ケイネス Ⅱ
五月十三日、月曜日。
ケイネスが目覚めると、そこは見知った部屋だった。西陽が目に沁みる。目覚めたのはこれが原因か。
国別対抗戦の観戦客のうち、上流階級が利用している旅客船“ローサンスーシ”の一等室。さり気なく置かれている調度品はどれも気品に満ち、三ツ星ホテル顔負けだ。機密保持や警備も徹底していて、ケイネスは帝国ラウンドの最中、ここを拠点する予定である。
内臓は完治しているのか違和感がない。だが、右腕は欠損したままで、左脚は再生しているが感覚がなく棒のようだ。血が足りないのか頭がクラクラと倒れそうである。
不自由で仕方ないが、国務長官職というのは、この程度の不調でスケジュールを変えられるほど甘いものでない。
毒を盛られようが、背中を刺されようが、平然とし続ける精神が大切だ。
すぐに点滴を抜き、病衣を脱ぎ捨て、勲章の付いた三つ揃えのスーツに袖を通す。味気ない病衣を着ていては心身ともに腑抜けてしまう。
部屋に備え付けの鏡に向かい髪を整えていると、花瓶を持ったメルトが扉を開けた。
「閣下! お目覚めになられたのですか」
花瓶はスルリと滑り落ち、カシャンと音を立てた。
「無理をなさってはなりませんッ、どうぞ横になってください! すぐに医者を呼んで参ります!」
アタフタ顔で病室から出て行こうとする彼女の首根っこを掴んだケイネスは、
「そんなことは後回しで良い。それよりネクタイを締めてくれ。片手でどうにも」
「しかしッ!」
「私に無様な姿でいさせる気か?」
冷やかな視線で命令すると、彼女はいつもの生真面目な顔つきに変わる。
「かしこまりました」
テキパキと彼女の両手が動く。
ネクタイが締まると気合も引き締まる。
鏡の前に立つと、見事な結び目ができていた。
「やはり、タイ結びはお前が一番だな」
「ありがとうございます」
満足したケイネスはベッドではなく、ソファーに座る。
「で、状況は?」
「一昨日、第二節が終わりました。我が帝国は一敗一分、勝点一です」
「三連敗が目標だったが…… ならんかったか」
「ユーリは良くやってます」
メルトは本棚からファイルを取り、読み上げる。
グラディスが健在だったころは、彼女の人柄もあって代表団にまとまりがあったが、代わりに指揮を取っているのがユーリである。内部の不和で足並みが乱れるのが目に見えていた。
一応、予定通りと言って良いだろう。
「そいつは結構、ではミッドラス公爵を呼んでくれ」
「は…… えっと」
退室しようと振り返ったメルトは、足元に割れた花瓶が散らばっているのを思い出したようで、またもやみっともなくアタフタとしている。
「指を切るなよ」
「は、申し訳ありません」
メルトは割れた花瓶を片付けて、代わりに新しく用意する。元々不器用な娘だが、いつも以上に手際が悪いのは、少しでもケイネスの身体を慮ってのことだろうか。支度が済み「それでは連れてまいります」と部屋を出て行った時にはもう、夕陽は地平の下に落ちていた。
そして五分もしないうちに彼はやってきた。
ヴァランス・ヴェイクスミス・フォン・ミッドラス公爵。
丸々と太った腹と、長く白い髭が特徴の老人だ。
帝国貴族の中でも屈指の権力を持っていて、本人は公職についてないが中央省庁に強いコネクションを持つ、ケイネスの三十年来の政敵である。
互いに“奴を滅ぼせるの自分だけ”と信じ合っている関係だ。
二人がテーブルを挟んでソファに座ると、ヴァランスはのんびりパイプに火を付けた。
「長官殿。元気そうだね」
「ご覧の通りです」
「いっそ死んでくれたなら僕は幸せだったんだ」
メルトがミッドラスを猟犬のような形相で睨みつけると、彼は余裕綽々と肩を竦める。
「怖いなあ」
プハーッと紫煙を吐き出し、さらに挑発を続ける。
「僕には二つ選択肢がある。梯子を登るか、外すか」
「公爵ッ!」
メルトはぎゅっと拳を握りしめる。今にも飛びかかってしまいそうだ。
「どっちを選んでもメリットがある。ククッ」
「いまさら手を引けるとお思いか?! あなたも身を滅ぼしますよ!」
「でも政敵を失脚させておけば、ゆくゆくより大きな幸せに繋がると思うんだよねぇ」
ついにメルトは腰の拳銃に手をかけそうになった。
その瞬間、彼女の身体は宙を待った。
一度天井にぶつかってからゴドンと床に落ちる。大きく開いた口からは胃液が漏れだす。息ができないようで、「ああぁぁ……」と呻く。
そんな彼女の頭を黒装束の男が踏みつけた。
気色の悪い威圧感を放つ黒装束はヴァランスの護衛だろう。
いつの間に侵入したのだか。
ヴァランスはパンパンと手を叩き、
「ホホ、その辺になさい。犬と遊ぶのはとても面白い、長官殿はさぞ幸せだろう」
「ええ、それはもう」
黒装束はメルトから離れるとヴァランスの背後に回った。涙目のメルトはまだ立ち上がれず、蹲ったまま「ゼーゼー」と鳴いている。
ヴァランスの骨を端から順に砕いていって、発狂死させるとケイネスは決めた。
だが今死んでもらうわけにはいかない。彼のコネクションを利用しなければ計画は成功しないからだ。
「公爵のご友人は納得していただけましたかな?」
「ライアル侯爵、ジン=ニョーウナ伯爵、シャンテグラ伯爵。皆、快諾してくれたよ。今の王朝に不満を持つ者は多い」
「では予定通り、次のマスに駒を進めましょう」
「それは構わんが、本当に上手くいくのかね? お膳立てをどれだけしても結局、皇帝陛下が首を縦に振らねば……」
「あの男にもう思考回路はありません。私が問えば条件反射で頷きますよ」
「怖い男だ。さすが、流星事件を起こしただけのことはある」
何度も説明しているというのに、彼は誤解したままだ。
「心外ですな。私とて、首謀者と呼ばれるような立ち位置ではありませんよ。あくまで便乗しただけのこと…… それではすぐに記者会見をしましょう」
「その身体で大丈夫なのかね?」
「だからこそ、ですな」
ケイネスがそう言うと、ヴァランスはわざとらしく肩を竦めてから、ゆったりとした動きで部屋を後にした。