うつもりは毛頭なく、どちらかというと隙あらば帝国をぶっ潰すくらいの方針だ。
チキンの骨をポイッと捨てたナトラは、懐からシガレットケースを取り出しパカっと開く。すると、カチンと動きが止まってなぜか目を瞑る。
「なんだよ?」
「……全部吸ったの忘れてた」
「バッカでぇ」
「やかましい」
パタンと閉じたケースで頭をコツンと叩かれた。
こういった手荒な扱いはされた覚えがないのでちょっと嬉しくなってしまうから不思議だ。
「へへ、私のことはいいよ。壇上で見つけた時は驚いた。ここにいるってことは代表団入り決定だろ? なんで報せないんだよ?」
「いや、正式な契約が決まらなくて。なんか時間が掛かるんだと。おかげで契約金が入ってこなくて財布が薄い薄い」
「はあ? ババアがオッケェ出したんだからそれで終いだろ? お前、面接で嘘ついた?」
「いや、言いそうになってやめた」
アナスタシアは背伸びをしてナトラの耳元で囁く。
「ここだけの話、あの場に精神鑑定官がいたから嘘はバレるぞ」
「……それはどうも」
くすぐったいのか、彼の耳が赤くなるからちょっと面白い。
「じゃあなんで手間取ってるんだろ?」
「上から“待った”が掛かったんだよ」
背後から聞き覚えのあるしゃがれた女の声がした。
振り向くと、ただでさえ皺まみれのグラディスが、さらに眉間の皺を増やして睨んでいた。
「げぇッ!?」
「本部長さん。どうも」
「なんだよ急にッ、挨拶回りしてたんじゃないの?」
「あんだけ大声ではしゃいでたら文句も付けたくなるに決まってんだろッ!」
怒鳴られたアナスタシアは反射的に身体が“気を付け”する。釣られてナトラもマネした。
「だいたいあんたは昔っから言葉遣いが……」
そうして、長々とお説教が始まった。
こんな場所に来てまで、五歳の時のオネショの話を乗り換えされるとは思ってもみなかった。ナトラが「プッ」っと吹くから逃げ出したくなる。
ひと通り言い終えて、喉をワインで潤したグラディスは、
「あれ? なんの話だっけね」
「なんで自分は正式契約できないのか…… とかそんな話です」
「そうだった。まあ嫌がらせだね、国務長官殿はあんたをハレの舞台に立たせたくなかったんだよ」
「メンツの話ですか」
「そういうことだね。やっぱり特別試験の夜に決めちまうんだった。まあ二、三日中に決まると思うから安心しな」
三人は会場の中心に視線を送る。
多くの取り巻きを従えて、ワイン片手に談笑しているケイネス・ローランド・フォン・ノルマンディー伯爵がいた。
人によってはまるで舞台俳優だと評するが、人を品定めする冷たい視線がアナスタシアは大っ嫌いだった。おおかた、今も悪巧みの算段でも相談しているのだろう、と勝手な邪推する。
「そんなに凄いの?」
「権力の亡者」
ナトラが頭の悪い子供のように聞いたので、嫌味てんこ盛りで答えた。
「じゃ、あの方が?」
ケイネスのすぐ側に、幼い身体に豪奢な詰襟服を着た子が立っていた。
サラサラとした銀髪と透き通る白い肌が麗しく、女の子に見間違えそうになるほどだ。和かに微笑んでいるが、アイスグレーの瞳には憂いが籠っているのが遠目でも分かる。
「そう、エドワード殿下。ノルマンディー伯爵が連れてきたそうだよ」
エドワードは皇帝の唯一の子供で、帝位継承権第一位にいる。
皇帝の現在病床に伏しており、そう遠くない未来に崩御するだろう。唯一の直系であるし、次期皇帝は決定的。
つまりは皇太子だ。
そのエドワードを、連れ歩いて見せびらかしているのだから、ケイネスの人柄も底が知れる。
不憫なことだ。
アナスタシア自身も決して無関係でないのだが、それでもエドワードに比べたら気楽なものだ。
「最近多いっすね。こういうの」
「自分の力を見せつけているのさ。“帝国は手の内だ”って。まだ幼いのに、悲しいことだよ」
ナトラがもう一度、アナスタシアの全身を舐め回すように見て、
「なんていうか、こう…… 俺の思う“お姫様”ってああいう感じ」
「どういう意味だ!? いろんな意味で!」