ナトラ ⅩⅢ
五月二十五日、土曜日
この日、国別対抗戦第四節の試合が執り行われる。オヴリウス帝国対シンカフィン共和国は第二試合だ。
雲ひとつない晴天、突き抜ける青色グラデーション。日差しでジンジンとする肌を、カラッとした風がさらうおかげでとても気持ちがいい。
そんな空を、一等客を乗せた飛行船の大群が泳ぐ。
一辺五百メートルという試合場の全てを把握するためには上空から見下ろすしかないわけだが、せっかくの好天に水を差されたみたいでナトラは少し癪だった。
ジャルガン旧市街を四角くに仕切った試合場は、古びた白い石材の廃墟と、そこから割って生え伸びる緑の樹木のツートンカラーで、これはこれで趣があった。試合場を仕切る虹色に輝く線は魔導具で塗られたもので、真上だけに光を放っているから、ある程度離れていても境界がわかりやすい。
角から五十メートルの扇状の範囲はこの塗料で完全に塗りつぶされ、“本陣”であることが明確だ。試合開始前はこの中で待機。また、敵の指揮者がここに触れると降着となり試合終了である。
その北角の中、ナトラは胡座をかいていた膝の上に〈座鯨切〉を置いていた。いつの通り真紅のジャケット、そして首には鈴付きの黒いチョーカーがあった。これは〈打ち上げ棺〉の端末で、血圧や呼吸数を把握でき、危険域に達すると運営本部に飛ばされる。また鈴を潰すと任意のタイミングで飛べるが、いずれにせよ失格となり試合に復帰できない。出場選手は安全性の確保のために、全員これをつけることになっているのだった。
本陣の外側には雛段状の二等客席が設けられている。この中に出場選手の控え室があるのだが、染み付いた緊張感を嫌って早々にやって来てしまった。
さらに、試合場を取り囲むように三等客席があるが、これは貧民用ということもあって、単に均された地べたがあるだけだ。
たまに「引っ込め」とか「よそ者は帰れ」だとか野次が飛ぶ。これから現れる選手を待ちわびてる反動と思えば理解できるが、良い気持ちにはならなかった。
野次を無視し、ナトラはいまだ名称不明の防盾の制御の確認のため、両手で包み持った。ライターに魔力を流し込み、起動と停止を繰り返していた。半透明の円盤が宙に具象したり、消失を繰り返す。
この一週間、この魔導具の特性を掴むためにトレーニングをし続けたため、おおよその性能を把握できた。直径が十センチから百センチの間で変えることができ、小さくなるほど耐久力が上がるのが分かった。
すると突然、罵声が歓声に変わる。
顔を上げると、アナスタシアの碧い瞳がすぐそこにあった。
桜色の髪を水色のリボンでサイドテールにし、ロールアップしたジャケットのボタンは全て外れて白いキャミソールが見える。「動きやすいから」と短パンで、ずいぶんと涼しげだ。
慣れた感じで日傘を差して、立ち振る舞いはどこか優雅だが、表情はいつも通り天真爛漫なままだ。
「防盾どうだ?」
「すっごいまだまだヘタクソだな…… 少しくらい応えてやれば?」
「ええ…… ナトラが言うなら」
面倒そうに言うと、愛想の良く猫を被って日傘下げて手を振った。
すると歓声は一段と湧いた。
開幕以来、代表団の成績は振るわない。だからこそ、アナスタシアたちへ向けられる期待はひどく重い。
彼女は再び日傘で顔を隠すと、話を戻す。
「硬さが安定しないって言ってなかったけ?」
「ああ」
「条件を満たすと性能があがるってやつだろ? 見当ついた?」
「煙草。吸うと性能が上がるっぽい」
「また、面倒な」
ライターの理念は、喫煙後、二十分くらいまで最高硬度の防盾を出せて、その後緩やかに性能が落ちていく。有り体に言えば、煙草を吸えなくてイライラしているとボロボロに性能が落ちる。
これを作った魔導師は相当な愛煙家だったろうと、ナトラはシンパシーを感じた。
「ま、ライターなんだから妥当っちゃ妥当だがな」
「アーシェが頑張ってくれれば、どうにでもなるさ」
「なんだそりゃ」
適当な世辞が不満なのか「ぶーぶー」と口を尖らせる。
ふと観客席の時計を見ると、試合開始まであと数分、そろそろ残りの二人もやってくるだろう。
少し落ち着かなくて顔に力が入る。
「吸えば?」
「……さっき吸った。今はいいよ」
「吸えよ」
彼女は膝を抱えて蹲ると、足の指先をピョコピョコ動かす。
「ナトラって煙草吸いたい時、目ぇ瞑る癖あるだろ。最初なんの合図かと思った」
言われて見るとたしかにいつも目を瞑っている気がする。
するとアナスタシアは、外方を向いてぶつぶつ唱え始める。
「私さ、実は自分の屋敷から出たことってほどんどないんだよ」
「まあ結構そんな感じする」
彼女は端的に、自身の幼い時のことを語った。周囲の人間は自分を腫れ物のように扱い、それに応えられない生活は息苦しくて堪らなかった。気の置けない間柄に、強い憧れがあったという。
それはどこか懺悔をしているようで、聞いていて良い気分にはならなかった。
「だからさ、変な気を使われるの、なんかヤダなー…… と」
「一昨日まで寝込んでた奴が生意気言ってる」
プクッと頬が膨らんで面白い。
「分かったよ。ありがたく一服させていただきます」
半ば自棄になって懐からシガレットケースを取り出す。
一本咥えて火を付けて「プハー」とワザとらしく煙を吐いた。
「輪っか作れる?」
興味津々の瞳がそう言った。
期待に応えてリング状の煙を出すと、
「おおー」
驚くほど顔が近い、柔らかそうな谷間が襟首から覗かせるから思わず噎せる。
「ケッホ…… 近い」
彼女の額を指先で押し返すと、何か思い出したのか、
「あっそうだ、剣聖のことだけどさ」
「分かっているよ、今日は試合に徹する」
「……ナトラはさ、別にあいつを殺したいわけじゃないだろ?」
「違う、俺は本当に剣聖を殺したい……」
「そうか? だったら前夜祭の時、ナトラは刀を抜いてたよ。だろ?」
「それは……」
次のセリフが出ててこない。
確かに、なんであの時殺そうとしなかったのだろう。
ウォルフガングが想像より強そうだったからか?
想定外の場所だったからか?
それでも試合中に殺すよりずっと楽なはずなのに、どうしてあの機会を逃せたのだろう。
アナスタシアが肩を強く叩くとハッとした。
「いずれにせよ、きっとこの試合で見えてくるものがあるだろうよ。そしたら教えてくれ」
「うん?」
彼女は呆れた様子で肩を竦めると、
「ナトラお前、殿下に言ったこと、自分で実践してるのかね?」
「はあ?」
エドワードには色々言ったやったが、意外と思い当たることがない。というより、いちいち記憶していられるほど、冷静でなかった。
これといったセリフが出てこず、首を傾げる。
するとアナスタシアの碧い瞳がスーッと細くなる。
彼女はオペラ調に低い声を作って、
「“一人で戦うなー、ちゃんと頼れー”」
「うわぁ…… ああぁぁ……」
記憶がフラッシュバックしたナトラは顔を抱えて身悶えする。
あの時は、エドワードが自分の子供の頃と重なって、ついテンションがあがってしまったから言えたのであって、揶揄われると恥ずかしくて全身から火が出そうになる。燃えて灰になりたい。
ニヤケ顔のアナスタシアは、ナトラの背中を指でつつく、
「なんか言うことあるんじゃないのかにゃ? 頼る? 頼る?」
「ぬがあぁぁ」
「二人とも元気ね」
そうこうしていると、ミドがやってきた。
腰の革袋は鋼玉が入っていてジャラジャラと重そうで、手に持った〈玉撞き遊び〉を杖のようにしている。
「ミドさんッ、助けてください!」
「おやおやミドさんに頼る?」
「そうそう、先に渡しておくわ」
二人のじゃれあいを無視したミドは、二人に逆さになった鳩が描かれたブローチを手渡す。
〈伝意鳩〉で創り出したもので、これを介し音声による通信ができる。
試合場は五百メートル四方と広い。もちろん、直に会話したり、手信号やアイコンタクトもするが、こういったものを使っていかないと意思疎通がまともにできないのだ。
「エドワードは?」
「そこでシエスタさんと打ち合わせとしているみたいで…… 噂をすれば影ね」
「すみません、支度に手間取って」
最後にやってきたエドワードは〈澄碧冠〉を被り、純白のマントを羽織り、古びた木杖を持って、指揮者を示す虹色の襷が掛けていた。
身につけている装飾品はどれも年季が入っており、帝国の歴史を着て歩いているようだ。さらに後ろからは帝国の国旗がかけられた、荷馬車ほどの大きさの物体がモゾモゾついてきていた。
彼を目撃した観客が一斉に声を上げる。それは熱狂的で衝撃的で、観客席が壊れんばかりにギシギシ軋む。ミドは本当に辛いのか、奥歯を食いしばりながら掌で両耳をピッタリ抑える。
エドワードは慣れているのか、嫌な顔せず全ての観客が見える位置に進んで手を振った。
しばらくすると、懐中時計を確認したミドが〈玉撞き遊び〉で地面を叩いて注目を集める。
「一分前、みんな装備はちゃんとしてるわね。調子はどう?」
ナトラは見栄を張って、
「……十割に戻しました」
「僕は一千万パワーです」
子供らしく両手をグッと握ったエドワードは鼻息荒くそう応えた。
「ミドさんは?」
「私は半分くらいかな。ま、いつもの通りね…… アーシェちゃん?」
性格的には真っ先に答えそうなものの、いつまでたっても黙ったままだ。
「あれ? なんか今更…… ビビってる。ハハ、格好悪いな」
さっきまでテンションが高かったのに、気づけば強張っている身体ブルブルと震えている。いや、震えそうなのを誤魔化していたのかもしれない。
「ミドさん、戦ったら痛いかな?」
「……失神は珍しくないわ」
「本当にどうしようのなくなったら降参すればいい」
「そうだな。分かってる」
彼女の顔色は一向に良くならない。
試合開始まで三十秒。
どうしたものかと思案して結局、緊張を取り除くには緊張感のないことをするのが一番と思い至る。
「アーシェ、手ぇ挙げて」
不思議そうな顔で、それでも素直に手を高く上げるアナスタシアの脇腹に、ナトラは手を入れてワシャワシャとくすぐる
「んんあっ?! ちょっとまってひゃああんっ! こしょばいうひひ!」
「ここか? ここがええのんかー?」
彼女は持っていた日傘を放り投げその場にしゃがみこむ。
どよめく観客席から好奇の視線がぶっ刺さるが心を無にしてやり過ごす。
「人の話をぉぉぉ、ひんっんんっ、んあ!?」
ミドは顎に手を当て興味深げに観察している
対してエドワードは、手で顔を覆っているが指の間が開いていた。
たった十数秒の出来事で緊張の糸がダルんダルんに緩んだ。
「こんなもんか、緊張はほぐれたか?」
「脇腹がほぐれたわ!」
咳払いをし、真面目な顔をして拳を彼女の前に突き出す。
「今日は頼んだぞ」
「……頼まれた」
不敵に笑ったアナスタシアも拳を作って、痛いくらいにぶつけると震えはピタリと止まっていた。
白い歯を光らせた彼女は、
「今、完の璧になりました」
「結構、では行きましょう」
フウッと息を吐くとすぐに、試合開始のサイレンが鳴る。