ナトラ ⅩⅦ
六月十日、日曜日。
浴衣に着替えたキラミヤ・ナトラは、蒸気船“グラン・ペルアイナ”の自分の船室で呑気にラジオを聞いていると、ボオォォォッという警笛が腹に響いてきた。なんだか落ち着かなくて、重い足で船室を出た。
グラン・ペルアイナは帝室所有の蒸気船である。全長は百二十メートル。客室数四十二、最大収容乗客数は百八名。外装も内装も絢爛豪華で、繊細な意匠がそこかしこにあり、いかにも帝国式という様相。本来は、貴族や外国との社交目的で利用されるのだが、今は国別対抗戦オヴリウス代表団を運ぶために利用されている。ラウンドごとの移動に関しては、代表団外の組織の助力を借りて良い規約なので船員は帝国近衛。警備もお任せ。ナトラとしてはありがたい限りである。
重い扉を開けて甲板に出ると、潮風がナトラの全身に吹き付け、塩辛い味が目に入り思わず目が細くなった。
それでも好奇心にかられ、欄干に身体を預けて船首の先を眺めてみる。
岬の向こうから港湾都市トートバスの人工的な光がギラギラ燦然と輝いて現れた。あんまりにも明るいから満点の星空が消えたと感じてしまうほどである。
ナトラと同じように、船室から出てきたオヴリウス帝国代表の何人かが船の行く先を見つめる。中にはアナスタシア・フォン・ブリュンベルクも混じっていた。
パジャマの上にナイトガウンを羽織ったアナスタシアの、桜色の下ろし髪が潮風に受けて妖艶に揺れる。それを押さえつける細い指先さえ色っぽくあった。
黙って澄ましてさえいれば、どんな仕草も羨ましいほどに絵になる娘だ。
ところが、ナトラに気づいた彼女はやはり子供っぽい天真爛漫な笑みを浮かべて歩み寄って、
「ようやく着いたな! 長かったぁ! 船はもうゴメンだーぁ」
燥ぎながらポンポンとナトラの肩を叩く。
船は荒天の影響で到着が予定より一日遅れていた。
出港当時は高波に煽られ、副作用の抜けてないナトラには余計に堪え、飲み込んだ食べ物が何度も吐き出しそうになった。エドワードはケロっとしていたのだが、意外にもシエスタがずっと甲板でゲェゲェしていたのが印象深い。
「まあ、開催地まではまだまだ長いよ。トートバスはゼプァイル商連の玄関口だから」
トートバスは、大陸南西部から深くえぐりこむようにできたエンジェ海の最奥に位置し、ゼプァイル商連加盟都市で唯一の不凍港である。そのため、海運と陸運の転換点となっており、様々な国の船舶が集まるところだ。
トートバスには物と金が集まるだけに商業施設も充実している。オヴリウス帝国代表一行はここでつかの間の休息の後、商連ラウンドの開催地ゼプァイル・シティに向かう予定だ。
アナスタシアはそれが楽しみで仕方ないのか、ピョンと軽く跳ねて欄干に乗ると、ピョンピョンとつま先で弾む。
「カジノと服屋と…… あとはどこに行こっかなぁ」
危ないから降りろ」
「ちぇ」
アナスタシアは不満を漏らしながらもどこか楽しそうに降りた。
船に乗った時の彼女はケイネスの件で随分とイラついた感じだったが、今ではすっかりリラックスしている。緊張しっぱなしでも心に悪いから構わないのだが、一応浮かれている頬を指先で突く。
「アーシェ、俺たちゃぁ観光に来たじゃないんだぞ?」
「わーってるよ、ちょっとだけさ」
我慢できないのか、アナスタシアの口元がネコみたいにヒクヒクして、欄干から降りても踵は浮いたままだ。
ギャンブルが強そうには見えないから、きっと明日の今頃には財布の中身が空っぽになっているだろう。
「ナトラはやること沢山あるんだっけ?」
「ああ、でもカジノには行くよ」
「そっか、良かった」
すると当然、ユーリ・エーデルフェルトの神経を逆立てる陽気な声が甲板に響く。
「みなさーん、ちゅうもーく。今日はもう遅い時間なので、下船は明日にしましょう」
大げさな身振りでそう言い放つと、甲板に出ていた者の目つきが露骨に悪くなる。
言っていることは正しいのだが、どうにも素直に従おうと思えないから不思議だ。
気分を変えようと、懐からシガレットケースを取り出してタバコを口に咥えて火をつけた。
口一杯に広がった煙をよく味わってから吐くと、追い風に乗って糸を引くようにトートバスへ流れていく。
それをボーッと眺めるナトラは思わず、
「さて、どんな顔しようか……」
溢れ落ちた呟きは夜風の中でも聞こえたようで、アナスタシアは不思議そうに見つめてきた。
「どうした?」
「いや、なんでもないよ…… よし、寝る」
「はあ? ああ…… おやすみなさい」
半分以上残った煙草を海に捨てると、ナトラは踵を返して自分の船室に戻った。