ナトラ Ⅳ
空が朱に染まる頃、特別試験の全試合が終了した。夕風は冷たく、怪我人には堪える。
首からは黄色いタグをかけたナトラは、病院テントの前で待ち惚けを食らう。
治療の順番は先着順ではなく重傷順。目立った怪我が左手の切断くらいでは優先されることなどなかった。実際に幾度も断末魔が運び込まれ、テントからは叫び声が絶えなかった。
服はボロボロで血まみれのまま。傷まないよう氷袋に浸かった左手を小脇に抱え、全身斬り傷で痛い。
何時間もこのままだとさすがに気が滅入る。せめて夕食くらいで出ないかなぁと、ナトラは期待してみるがそんな様子もなく、諦めて煙草を吸おうとシガレットケースを開いて愕然とした。ケースにはあと一本しか残っていなかったからだ。
おかしい、さっき開けた時には十本以上あったのに。
そこで思い返してみると、試合前にアナスタシアと話をした後、綺麗な髪色だったなぁとか、五年後はもっと美人になっているだろうなぁとか、でもあんまり関わり合いたくないなぁとか。そんな下世話なことを考えながら、何も考えずにスパスパ吹かしていたのだ。
路銀の尽きたナトラには当分補充できそうもない。
これは死活問題だ。
煙草のない生活の、なんと味気ないことか。明日から不本意な禁煙生活を送らざるを得ないと思うと、少し泣きそうになった。
最後の一本を口に咥え、マッチ箱を取り出した時だった。
「こんばんはー」
「……元気そうで何よりだ」
「見た目は、な。中身はぐちゃぐちゃ、歩くのがやっと」
アナスタシアであった。火をつけるのをやめて、煙草を耳に引っ掛けた。女の子の前で煙草を吸うのが、なんだか後ろめたいのだ。
着替えた彼女の服は濃紺のワンピース、というかドレス。露出度はあまり変わらないが、上品な印象だ。
魔導具による治療を受けたのか、先ほどつけた傷は綺麗さっぱりなくなっているが、声色が弱々しく、立っているだけでも辛そうだ。
それでも、空元気なのかアナスタシアは得意げに舌をペロッと出し、
「契約ついでに治してもらっちった」
「それは良かったですね」
ナトラは皮肉をたっぷり込めたつもりだったが、表情に現れてなかったのか、それとも鈍感なのか、彼女は誇らしげに笑う。満面である。
しゃがんだアナスタシアは斬られた胸元を意地悪く見せびらかす。
「それに引き換えどうなの? ププッ! その格好、ザマァねえってか」
わざとらしく口元を抑えて揶揄うアナスタシア。ふだんなら「可愛い可愛い」で済ませるが、試合でボロボロになり、何時間も放置されて、挙句煙草が切れた不機嫌ナトラの悪戯心に火がついた。
「つまり綺麗な顔を自慢しに来ただけ? 怪我人相手に? ひどい奴だなぁ」
「いやぁ、そういうんじゃなくてぇ……」
「ショックだなぁ、これだから世間知らずな女は嫌なんだ」
「そんな言い方、しなくていいじゃんか……」
言葉で突き放すと、シュンと肩を落としたアナスタシアは花瓶を割ったネコのようで、今にも泣き出しそうだ。
このまま帰したら後味が悪すぎる。
「ごめん、イヤな言い方だった…… なんか話あった?」
渾身の優しい口調でそう言うと、彼女は一瞬で楽しそうに微笑んで、
「凄ぇな、あんな短い時間で捕まるとは思わなかった、どうやったの!? つーか魔導具起動してないよね?」
「色々すごく秘密」
「うへぇぇ、良いじゃんちょっとくらい、誰にも話さないから」
アナスタシアはナトラの両肩を掴んでガクガクと揺さぶる。血が足りないせいか、脳みそをシェイクされると吐き気が襲う。
気を使うんじゃなかった。
これから別のチームになるだろうから、ペラペラと手の内を明かすのは躊躇ったが、このまま黙り込んでも鬱陶しいので、肝心な所を隠して話すことにした。
さっきの試合のことを含めて、彼女の人となりも何となく分かった。ナトラが思っていたよりも無垢で、好きなことに真っ直ぐな少女であった。
気がつくと緊張の糸が緩んでいた。
「だからもっと駆け引きしなさいって」
「え〜、そういうの向いてないんだよ。反応勝負のがゾクゾクすんじゃん」
「宝の持ち腐れ」
「お前だって剣振り回してるだけじゃんッ、光線とか出せねえのかぁ!」
「やめッ、ケガ人を大事にぃ…… ウプッ」
アナスタシアがナトラの胸倉を掴みガクガク揺らすと、簡単に意識が彼方に飛んで行く。
「お嬢、そろそ……」
「あ? 大丈夫だって」
いつの間にか側に居た、顔に傷のある男がアナスタシアに頼むが、言い切る前に彼女は即答する。
「先方もお待ちになってやすから、何卒……」
男は夜空の下でも判るくらいに青ざめていた。
心が痛んだのか、アナスタシアの眉尻が残念そうに下がり、ブスッとした顔で立ち上がる。
「分かった…… ああそうだ、念のため忠告しておくと、隠しごとはすんなよ」
見下ろす彼女はビシッと指を立ててそう言った。
今更ながら、アナスタシアの服装について何も言ってないのに気がつく。
せっかく粧し込んでいるのだから、一応、世辞らねばと思い、
「ドレス、似合ってるよ」
少し首を傾げて考えた彼女は、コホンと喉を鳴らすと、人が変わって上品な雰囲気に変わる。
慣れた手つきでスカートの裾を持ち上げると、
「ありがとうございます、それでは、お先に失礼いたしますわ……」
月明かりに照らされた彼女は美術品のように優雅で、綺麗で、迫力があったから、呼吸するのを忘れた。
「……なんてな」
ウィンクで揶揄ったアナスタシアは、軽い足取りで停めてある箱馬車へと乗り込む。
窓から手を振る仕草は人を小馬鹿にしたものだった。さっきの挨拶が幻術じゃないかとナトラは自分を疑う。
謎の疲労感と充足感がナトラの中に広がっていった。
耳に引っ掛けていた煙草を咥えたが、いつまでも火をつけずにマッチ箱をいじっていた。