ナトラ ⅩⅠ
ナトラが意識を回復してしばらくすると、隣のベッドのアナスタシアが目を覚ました。
彼女は毛布を口まで手繰り寄せて顔を隠し、温石のように熱ぼったい目元は弱気な感じで、三つ編み髪は少し乱れていた。潤んだ声で「うー」と甘い息を吐きながら顔を枕に埋める。それでもナトラのことが気にはなるのか、碧い瞳がチラチラと光る。
彼女の性格からして、安静と言われてようが無視してちょっかいを出してくるだろうと思っていたが、半分開いたカーテンの向こうから出てこない。
「恥ずかしいから、あんま見るなぁ……」
熱のせいなのか、しおらしく言葉数の少ない彼女はどこか儚げで、わりかし可愛かった。
もうずっと寝込んでいれば良いのに。
そんなことを半分以上本気で願っていると、食事を持ってきたリーリスがカーテンを閉めてしまう。
食欲はまるでない。副作用の影響か、大腸と小腸がチークダンスしているような吐き気が治らない。
しかし食べなければしょうがない、意を決してスプーンを取った。
琥珀色のスープは感じるか感じないかの薄い塩味、それと複雑な旨味が身体中に沁み渡る。ほかの料理も病床の舌にとても良く馴染んだ。
食べている間、リーリスから最近のオヴリウスキャンプの状況を聞く。
最後の一口を食べ終わえると、
「ウップ…… 皇太子殿下ねえ、どおりで」
変な緊張感がテントの外から伝わってくる。
ナトラが来た時には、派閥など意識していないと分からないくらいには和気藹々としていたのに、今では目に見えない鉄柵が仕切っている。
カーテン越しにアナスタシアが憂いのある甘ったるい声で、
「ナトラは私の味方してくれる?」
「あー…… どうだろ、スタンスとしては近いのかもしれない」
当たり障りのない返答が気に入らなかったのか、不貞腐れた口ぶりになって、
「ナトラだってここまで来てよそ者扱いはイヤだろ?」
「でも実際よそ者だしな、ぶっちゃけ帝国の行く末とかどうでもいい。俺は……」
「ナトラ?」
クノの仇を取れればそれで良い。そのために国別対抗戦に参加しているのだ。むしろ派閥争いに熱中してくれた方がナトラの価値があがるだろうから、この状況は喜ばしいはずだ。
だが、目覚めた時の燃えるようなテンションはどこへ行ってしまい、生煮えの腹の中で、癇癪虫がグネグネと塒を巻く。
この独特の感覚には覚えがあった。十年前の路地裏生活していた時に、いつも一緒にいたやつだ。
イライラしてナトラは思わず両目を瞑り、
「あ一、煙草吸いたい」
「これを機会に禁煙したらどうです?」
食後の薬を手渡すリーリスがそう勧めるので、逆に彼女の手を握り返して、
「リーリスちゃん、今日は一段と綺麗だね、天使かと見間違えたよ。煙草吸いたい」
「あら、お上手ね、ありがとうございます。でもダメ」
リーリスはお世辞に対して少しも照れることなく嬉しそうに微笑んでみせてから、ハッキリと断言した。愛想の良さの裏側に、冷徹さが見え隠れする。素っ気なく手を離した彼女がなぜか、点滴の管に指を絡めるから戦々恐々とする。
それでも負けずに食らいつく。愛煙家にも意地がある。
パンッ両手を合わせて、
「あーなんかイライラするなぁ、一服したほうが気分も落ち着いて、回復も早いんじゃないかな?」
「残念、そんな医療論文ありません」
「そこをなんとかしていただきたい」
「生命線、ブっこ抜きましょうか?」
点滴の管をゆーっくり引っ張りながら脅した。針が血管から抜けていきそう。
ザーッと血の気が引く音が聞こえる。
「医療倫理的にどうなんでしょうか?」
「あらおかしい、そんなもの野戦病院にあるわけないじゃありませんか」
彼女はニッコリと色気のある笑みを浮かべる。
背筋がゾクゾクする妖艶さ、天使のような小悪魔だ。歯向かっちゃいけないタイプの人間だ。
これ以上は逆効果と悟りベッドに横になる。するとシャッとカーテンが少し開き、アナスタシアがベッドから身を乗り出し、不満そうに首を傾げていた。
「私は?」
「可愛い可愛い」
「雑かッ!」
鼓膜を破らんばかりの大声が、ナトラの耳元で元気に弾けた。
「お? なんだ、可愛がって欲しがったのか?」
「ちょま、くすぐったい」
ベッドから身を乗り出してアナスタシアの頭をグシャグシャ掻きむしってやると、桜色の三つ編み髪が暴れるから、桜海老を連想しまう。
今食べ物のことを考えるのはマズイ、条件反射で吐き気がこみ上げ気分が悪くなる。
それで戯れるのをやめると色々と不満なのか、アナスタシアはプクッと頬を膨らませて睨みつける。
「ナトラさ、あの時、私に言ったこと覚えてる?」
「あー? ……なんか約束した気が」
「覚えてないんだな?」
「いやなんかこう、気を紛らわそうとしょうもないこと言った気が…… なんだっけ?」
「アホ!」
アナスタシアは大きく口を開けて怒鳴ると、毛布を被ってしまった。