シドウ Ⅰ
細い月の出る晩。墓守の変装をやめて観光客っぽい服装のシドウは、とあるビルの屋上で双眼鏡を覗きながら周囲を観察していた。カジノ“ステラ・ステラ”の周辺には様々な工作員がウロついていた。今晩はいくつかの代表団がカジノに出入りしているから当然だろう。
牽制というか、挨拶みたいなものである。
シドウは、珍しく真面目に仕事をしていたが、耳元で童女の高い声が楽しそうに喚き始めた。
「どうどう? ナトラ元気そう?」
「まだ見えないんだなぁ、こーれが」
レンズから眼を離すとすぐ隣のスズリが、“私の番はまだですか?”と言いたげに眼を輝かせている。仕方がないので双眼鏡を渡すと、嬉しそうに覗く。
スズリは今年で十歳になる、黒いオカッパとまん丸の瞳をした青臭い女の子だ。これが初めての任務で、要領が悪いくせに緊張感がない。
妙にナトラに懐いているのが癪だ。
シドウたちは元々、別件の仕事でゼプァイルに潜入していた。当初は四人一組だったが、代表団の監視と開催地“ゼプァイル・シティ”の監視、両方行う必要があったため、二手に別れたのだ。
流星事件以降、大陸の情勢は変化した。
捜査状況が公開されていないにも関わらず、流星事件を起こしたのは六大国のうちのどこかであるという噂が急速に広まっているからだ。
何者かが情報操作をしているようである。
これによって、今まで以上に六大国間の国民感情は険悪となり、殺伐としている。この上、代表団を不用意に襲った日には、大陸戦争が勃発まで一直線だろう。
ある意味、ここが最前線なのだ。
しばらくするとオヴリウス代表団が出てくる。
「返せ」
「あい」
双眼鏡の中のナトラが、桜色の髪の少女とじゃれあっているのが羨ましい。次会ったら殴ろう。
レンズの中の彼が何気なく襟を正す。それは“異常なし”の合図。実際、変わった様子もなく、彼らはグラン・ペルアイナへ向かっていた。
続いて、シンカフィン代表が帰路につくと今日の任務は最終段階。夜に港街にいる怪しい者達の特徴を記憶して、シドウたちも撤収する。
「俺らも帰るぞ」
「メシ当番はシドウだよね? なに?」
「パンに肉挟んだやつ」
「またかー? もっとチャンとしろーチャンと」
二人は道具を手早く片付けた。
建物の合間に飛び降り、着地する寸前のことだ。突如、周囲から複数の威圧感が発せられた。
それもかなり近い。
眼球を動かしてみると、隣の建物の窓には人影が十人以上。彼らは皆、闇夜に紛れるような夜間迷彩のマントを羽織り小銃を構えていた。
明らかに、活性術師部隊だ。
意識を瞬時に切り替えたシドウはスズリの手を掴むと、
「走れ!!」
「はえ?」
着地と同時に発砲音が二人を襲う。
擦り傷が幾つもできたが、幸いにも銃弾の雨は致命的なものではなかった。
「うッ、ぐうぅ」
しかしスズリはかなり動揺しているようだ。大きな眼には涙を溜めて嗚咽を抑えている。奇襲を受けている状態とはいえ、天龍院の一員としてはもうちょっとしっかりしてほしいと思った。
あとで説教だな。
アドレナリンの味を感じながら路地裏を駆ける。だが前から、上から、横から、人影が現れ銃弾が飛び交い思い通りに逃走できない。
周囲の威圧感の数からして敵は一個中隊。無駄口はなく静かで、息の合った足並みは高練度の集団であることが伝わる。
銃弾を掻い潜り数十秒。ここに至って、まだ二人はかすり傷程度のダメージしかない。だがこれは、向こうが本気で殺しにかかってないからだろうとシドウは分かっていた。
だから、そこに飛び込んだ時、“死”の文字が頭の中に浮かんだ。
路地裏には違いないが、区画の問題なのか、妙に開けた場所だった。普通、こういう所は浮浪者の溜まり場になっているものだが、人っ子一人いない。
代わりに、四方の建物の屋上には人影がズラリ並び包囲し、懐中電灯でシドウ達を照らす。だが発砲する気配はなく、冷たく見下ろすだけだ。
そして怪物が現れた。体長は、二十メートル以上だろう。眩んだ目ではハッキリとした色と輪郭は見えないが、大型爬虫類のように低い姿勢をしていた。四本脚と長い尻尾。前後に長い頭部は口が大きく開いている。トカゲかワニのようだ。体表は白っぽくて分泌液のせいか、妙に艶めかしくテカテカ光り、身動ぎするたびにクチャクチャと気色悪い音を出している。
こういう状況にならぬよう逃げたつもりだったが、結局彼らの掌の上だった訳だ。
せめてスズリだけでも逃がすと覚悟を決めたシドウは、努めて淡々と指示を出す。そうしないと自分自身がパニックに陥るだろうからだ。
懐から手帳を取り出しスズリに投げ渡しながら、
「俺がこじ開ける。独りで逃げて別班と合流しろ」
それはすなわち、シドウはここで時間稼ぎをするということである。言いたいことを理解した彼女は困惑してアワアワとその場で立ち尽くす。
「えッ! でも!」
「シャキッとしろッ、殺されたいかッ」
繋いでいた手を離し、腰の短刀を抜く。
大トカゲの相手はしない。
狙いは、包囲している者の一人。その人影は|夜間迷彩《ダークグレー》のマントを、フードを目深に被り、他の輩に比べれば背が低く、弱そうに見えた。
壁にある配管や、ちょっとした凹凸を足場にして階段のように二人は駆け上がる。
小さい人影は屋上の縁から身を乗り出し、二人に向けたライフルの引き金を絞るが、シドウは銃口の向きから弾道を予測し、急所を庇うように短刀を持った右腕で、最低限の防御を固めた。
小さい人影は一撃で仕留めるのは無理だと判断したようで発砲はせず、銃口を向けたまま建物の屋上を後退する。
代わりに、包囲していた他の人影たちが引き金を引く。
「グッ!」
「いぎッ、あぁぁぁ!」
壁を登っている最中に、複数から撃たれるとどうしようもない。
今までのような逃走ルートを縛るための銃撃ではない、無慈悲な弾丸の雨がシドウとスズリの身体に風穴をあける。
頭部にこそ当たりは無かったが、急所のいくつかを撃ち抜かれた。
百足が這いずるような不快感と激痛が内蔵中に広がる。だが、砂を噛みながら鍛錬をした身体だ。この程度で止まったりはしない。
血みどろで屋上まで登ってみると、不屈のシドウが予想外だったのか、小さい人影の動きは鈍る。接近戦は不慣れのようで、“どうしたらいいのか分からない”様子だ。
一撃入れて怯ませて、スズリを逃がした後に自分も離脱する。そんな甘い皮算用がシドウの脳裏をよぎった。その時だった。
突如、ボゴッと粉砕音を巻き上げて屋上の床が突き破られた。その開いた穴から偉丈夫がシドウの目の前に湧いて出た。
「助けにきたぜぇ!! ベアトぉ!!」
羆のような巨体は薄い月明かりでも分かる黒褐色の肌だった。上半身には大きな刺青と生々しい無数の傷跡で一杯。大きく開いた口には鋭くキラリ光る犬歯。異様な紅い瞳が目立つ。
そして何より、今まで感じたことのないほど桁違いに豪大な威圧感だった。
「はっはぁッ! 死ね!」
シンプルな殺意を口に偉丈夫は左拳をフルスイングで撃ち込んでくる。
此の期に至ってシドウは動転しない。やることは変わらない。
絶対にスズリを逃す。
ひとまず拳を二つにしてやるつもりで拳を短刀で受けた。
「は?」
何が起こったのかシドウは理解できなかった。
思惑通り、短刀は拳骨の間に滑り込むように斬り開いたのだが、しかし刃は手の根元の骨の塊に当たると、ガキンッと鈍い感触を残し、それ以上奥に行けず止まった。
拳の勢いは止まらない。
短刀を挟んだままの鋼鉄のようなそれは妖怪じみた怪力で、受け止めようとしたシドウの右腕を簡単に潰してゆく。
「ぐあああッ?!」
皮膚が捲れ筋肉は露出し、爆発したみたいに骨肉が飛び散った。それでもなお衝撃は吸収しきれず、身体が浮いて駒のように回転しながら宙を舞った。
肉がズタズタになる感覚は激痛を通り越して逆に気持ちいいくらいだ。
建物の屋上から飛び出し、瀕死の身体が地面に叩きつけられた頃にはもう、スズリの気配は消えていた。
隙を見て上手く逃げたようだ。追っ手がかかってるに違いないが、ここに残るよりマシだろうと、飛び降りてきた偉丈夫を見てシドウはそう思った。
彼の足取りは軽く、ニンマリと笑っている。明らかに戦いを楽しんでいる顔だ。
偉丈夫は拳も挟まった短刀を、まるで手袋を脱ぐ時のように気軽に外して、
「良い刀だぁ、よぉし、殺すぅ!」
彼を引きつけておけただけで儲けもの。
ほんの少しだけ安堵していると、怪物の足元にいる眼鏡をかけた痩せた男が、偉丈夫を怒鳴りつける。
「おい、手を出すなと言いつけておいただろう!」
偉丈夫は一転して口を真一文字に結び、つまらなそうに目を細め、顔を背ける。
「チッ、青瓢箪が」
「反抗的だなルシウス。僕がいかに優秀か見せてやると言っているんだ…… ガキはちゃんと泳がせろよ」
眼鏡野郎が大トカゲの主人なのか、手を振るとノッソノッソと近づいてくる。シドウにトドメを刺すつもりだろう。
「くああ…… うらあぁ! 簡単に、やられるわきゃねーだろうが!」
最期の力を振り絞り立ち上がると、壁に走っていた配管を一本引っぺがして片腕で振り回す。キレのある風切り音が耳に心地いい。故郷での修行時代を思い出す。
簡単に死ねない。
最期の粘りが仲間のためになると信じる。
「血ダルマでも、はあッ、頑張るのが、いい男って、もんだ、ろう?」
「ほぉ!」
偉丈夫は感心したように息を漏らしたが、対照的に丸眼鏡はイラついたようで奥歯をカチカチ噛み鳴らす。
「喰らい尽くせ! 〈骨喰みの王〉!」
丸眼鏡が嬉しそうに叫ぶと、大トカゲは大きな顎を開いて突進してきた。