ジャスパー Ⅱ
六月十六日、土曜日。
試合開始五分前。分厚い雷雲が広がる空の下、ジャスパーはシャドーボクシングしながら身体をほぐしていた。
首には〈打ち上げ棺〉の端末である鈴付きのチョーカー。真紅のジャケットの襟には〈伝々鳩〉のブローチ。
そして、両腕にはガントレット型の魔導具〈積み上げる幸福〉を装着していた。重量はそこまで重くないが、ナックル部分に金属プレートが付いて、握ると拳全てを縛るため窮屈な打撃になりがちである。しかし使い慣れたジャスパーであれば素手と同等の自然なパンチを繰り出せる。
軽くステップを踏みながら、ジャブ、ストレート、フックと連続で繰り出し、コンディションを確認していると、すぐに額に汗が滲んだ。あまり動きすぎても良くないとアップをほどほどに切り上げ、今日の試合場に目を向けた。
眼前には巨大なヴィチェンツァ・クレーター。窪んだ大地には大小無数の岩石で満たされている。風通りは良く、人が身を隠れることができるサイズの物はない。地質のせいか、仄かに鉄の匂いが鼻に付いた。
クレーターの底を挟んで対角にはクォンツァルテ代表の本陣。今回の本陣の位置はクォンツァルテが南側を先に選び、オヴリウスが北側を選んだ。試合場の一辺は二キロメートルだから、対角だと三キロ近く離れているはずだが虹色の光がハッキリと目視できる。
試合場としてはシンプルすぎるくらいだ。部隊としての地力が要求されるだろう。
なんて考えていると、咥え煙草のナトラと日傘を差したアナスタシアが控室から出てきた。
ナトラはいつも通りジャケットに腕を通し、腰のベルトに〈座鯨切〉が。アナスタシアはやはり白いショート丈のワンピースでジャケットは肩にかけていた。
アナスタシアはジャスパーの動きを観ると感心した様子で、
「調子、良さそうだね」
「おうよ、最高の仕上がりだ。今日は俺の活躍を拝ませてやるぜ」
「はッ、何いってんの? 今日は私の日でひょ?」
震えた声であった。おまけに膝が笑っている。緊張しているのは明らかだった。
見かねたナトラが小馬鹿にするように、
「アーシェ、試合前になって緊張するのどうにかならね?」
「るっせぇ、分かってるよ…… スー…… ぬああーー!! 生きて帰るぞッ!! ほらッ、擽れよ!」
と、日傘を捨てて両手を上げてアナスタシア。
ナトラは「はーあ」と心底めんどくさそうなため息をつくと、脇腹に手を伸ばした。
「うひゃひゃ、ちょま、んんッて、手加減を、あはー! んんッ、あタンマタンマー、ああーー!」
ところどころかなり甘いアナスタシアの嬌声を聞いた観客がザワつく。
ナトラは作った無表情である。
ジャスパーは極力無関係を装う。
気まずい空気がしばらく流れて、アナスタシアの膝がガクンと崩れ落ちると擽りが終わる。
仕上げにナトラはバチンと彼女の背中を叩いて、
「どう?」
「はあ、はあ、多分、大丈夫、んあ……」
「次から自分でメンタル整えろよ?」
「善処します。ふいー」
アナスタシアはピョンピョンとその場でジャンプを繰り返して見せる。とてもしなやかな印象で、確かに緊張は解れたようだ。
それはいいとして、
「で、キラミヤ、エイドリアンはどうした?」
「ブーツが入らないとか慌ててた」
「それもいつものことだな…… お前は大丈夫か?」
「問題ない」
「そうか?」
「スイッチとか言ったっけ? メンタル自由自在だもんな?」
なぜかアナスタシアの方が誇らしげである。
「キラミヤ、前から思ってたんだが…… それは、大丈夫なのか?」
「大丈夫な訳ないだろ。自己暗示だぞ?」
「うぇッ? そうなのか?」
質問したジャスパーよりもアナスタシアの方がショックのようであんぐりと口を開けている。
「お前らが気にする事じゃないよ」
と、残り短い煙草を一気に吸って、紫煙を吐いた。
煙草を吸えば誤魔化せる程度のものなのだろうか。だとしても、ナトラの精神は戦闘向きではないのではないかという懸念が浮かぶ。
「……はー、言っても無駄だろうが、ほどほどにしてくれよな」
「ああ」
それから三分ほど待つ。いい加減時間がなくなってイライラしてきた頃にようやく、虹色の指揮者襷を肩に掛けたエイドリアン・ノリスが、その太った身体をポヨンポヨンと弾ませて走り寄ってくる。それなりに体重があるはずなのだが、腹の中に風船を入れているような印象で、重量感がまるでないから不思議だ。
「ごめんごめん、遅れちゃった」
「おめえ、またデブったか?」
「違うよ〜みんなが痩せてるんデブ〜」
「ぶっ叩くぞ」
「てへッ?」
憎たらしい笑みを浮かべたので殴りたくなったが、懐中時計を眺めるナトラがつまらななそうに、
「あと三十秒」
「ちッ!」
作戦の最終確認をするはずだったのにご破算になってしまった。
「とにかく、予定通りだ。アイツら、最近不幸があったらしいが気にするこたぁねぇ! ギタギタにしてやれ! 気合い入れていくぞ!」
全員で息を合わせて「おお!」と叫ぶと敵陣を睨みつけた。