ナトラ ⅩⅡ
五月二十日、月曜日。
地平線から差し込む白い陽光が、草に浮かんだ朝露を輝かせる。五月も下旬に入り、昼間は汗ばむ日も増えたが朝方はまだまだ冷える。吐く息は白く、止まっていると鳥肌が立つ。
そんなキリッとした空気の中、ナトラは〈大いなる卵胞〉の境界面のすぐ内側を走り込んでいた。
二週間の昏睡から目覚めた二日目で、まだまだ副作用の影響は大きい。
筋肉は針金で縛られたように軋み、内臓はギュルギュル鳴き続け、頭はモヤッとして思考がまとまらない。
それでも、冷たい空気を吸って強引に心臓を動かし、血液を循環させると全身が冴えてくる。
走り込みが三週目に差しかかった時、鶏小屋の柵の前で蹲っている小さな人影が見えた。
最初は侵入者かもしれないと警戒して、取り押さえるか、警備を呼ぶか判断に困っていたが、いつか見た銀髪を確認して安堵する。
それでも一応、気配を消して背後に近づき、
「誰だッ」
「あ? えっと、ぞの。ズッ」
寝間着姿のエドワードだった。
壊れた蛇口みたいに鼻水が流れている。両目は真っ赤に腫れては涙の跡が両頬に出来上がっていた。髪はボサボサ、裸足に土と草切れが付いている。
“絶対にして不可侵”と称される帝国の皇太子とは思えない気の毒な姿であったから、気づかないフリをして、
「君はどこの誰だ?」
彼は袖口で顔を拭いながら、
「僕は、エドワード・リゼンフォーミル・フォン・オヴリウス大公、です…… 申し訳ありません」
徐々に小さくなっていく声圧に、彼の重圧の大きさを感じた。
「とてもそうは見えんな。キラミヤ・ナトラだ」
「はい。結成式ですれ違いましたね」
確かにナトラは遠目でエドワードを見ていたが、彼の記憶の片隅にいるとは思ってもみなかったから、さすかに感心した。
「エドワードは記憶力がいいんだな」
彼はビクッと身体を震わせて照れたように頬が弛緩する。
「どうした?」
「いえ、名前を呼び捨てにさせるのは新鮮なので」
「俺は中立国出身なんでね、帝国の常識は通じないの」
ナトラはエドワードの隣に腰を落とし、柵に背中を預けると、
「良いのか? 君はお屋敷に引きこもっていると聞いていたが?」
「はい、きっとシエスタに叱られてしまいます」
「俺も勝手に走り込みしてるのバレたらヘンドラム先生に怒られるだろうな…… で? 泣くだけならここでなくても良いだろう」
「はは…… 本当は鶏の様子を見に来たんです。〈灼煉離宮〉を建てる時に小屋を動かしたので、心配になってしまって…… 鳴かないんです、調子が悪いのでしょうか」
エドワードは柵から身を乗り出し小屋の中を伺う。手入れはしているとはいえ、柵の中には糞の匂いがして結構臭いのだか、彼はまったく気にならないらしい。
鶏はもう起きて、餌や水をつつき、たまに「コケ」と小さく鳴いているが、地平の彼方まで届くような大鳴きはしていない。
「朝うるせえのは雄鶏、ここにいるのは雌鶏。卵が目的だから」
「そういうものですか……」
彼は残念そうに眉尻を落とし、それでも視線は鶏から離れることはなかった。
「で、一人でいたらなんか寂しくなって泣けてきた、と」
「はい」
その横顔を見たナトラは昔の自分とよく似ている気がした。
こんなに泣き虫ではなかったが。
「なんで国別対抗戦に参加したんだ?」
「なんででしょうね」
困り顔で乾いた笑い声。
「ここにいる連中は目標とか、信念とか…… そういうのに命をかけている。君にそういうのはあるか?」
「僕は…… ありません」
「だろうな、君とここにいる奴との決定的な違いはそこだよ、だから誰からも仲間と認められていない」
ブリュンベルク派にも、旧本部長派にも、帝室派にすら、仲間とは思われていない。
「だって、僕は、こんなところに来るつもりなんて、なかったんです。ただ死にたくないだけです…… うっう」
顔を伏せると、小さな鼻が啜りだす。
ナトラがまだクノと出会う前、“人類、早く滅んでしまえ”と本気で願っていた。あれだけ強い願望は後にも先にもしたことがない、でも願っているだけでは叶うことはなかった。願ったからには実行しなければならない。それがクノから教わったことだった。
「命がけで“死にたくない”を果たすしかないだろうな」
「命がけ……」
エドワードはビクリと肩を震わせ顔を上げた。唇を噛み、堪えようとしているのに涙が流れるのが止まらない。
この泣き虫に何かしてやりたいと思った。
ナトラは彼の両肩をガッと掴むと、
「いいか、エドワード、大事なことだぞ。君の敵は、君がこうやって泣き寝入りしていると調子に乗る。“死にたくない”って本気で思っているなら面と向かって立ち向かえ」
十二歳の男の子に酷な要求をしているな、と後味が悪い。しかし彼の置かれた状況はもっとタチが悪い。
エドワードは嗚咽混じりに、
「でも、でも、僕にはなんの、力もありません」
「なら頼れよ。誰も一人で戦っちゃぁいない、“手伝ってくれ”ってちゃんと頼れ」
「僕は……」
エドワードは俯いて黙り込んだ。即断しかねることである。それでも決意するなら一分一秒でも早い方がいい。
どうやったらナトラはこの小さな背中を押せるのか、と考えを巡らせている時だった。
突如、背後から強い威圧感を覚える。
反射的に身体に活性化を施したナトラは、鶏小屋の向こうに避難しようとエドワードを抱えてジャンプしてした。
〈座鯨切〉は走り込みには邪魔だったので持ってきてない。迂闊なことをしたなと、口の中が渋くなる。
紫色に輝く光の弾がナトラの右膝に直撃すると、弾丸はグチャりと崩れ、能力が発動した。
少しの衝撃が走り、糊のような粘っこい液体がバシャリと現れる。
それは脚に張り付くと瞬時に硬化して関節を固め、鉛のように重く、地面に引きずり降ろされ姿勢が保てない。
「光弾系かッ」
光弾系は弾丸を具現し、着弾したあとで、さらに能力を発動するタイプの魔導具の総称だ。彼女のは殺傷より拘束を目的にしているのだろう。
エドワードだけでも逃がそうと小屋の向こうに放り投げた。そのせいでナトラの姿勢はさらに乱れ、受け身を取れずに地面に叩きつけられた。
身体に衝撃は走る、病み上がりにはこたえた。胃液が逆流しそうだ。
弱音をグッと飲み込み、立ち上がって戦おうとするが、さらに光弾を撃ち込む。
腰、両肩、首。息ができないほどに全身が拘束されると、シエスタが泥だらけのエドワードに駆け寄る。
「シエスタッ! 待って!」
「殿下、私の後ろに…… 貴様、腹這いになれ!」
ナトラがエドワードに危害を加えているのだと勘違いしたのだろう。エドワードがシエスタの前に立ちはだかって制止するが、殺気立った彼女は見向きもしない。
昔、雪山で出会ってしまった子連れの熊がこんな感じで威嚇してたなと、他人事のように思い出していた。
観念すると脱力して言われるがままになる。後ろめたいことはなにもないのだが、これ以上こじれると後が大変そうだ。
だがシエスタの怒りは冷めることはなく、そのまま銃を突きつけ続ける。
エドワードは彼女の腕にしがみつき、腹の底から声を出した。
「シエスタッ、シエスタッ…… 僕の、話を聞けぇ!!」
その声はオヴリウスキャンプ内に響き渡る。驚いた鶏小屋が鳴き出すほどだ。彼に鼓膜の奥までまで通る大声が出せるとは思わなかったから、ナトラは思わず耳を塞ぎそうになった。
ずっと仕えてきたシエスタはなおさらだ。先程まで目尻のつり上がって、歯を食いしばっていた彼女であったが、今は目を丸くし口がポカンと開いている。
「殿下…… いかがされました?
「僕は、僕も戦うよ!!」
「はあ?」
エドワードが一段と力強く叫ぶと、シエスタは呆然と声を漏らした。
ナトラはホッと息を吐いた。