ナトラ ⅩⅩⅡ
六月十七日、日曜日。
ナトラは〈アイレーの骨織り線虫〉に浸かっていた。施術を受けている間は意識が朦朧とする。睡眠に入る直前か、あるいは覚醒する直前の状態が延々と続く感覚だ。そういう理念であり、副作用らしい。
そんな状態で見る夢は、現実感に溢れ、まるでタイムスリップしたようであった。
それは、四年前にクノが国別対抗戦に参戦するために天龍院を出る日のこと。
素直になれないナトラを、流れるような投げ技からの袈裟固め。懐かしい。柔らかい体温も匂いも感じて、涙が出そうになる。そういえば、最初に会った時も投げられたなと、過去の夢を見ながらさらに過去を思い返していた。
夢は続き、クノはナトラから離れて立ち上がり、天龍院の正門を出ていく。
当時は見送るだけで何も言えなかった。
今は何か伝えなくてはならない事がたくさんあるが、うまく言語化できない。とにかく引き留めなくてはと、足を踏み出そうとするが動かない。
夢は記憶の通りに進行する。
夢の中のナトラは、ナトラの意志に従わない。階段の上から天龍院のみんなと見送ることしかできない。小さくなっていくクノの背中をただ見送る事しかしない。
クノの背中が見えなくなっても、ずっとその場に立ち尽くしていた。
『なんでクノさんの死にこだわってるの?』
アナスタシアの言葉を思い出して、これが悪夢なのだと理解できた。
ナトラの時計はまだ、四年前から動いていない。
〈アイレーの骨織り線虫〉による施術が終了すると、ナトラは夢から覚めた。医務室は地下にあるため時間が分からないが、腹時計的には未明だろう。
浸かっていた液体は蒸発してゆっくり消えていく。
ここにいても仕方がない。水槽の高さは三メートルくらいだから魔導師にとっては問題にならない。
軽くジャンプして外に出た。
すぐに診察ブースの椅子に座っていたルルゥが立ち上がり、バスローブを持って近寄ってくる。
「勝手に出るな。調子はどうかね?」
「大丈夫じゃないっすか?」
「そうかい?」
彼女からバスローブを受け取り羽織ってから、試しに顔をパシッと叩くと、いつも通りの肌が再生していた。目も耳も鼻も不具合はない。
「大丈夫そうです」
「ふむ、問題は無さそうか」
とルルゥが興味深そうにナトラの顔を触診。心配しているわけではなく、自分の仕事の確認か、でなければモルモット扱いだろう。
「俺は……」
「ん?」
「何がしたいんでしょうね…… 大事な夢を見たんだけど、思い出せない」
「夢だからな。覚えていろというのが無理だ。とりあえず、一服するか?」
「遠慮します」
シガレットケースを開いて差し出すが、不思議と今は、クノから教わった銘柄しか吸う気になれない。
「そうか? それでは治療は終了だ。とりあえず、彼女を部屋に帰しておいてくれ」
「は?」
思わず頓狂な声を出すと、ルルゥは衝立を指差す。恐る恐る衝立に近づくと、その奥のブースでは、ベッドでアナスタシアが寝ていた。具合が悪い様子はなく、穏やかな寝姿であった。
やはり黙っていると美人である。
「一生寝ててくれないかなぁ」
「医務室で言う冗談ではあるまい。いや、医務室で冗談を言うものではあるまい、とするべきか」
「チキンは? 腹減ったんですけどフライドチキンは?」
「我々で食べたよ。冷めてしまったら元も子もないからね」
「……そいつはどうもッ」
腹いせにアナスタシアの頬っぺたを摘むと捻りあげると、彼女はバチッと目覚める。
「いっててて! おい何すんだよッ」
と跳ね起きたアナスタシアは同時にナトラの手を払い、胸ぐらを掴んだ。
「おはようアナスタシア君。天龍院では寝坊はこう起こすんだよ、千切れるほどにな」
「寝坊してないよ。まだ五時前だろ!」
「そう言う問題じゃねえよバカ、人の肉食いやがって」
「あ? ああ、それは…… 半分はルルゥ先生が悪い」
「私は寝る、おやすみ」
本当に眠いのだろう。欠伸をかいたルルゥは開いたベッドに潜り込むと、すぐに寝息を立てた。アイレーの起動中は出来るだけ見守っている人だから、おそらく徹夜だろう。
そう思うと、ナトラは怒る気が失せた。
「はあ…… もう肉はいいよ肉は。つーかなんで医務室で寝てんだよ?」
「イヤイヤ、ナトラ君が起きた時、一人だと寂しいかと思って?」
「先生が付きっきりだろう?」
「ルルゥ先生を人類にカウントしない。人類とは、私のように才気に溢れて感情豊かな若者を言うのだよ、ナトラ君」
「寝言は寝て言え」
「いや寝てたんだけど! 起こされたんだけど?!」
「帰るぞ」
「……ちぇ」
急に不機嫌になったアナスタシアはベッドから降りて、ハンガーにかかっていたジャケットを羽織るとナトラを置いて医務室から出ていく。
乱暴に起こされたからというわけでは無さそうだ。
なんとなく察しはつく。
ナトラはすぐに追いかけ、ガクッと落ちた肩と並ぶ。
「アーシェ」
「……なんだよ」
「試合のことだけど…… 良くやった」
「……見てないだろ」
露骨な褒め方だったが、アナスタシアの反応が緩くなる。やはり、試合のことを大して褒めてもらえなかったらしい。
試合前に「今日は私の日」と言うくらいだ。勝ったのだから、チヤホヤされるだろうと期待していたのだろう。
「見てないから言ってんだよ。君はヘッドコーチから出されたリクエストを果たした。そこは、どう転んでも変わらないから」
「なんだよそれ、意味深」
言葉尻が気になったのか、アナスタシアはまた不貞腐れた顔に戻る。見ていると、フッとクノのことを思い出した。思わず彼女のストロベリーブロンドの甘い髪をクシャクシャッと撫でる。
「良くやった、ホントもう、良くやったッ!」
「わかったわかった、わははッ、ありがとありがと」
するとようやく、アナスタシアらしい景気の良い笑みが溢れた。こういうところは子供っぽい。
その後は取るに足らない会話をしつつ、アナスタシアを三階にある彼女の部屋の前まで送ってから自室に戻り、“飯前戦”までベッドに横になる。
目を瞑ると、やたらとクノの顔が浮かんだ。