アナスタシア Ⅸ
六月十五日、金曜日。
〈灼煉離宮〉二階第二会議室には商連ラウンド開幕戦のブリーフィングを行うため、ファーストオーダーに名を連ねた者を中心に人が集まっている。しかし集合時間を過ぎてもまだ始まっていなかった。
暇を持て余したアナスタシアはミドの隣の席でグラグラと椅子を揺らしていた。ミドはテーブルに置いた懐中時計を恨めしそうに見つめながらココア入りのマグカップをチャプチャプ揺らす。
天気が悪いせいか、ミドの顔色がいつもよりも暗いみたいだ。ヘッドコーチの代わりをするのは、アナスタシアが思うよりも激務のようで心配である。
気晴らしになればとアナスタシアは身を乗り出してテーブルに肘をつき、緩い話題を振る。
「ミドさん、たまにはストレス発散したら? 甘いもの食べたりとか」
「そんな事したら虫歯になるじゃない」
さすがに冗談ですよね。
「うーん…… じゃあ普段は何してリラックスしてるのさ?」
「そうね、人の恋愛話に首を突っ込む事かしら。純愛モノはダメ。ドロドロの三角関係がいいの。あと不倫話」
珍しく子供っぽく目を輝かせて早口でまくし立てるミド。しかし会議室の誰一人彼女の趣向についていけず沈黙が流れそうになるが、アナスタシアが食らいつく。
「……そ、そのうちミドさん好みのトラブルだって起こりますよ!」
「アーシェちゃん、失言よ」
「お互い様では?」
ため息を漏らしたミドは窓の外に目を向ける。さっきと別の意味で機嫌が悪くなったようだ。
おり悪く、二羽のツバメがイチャつき飛行をしていて、彼女はいっそう複雑そうな表情になった。
心配になったアナスタシアは反対の隣に座っていたドリスにヒソヒソと、
「大丈夫かな?」
「まあ色々あるんでしょうて…… 順位が上がればなれば、良くなりやすよ。前回も順位と機嫌が比例してやしたし」
「そっか、じゃ、頑張らなきゃ」
アナスタシアは胸に前で拳を握りしめ気合を入れた。
「すみません、遅れました」
ようやくナトラがやってきた。五分ほどの遅刻だ。エドワードの護衛のこともあるから時間に余裕がないらしい。
暇を持て余した面々の不満の視線が突き刺さる。
「ご苦労さま。始めます」
ナトラが席に着く前にミドはヘッドコーチらしい毅然とした表情に変わる。
「さてと、第六節に向けてのブリーフィングを開始します」
国別対抗戦の試合は、四人対四人の部隊による陣取り合戦だ。
勝利条件は二つあり、一つは敵軍の指揮者を撃墜すること。もう一つは、自軍の指揮者が敵本陣に降着すること。試合時間は三十分。これを過ぎると引き分けとなる。
「まずは記録を見ましょ。ドリスちゃん」
「あっす、それじゃあ再生するッすよ」
ドリスが魔導具〈トラパーズのラッパ吹き人形〉を起動すると試合映像がスクリーンに再生された。
オヴリウスの次の対戦相手はクォンツァルテ諸島だ。大陸南部に連なる列島で、島ごとに違う文化があるが、熱帯に海で育った彼らは性格的には大らかな人が多い。
戦略的には、大会開始前に最強の作戦を一つ練り上げ、期間中はそれを使い続ける傾向がある。今大会では特に顕著だ。
「さて、みんなどう思う? 今回の大駒戦術」
「どうもこうも…… やっぱネリアンカさんでしょ」
ミドが意見を求めると、真っ先にアナスタシアが感想を述べた。
他の誰もが異論の挟まなかった。それくらいネリアンカ・イシドルジュの戦闘力は圧倒的であった。
国別対抗戦の勝敗は、敵本陣に指揮者が降着すれば決まる。
普通なら、指揮者は味方のバックアップを受けて駒を進めるのだが、ネリアンカの場合は四面楚歌の中であっても、敵を圧倒して降着を決める、優秀なペネトレイターなのである。
「攻勢時の手のつけられなさは全盛期のウォルフガング以上だと思う」
と、ミドは最上の評価する。
ネリアンカは国別対抗戦で必要なスキルをおおよそ全て身につけていたように見える。事実、今大会のクォンツァルテの戦術は彼女を中軸としたものだ。
「上手いこと包囲できればいいんですけね」
「それが簡単にできれば帝国ラウンドでMVP取ってないだろ」
「たしかに…… ミドさんはどうすればいいと思ってるの?」
「ちょっと試してみたいことがあるの。これを見て」
ミドは用意しておいた資料を配ると、真っ先にジャスパーが机を叩き、
「ゲ、向こうに合わせるんすか?」
「国別対抗戦はまだ前半戦。リスクを背負ってでも今のうちに彼女の資質を見極めたいのよ」
「でもさぁ」
「じゃあジャスパーくん、あなた、ネルちゃんの攻略法ある?」
「……ないけどよぉ」
「その攻略法を見つけるのが、今回の趣旨。勝つ算段はつけるけどデータを取りたいの」
不満はあっても異論は出ない。ネリアンカには勝敗を度外視してでも実験する価値のあると、全員が認めているわけだ。
「でぇ、肝心のネルさんの相手役は誰?」
能天気にアナスタシアが呟くと、全員の視線が刺さる。
「え? 私?」
「君以外に誰があの人の機動力についていけんだよ」
「あー…… なるほど」
「正直、アーシェちゃんとネルちゃんがタイマン張っても負けるけど、他の人じゃそもそも彼女の機動力についていけない…… なるべく粘ってね」
「うわ、期待されてない」
なんだか今日のミドはトゲがある。
「一対一の勝ち負けは問題じゃないの。先を見据えた戦いだということを肝に銘じておいて。具体的には……」
「あのー、よろしいですか!?」
ミドが作戦を掘り下げようとした時、突然会議室の入口から爽やかな声が響いた。
入ってきたのはユーリだった。
全員が露骨に不快そうな表情になったが、この場の長であるミドがすぐに元の落ち着いた声で応対する。
「ブリーフィング中です。後にしてください」
既にすし詰め状態の会議室に入った彼は、ジトッとした視線を嬉しそうに浴びながら続ける。
「緊急なんです。クォンツァルテのヘッドコーチ。死んだみたいですよ?」
あまりに想定外の言葉だったので一瞬、その場の全員の思考が止まった。
流星事件以降、緊張感の漂う今回の国別対抗戦は、また一つ悪い方向に舵を切った事になる。
対戦相手は弱体化する喜びと、明日は我が身の恐ろしさ。様々の感情の混ざり合った、なんとも言えない複雑な空気になった。
耐えられなくなったアナスタシアは椅子を倒しながら立ち上がり、
「はあ? それは…… 確かな情報なのか? カジノで見かけた時は元気に酔っ払ってたのに」
「国別対抗戦事務局からの正式発表をそのままお伝えしました。信じられないならご自分で裏を取ってはいかがですか?」
アナスタシアの思考回路が、試合から離れて政治の世界に飛び立とうと走り始めると、ミドがポンと手を叩いて意識を集める。
「みんな、想う事は色々でしょうけど、私たちに後ろめたい事はないし、やるべき事も変わらない。こういう時こそ、初志に徹しましょう。事務監も、それでよろしいですね?」
ミドが淡々と、しかしシッカリと言い聞かせると、アナスタシアのブレた意識は元通りに試合に向かう。
ユーリは面白くないのか、声色こそ変わらないがどこか物足りなそうな表情で、
「ハイ、もちろん。私たちは優勝するためにここまできたのですから…… それでは僕はこれで」
「さ、続きをしましょう…… なんの話だっけ? ああ、アーシェちゃん一人じゃ絶対に勝てないって話か」
「ミドさん、強調することないっすよー」
「他意はないのだけど。対策として……」