ナトラ Ⅱ
三月二十七日、水曜日。
穏やかな春風の中に、煤の匂いが微かに混じっていた。ときおり、遠くに蒸気機関車が通るのが原因だろう。
同盟本部レブライネン近くの廃坑。元は露天掘りの跡なので巨大な摺鉢状になっており、その底に特別試験の会場が用意されていた。
国別対抗戦に初参加する者が、受験することが推奨されているのが特別試験だ。無名の新人たちは、ここで実力を示すことで、どこかの国と契約することができる。
と言っても大掛かりな設備があるわけではない。テントがいくつか並び、そばに石灰の線で雑に仕切った小さな試合場が三つあるだけだ。そこからは絶え間なく地鳴る轟音や、血臭の混じった土埃が舞っていて、物騒なことこの上ない。
試合が終わるごとに重傷人が医療テントへ運ばれる。
医療テントに運ばれるならまだ良い。助かる見込みのない者、もう死んでいる者は、少し離れた所に安置されていた。後でまとめて火葬されるらしい。
既に一試合終えたナトラは、安置場の彼らに申し訳ないと思いつつも、離れた所に腰を落として黙々とコンソメスープの肉を口に運ぶ。今はとにかく空腹を満たすことが最優先だった。
「んぐッ! はぁ、肉、うま!」
スプーンは高速で動き続け、その合間に咀嚼し飲み込む。肉汁が口の中に広がり、血が沸き立つのを実感した。
特別試験なんて品定めされているみたいで癪だったが、昼食が用意されていると知って、ナトラは掌を返した。
既に五杯目であるが、そのペースは落ちることなく、もう二、三杯は食べる予定だ。
すると、耳元から凛とした声で、
「お前、よくそんなに食えるなぁ」
「ぐ、んはぁ、肉なんて、久しぶ……」
しみじみ息を吐いてから顔をあげると、ナトラの目の前にネコを思わせる勝気な碧眼があった。
彼女は屈んでいた上体を起こし、
「あ〜あ、食べながらでいいぞ」
結紐で一つ結びになった桜色の髪には光沢があって、風に靡いてキラキラ揺れる。丈の短い白いワンピースに肩掛けを羽織り、胸元の小さなペンダントが華を添えていた。可憐な容姿だが、攻撃的につり上がった口角から白い歯がキラリと光る。
そして、魔導師特有の威圧感を発していた。
この場で彼女を知らない者はいない。
オヴリウス帝国の従属国のひとつにブリュンベルク侯国という小さな国がある。アナスタシアはその姫君だ。
ゴキュッと口の中のモノを飲み込んだナトラは、
「アナスタシア・フォン・ブリュンベルク…… 遠目で見るより綺麗だな」
「んなこたぁ聞き飽きてるンだよ、このヤロウ! もっと面白い言い方ないのかよ!」
途端、不機嫌そうに眼光が鋭くなったアナスタシアは、ナトラの胸倉を掴んで力強くグラグラと揺さぶる。見え透いていたとはいえ、世辞を言って怒鳴られるとは思ってもみなかったから、ポカンと開いた口が塞がらない。
「あー…… 涼しそうな格好してるな、寒くない?」
「つまらん!」
それでも、ありきたりの言葉よりもマシだったようで、満足したのか手を解き、彼女は乱れたショールを手早く整える。
「あれ? なんの話だっけ…… そうだ、食いすぎじゃね?」
「……故郷からここまで来るのに路銀、全部使っちまってな」
「そう」
急にテンションが大人しくなった彼女は素っ気なく返事した。彼女の嬉々とした視線は、ナトラの横にあるモノに釘付けだったからだ。
「魔道具? 名前は?」
「秘密」
それは、一振りの刀であった。
長さは一メートル程度、極東の刀独特の緩い反り、小さめの鍔。柄には鮫皮が巻かれ、黒塗りの鞘には紫色の下緒が巻きついていた。
アナスタシアの瞳には物珍しく映るのか、屈んだ彼女が左手を伸ばす。触らせたくないナトラは刀を持って身を捩ると、身体が触れそうになる。清涼感のある香りが鼻を掠めた。
「ちょっとだけ触らせてよ」
「イヤイヤ」
面倒になってきたので、いっそ巴投げで彼方にブン投げてしまおうかとも考えたが、見た目は華奢な女の子だったから良心が咎める。
「よく斬れるだろ?」
「どうかな?」
挑発的に笑うとギラリと犬歯が光る。彼女は明らかに殺気立っていて、身体の芯からゾクりとした。きっと戦いに快楽を覚えるタイプだ。
すると、アナスタシアは身体を密着させてきて、左手をそれまでよりずっと素早くスルリと這わせと、鞘の真ん中に触れた。
「捕まえた」
さすがに看過できない。頭の中のスイッチがカチッと切り替わる感覚。
ナトラは柄を逆手で掴むと一気に引き抜く。
キンッという音を鳴らして刀身が半分露わになる。それは薄荷色に妖しく光って、尋常ならざるものであるのは明らかだ。
彼女の首筋に押し当てると、浅く皮膚を裂く。あと少し斬り込めば動脈が断てるだろう。
だがアナスタシアは動じず、ただ一言、
「この昼行灯さんめ」
イタズラが成功した子供を思わせる、ニヤケ顔でおちょくられると気が抜けてしまった。
「……呆れた」
そう漏らして刀を納めると、彼女はお預けをくらったネコのように、
「やぁん、もっと見せてくれてもいいじゃん」
「ダメ、見世物じゃありません」
「いいじゃん、先っちょだけでいいから」
「それ意味ないだろ。あ……」
わざとらしい媚びた声を無視して食事を続けようとしたが、抜刀する際に手放したスープの器がひっくり返って草の上に転がっていた。それを未練たらしく見つめながら、話を逸らせないかと少し悩む。
「話を変えよう。もう試合出た?」
記憶を探ってみるが、ナトラはいつまで経っても思い出すことができない。こんな鮮烈で厄介な娘がいたら目立つから見逃すはずがないのに。
ナトラの隣に腰を落とした彼女は、気だるそうに手を振りながら、
「いいや、さっきは棄権したんだ。もう内定出てるから、戦う意味ってないんだよね。ほら、あの連中と一緒」
彼女はテントを指差す。
そこは各国の関係者が詰めているのだが、その中には受験生らしき人影も確かに見て取れた。
大会規約を思い返したナトラは、一応確認しておく。
「特別試験前の接触は禁止だろう?」
「建前上は。実際には即戦力にはいくらでも話が来るんだなぁ、これが」
“えっへん”と言い出しそうな顔つきで、アナスタシアは得意げに身体を反らす。ショールを羽織っているとはいえ薄着の彼女。程よい大きさの胸元が強調されてしまっている。
いちいちリアクションを取ると損だと思ったので、そちらの方は目の端で見つつスルーして話を続ける。
「なるほど、君も面倒だから……」
「違う違う」
彼女の唇がスーッと開くと白いギラつく。
「私、弱い者イジメって嫌いなんだよねぇ」
また身体の芯からゾクりとする。美人だと思うが、あまりお近付きになりたくない。
一転して彼女は表情が柔らかくなる。
「なぁ、そんなよそよそしくなくて良いんだぜ? 私の方が歳下だろ?」
「君が馴れ馴れしいだけだろ」
「そうか? まぁ良いや。じゃあな、キラミヤ」
彼女はナトラの背中をバンバンと叩いた。名乗った覚えがなかったので、目を付けられたのだと察した。
ピッと人差し指を立てて、
「私のこと、覚えておけよ」
そう言い残すと、また別の女の元に歩み寄っていった。
できればもう関わりたくないなぁと呆れていると、どうやら彼女は食欲も連れ去ってしまったようで、おかわりする気がなくなった。
仕方がないから懐からシガレットケースを取り出して、煙草を燻らせた。