ウォルフガング Ⅰ
五月二十四日、金曜日。
シンカフィン共和国代表団キャンプの本部棟。そこに灯りがついているのに気がついたウォルフガングは、ウィスキーの瓶を片手に中へ入っていった。
中では、資料の山に囲まれた中年男のハゲ頭が目立っている。アレックス・ルフェーブルが前衛芸術家もビックリするくらいに首を曲げ、苦悶の表情を浮かべていた。明日の昼にはもう試合が始まっているというのに、いまだ作戦も、ラストオーダーも、決まっていないのだ。
流星事件でシンカフィン共和国のヘッドコーチは死亡した。そこで代理として白羽の矢が立ったのはアレックス。選手としては好成績を残し、コーチとしては二大会目で、将来は本部長を担うであろうと将来を嘱望されている。
優秀な人間であるのはウォルフガングを始め、代表団の誰もが認めてるところだが、ノミの心臓なところが玉に傷だ。
そんな彼にとって、明日のオヴリウス戦のラストオーダーの方針を決めるのは胃がキリキリと悲鳴をあげるくらいに難題なのだ。
ウォルフガングは酒瓶をドンッとテーブルの上に置くと、
「調子はどうかね?」
「ウォルフ、どうしよう……」
とても自分と同じ四十歳とは思えない返答に、ウォルフガングは子供じみた態度で応える。
「全力で踏み潰そう!」
「簡単にヌかすなよぅ」
彼はガックリと頭を下げた。
ウォルフガングは戸棚からグラスを二つ取り出して酒を注ぐとわざとらしく、
「しまったー、氷を持ってき忘れたー」
アレックスはしんどそうに引き出しから指揮棒を取り出すと、フッと二回振るう。すると空中で氷ができ、カランと音を立てグラスに収まった。
この〈氷河線の鳴動〉は彼が現役だった頃使っていた代物だ。これに何度も助けられたが、今では製氷機なのだから一寸先は闇というか、人生分からないものである。
そのまま〈氷河線の鳴動〉でグラスを軽くかき混ぜている間に、隣の椅子に腰を落とした。
「乾杯ッ」
「乾杯……」
カンッとグラスが鳴る。
口に含んで転がすとチョコレートにも似た甘い香りが鼻に抜けた。
その味に関心したのか、辛そうだったアレックスの顔が柔らかくなる。
「相変わらず、いい酒を知っているな」
「当然だ、剣聖なのだよ、私は」
「関係ないだろこの筋肉ダルマ」
椅子の脚をカツンと蹴ったアレックスは、テーブルの上のファーストオーダー表を手に取る。
「皇太子、ブリュンベルク、そして響測の魔女。この三人は出てくるだろう…… と思っている」
「根拠は?」
「皇太子は帝国の威信を背負っている。ファーストオーダーに入れて試合に出さなきゃ面子丸つぶれだ」
「ふむ」
「ブリュンベルクだって人気がある。帝国ラウンドで一回は出しておきたいはずだ」
「結局、政治か。嫌な話だ」
ウォルフガングはムシャクシャしてウィスキーを一息に飲み干すと、グラスをダンッとテーブルに叩きつける。カッと焼ける喉越しは、頭に上がって熱に変わっていくようだ。
「ウォルフ、短気を起こすなよ」
「分かっている」
アレックスがグラスに酒を注ぎながら、
「この二人が出ると仮定して、実力的に響測の魔女は欲しいはずだ」
「前回の最優秀後衛だからな。開幕から不調気味だが、信頼度は高いだろう」
ウォルフガング自身、何度も彼女に辛酸を舐めさせられた。コンディションが万全なら怖い相手である。
「そこまで分かっているなら四人目は誰でもいいだろう。残りの三人は全員が前衛、それも機動力があるわけでないから、どうせ私がマッチアップする」
「それは、そうなんだが……」
ここまで相手オーダーの予測が立っているのなら、作戦立案は十分可能だろう。どうせなら、前夜祭で炊きつけた彼が出て来てくれれば、ファンは喜ぶだろうかと期待してしまうが。
「……誰が出てきてもやることは変わらない。私がこじ開け、シャルロットが押し込む。違うかい? 我が友アレックスよ」
「あちらさんが死んじまったらどうする。ことは政治の域だぞ?」
「だからこそだ。我々は自由と権利の国、シンカフィン共和国代表だぞ? “皇太子”などという虚栄を理由に戦術を変えるわけにいくか」
「そりゃ建前の話だろう。裏側はそうはいかん」
「政治の裏があってたまるかッ」
シンカフィン共和国は民主共和政。国民の、国民による、国民のための政治が国是だ。
そのため、絶対君主政のオヴリウス帝国とは特に険悪である。
ということになっている。
だが実際には、水面下では秘密外交がまかり通っている。おそらく今回も、帝国側の要人たちは各々打算があり、共和国の要人たちに“お願い”をしているはずだ。アレックスはざまざまな人から色々と指示を出されているのだろう。それが悩みのタネとなっているのだ。
「それで? 君はなんと“お願い”されたんだ?」
「色々だ。試合に勝て。試合に負けろ。皇太子殿下の事故死。絶対に殺すな。失禁させろとかもあったな」
それを聞いて無言で手の中のグラスを握りつぶした。
手の平に欠片が刺さり、傷口に酒が沁みる。
国交があるのは歓迎だ。だがそれは白日の下にあるべきだ。
秘密裏に決まったことに従順になる必要を感じない。それが民主共和政を信じるウォルフガングの心情だ。
「おい、そのグラス高いんだぞ」
「そんなことはどうでもいい」
飲んだ酒に火が着いたのか。熱が脳血管を巡る。
大声で暴れ叫びたい衝動をギリギリ残った理性で押さえつけて、なんとか言葉を出す。
「どうする? ファンの前でクソッタレな戦いを見せるのかね? ファンをガッカリさせるのが共和国の政治なのかね? いま一度、基本に立ち返るべきだ、アレックス。我々のスローガンはなんだ?」
「……国別対抗戦優勝だ」
「然り。ならば、それ以外のことを眼中に入れるべきでない」
「そうだな。相手が誰であれ、潰していくべきだ」
コンコンとノックの音が響くと、人見知りのアレックスの眉尻が緊張する。
「入れ」
すると、コーヒーの香りが立つマグカップを持ったシャルロット入ってきたので、アレックスの眉尻は弛緩する。
長く、ツヤのある黒髪が重そうに揺れている。目尻はやや垂れ下がっているが、黒い瞳に暴力的な迫力があり、ジットリとした視線には貫禄がある。身長は低く百五十センチほど。その割にグラマラスな体型で、肌を露出を避けるために着ているパンツスーツが窮屈そうだ。
その気になればいくらでも「可愛い」「綺麗」と言われるような容姿だが、それを嫌い、無愛想かつ堂々とした態度を崩さない女の子だ。
彼女はウォルフガングの顔を見るなり眉間にシワを作り「チィッ」と良く聞こえる大きな舌打ちをする。
「どうした?」
「師匠の様子を見に来ただけだ」
言い終わる前にもう踵が返っていて、そのままシャルロットは出て行ってしまった。
彼女はアレックスから後衛としての指導を受けているから、弟子と師匠の関係といえる。悩める彼を心配しているのだろう。
「お前さん、いいかげんシャーリーとの関係、どうにかせにゃならんと違うか? 反抗期で済ませちゃぁならんぞ」
こういうお節介なところは歳相応だ。
「そうしなければ、と思うのだがな」
「剣聖も、家庭に入れば悩める父…… か」
そう言うと、アレックスは自分のグラスを差し出す。
「飲まないのか」
彼は、共和国から届いた便箋をまとめてゴミ箱に叩き込むと、
「酒の入った頭で考えごとができるか!」
「なるほど、それはそうだ、その通りだ」
ウォルフガングの声はもう、集中したアレックスの耳に届いていないようで、彼は万年筆を握ってジッとオーダー表を見つめている。
貰ったグラスを一気に空にすると、邪魔をせぬよう静かに立ち去った。