ナトラ Ⅹ
前夜祭が始まったのは、会場が夕闇に包まれた頃だった。野原の上に赤絨毯を敷き、弦楽四重奏が花を添える。ステージ周りには水銀灯を焚いて眩しいが、そこから離れると月明かりを頼りにしなければならないほど暗い。テーブルの上には、軽食と言うには手の込んだ料理の数々が並び、やたらと色っぽいのウェイトレスがグラスを運ぶ。
ナトラは借り物のタキシードを着て、慣れない華やかな場に耐えていた。とにかく居心地が悪いから煙草をふかしたいが、なぜかこの場は禁煙とのことで、心底主催者を恨んだ。
「こんばんは、一枚いいですか?」
突然背後から舌ったらずな女の声がした。
振り返ると大きな銀縁眼鏡をかけた、どこかタヌキっぽい顔の女の子。目が合うと、二パァッと笑って見せた。
彼女が差し出した名刺には、トロット・ジャーナル社のパフィン・チェンリーと書かれている。聞いたことのない社名だったのでローカルな出版社だろう。
「えとえと、 ……ああ、フィルムフィルム」
アタフタしながら二眼レフカメラの蓋を開け弄り出す。だいぶ手際が悪いので、きっと彼女も新人なのだと勝手に想像した。
用意が済むとカメラを構えて、
「表情固いですねぇ、もっと朗らかに」
「すみません」
他人に撮影されるなんて初めての体験だったの調子を掴めない。歯痒い。
「ちょっとポーズ取って見ましょうか? 刀抜いてぇ」
「はあ」
仕方なくベルトに差してある〈座鯨切〉を抜いて八相に構えたのだった。
意外だったのは、会場に武器の持ち込み推奨だったことだ。剣どころか、槍やら斧やらを持っている人間がチラホラいる。
写真映えしていいのだろうが、警備の問題とか大丈夫なのか。火薬庫の中にマッチを置いておくようなものではないのか、と考えを巡らしてみた結果、刃傷沙汰のひとつも起こった方が記事になって記者的にはありがたいのだろう。
「ありがとうございました、頑張って下さい。それじゃこれで」
「はい、どうも」
本人的には良い仕事ができたのだろう、満足そうに「えへー」と笑いながら去っていったので、ホッと胸をなで下ろして刀を納める。
ナトラは時々だからまだ良いが、有名人だとそうはいかない。
式の最中、記者たちがゴソゴソ動いて代表団員に取り付いている。ことあるごとにメモ帳の上を万年筆が走り、カメラのフラッシュが瞬く。目を閉じてやりすごそうとするが、瞼越しでもチカチカとして、もっと静かな場所に移動したかった。
ところが、そうわけにはいかない。
オヴリウス代表団からは二十人がこの場にいる。トラブル防止のため、単独行動は禁止されており、ペアを組まされたアナスタシアの後ろから離れるわけにはいかなかったのだ。
深青のカクテルドレスを着て、純白のストールを羽織った彼女の周りには、記者が途切れるとこなくやってきた。心なし、彼らの鼻の下は伸びている。
仕方がないから、苦し紛れにテーブルの上のサンドイッチをひとつ口の中に放り込んでみたが、どうにも喉の通りが悪くモゴモゴと咀嚼しながら彼女を見守る。
いつもの天真爛漫な振る舞いはどこへやら、薄化粧のアナスタシアは良くできた愛想笑いを浮かべ、丁寧に言葉を選ぶ。なにげない仕草に色気があり目が離せない。本当に別人なのではないかと疑うくらい、見事に猫を被っている。
“傭兵国家ブリュンベルク侯国の姫君”という肩書きは、記者の好奇心をくすぐるらしく、彼女の苦行は当分終わることはなさそうだ。
そのうち、手垢のついたハンティング帽を被った男がニヤつきながら、
「堅苦しい話ばっかでもつまらないしプライベートなこと訊いちゃおうか。ズバリ恋人は?」
「いえ、そういうことはちょっと……」
「またまた、君くらい美人なら選び放題だろ?」
男の舐めるような眼が肢体をジッと見つめるから、アナスタシアはショールで胸元を覆った。
刺激的な記事を書きたいのだろう、ジャーナリストの質問は下世話な内容で、自分が訊かれているわけじゃないのにイラっとする。
よく見ると体の後ろで組んだ彼女の手には異様に力が籠っている。殴りたくて仕方ないのだろう。怒気溢れる威圧感が漏れ出している。
そんなことに気付いていない男はさらに続ける。
「それともまだ男を知らない? 代表団員なら誰と寝たい?」
アナスタシアは少し強い語気で、
「あー、夜はぬいぐるみを抱いて寝てます」
吹き出しそうになった。
彼女はその場から離れ、会場の端に向かって歩きだす。
ナトラはウェイターからグラスを二つ取って後ろ姿を追う。
赤絨毯の端には休息用の椅子が置かれていた。彼女はそこに腰を落とす。その辺りは木のせいで照明が届かないが、彼女の顔色は良く分かった。
月明かりのアナスタシアは、先ほどと同じように愛想の良い作り笑いを浮かべていた。人の目を気にしているのだろう。
アップルジュースを差し出して、
「お疲れ様」
「あの野郎、前歯折りたい……」
笑みを崩さず、丁寧な口調で物騒なセリフを吐き捨てる。視線の先には先ほどの男、しかもほかの女性に話を聞いている。
「美人も大変だな」
「こんなんだったらスッピンで来るんだった」
「そんなこと言うなよ。綺麗だよ」
「は、ありがとーごさいます」
世辞を言ってみると、少しは機嫌が直ったようで、彼女の表情は少し崩れた。
「しつこい奴はもう来ないみたいだし、ひと段落だな…… なぁ、甘いもの食べたい。取ってきて」
「単独行動は御法度、って言いつけなんだが?」
胸の前で手を組み、子供っぽい表情に変わり、
「お願い」
彼女を目の届かない所に置きたくなかったが、近くのテーブルまで十メートルもない、そこになければウェイトレスに頼めばいいかと、ナトラは少し安直に考えた。
「お願いじゃ…… 仕方ないな」
「やったチョロい」
「言葉を慎んでいただきたい」
案の定、テーブルの上に菓子はなく、ウェイトレスに言いつけるとその場で待つ。アナスタシアを見張るため、椅子の方を見ると気づいたのか、優雅に手を振っていた。すると、微笑んでいた彼女の眼が丸く開く。ワチャワチャとした手招きに変わる。
何かあったのだろうか、とアナスタシアの方に戻ろうとした時だった。
「それは心外だね。誰だい? そんなことを言い出した奴は?」
知っている声が、背中から聞こえてきた。
力強く、自信に満ち、深く、重く。周囲にいる誰もが緊張してしまう、そんな声だ。
「歳は関係ない。私が国別対抗戦に参加するのは、私が最強だからさ」
腹の底からこみあげてくるモノを、グッと奥歯を噛んで堪える
意を決して振り返ると、ウォルフガング・フランベルゼがジャーナリストの一団を相手にしていた。
身長は二メートルに満たないはずだが、厚い胸板と広い肩幅、太い首。何より自信に満ちた立ち振る舞いのせいか、誰よりも巨大に見える。
そんな体格で高級そうなタキシードを着こなす彼は、フラッシュの中でも動じることなく微笑み、インタビューに答え続ける。
「今回は最多試合出場を含め、さまざまな記録達成が掛かっていますが?」
「無論、私自身の記録にもこだわっているが、それも我が代表団の成績あってのことだと考えている」
「では共和国は連覇は可能ですか?」
「当然だ。私は共和国を再びの優勝に導く!」
すると周囲からは歓声があがった。
無表情を貫こうと握った拳の中で爪を立てる、口の中にアドレナリンの味が広がってきた。
クノの仇がそこで大手を振って歩いているのだ。ほかにも何人も殺しておいて英雄扱い、これを「はい、そうですか」と無感傷でいられるほどナトラは大人ではなかった。
いや、できると思っていた。
もっと淡々と、倒すべき相手として心穏やかに対峙できると思っていた。
実際には彼の声が耳に入るだけで毛穴が開き、冷や汗が吹き出す。
腹の底でドス黒いものが蠢く感覚を確か覚えた。
この場で襲いかかりたいくらいだ。
「おっと、失礼」
後ろ歩きをしていた記者の一人が、ナトラにぶつかる。
それで気がついたのだろう、ウォルフガングは突然ナトラの襟を掴むと、万力を思わせる力強さで引き込む。身体が浮き上がり爪先立ちになる。
「随分と怖い眼をしているね。君は…… オヴリウスの代表かい?」
「ミスター、彼が可哀想ですよ」
ご機嫌を取るように記者たちが宥めるが、特に動揺しているわけではない。こんな手荒い事は日常茶飯なのだろうか。
「そうだね、怖がっているようだ。それでは頑張りたまえ新人君」
頭の中のスイッチがおかしな感じで切り替わった。
「怖がる? まさか、むしろ拍子抜けだよ」
「ずいぶんと威勢がいいのだね」
彼が纏う威圧感が、一際重くなった。
「トウドウ・クノを覚えているか?」
「……さあ誰だったかな。物覚えは良いんだがな」
「天龍院の剣士だ、四年前お前に殺された」
「なるほど復讐か。確かに怖いモノ知らずのようだ」
「試合では絶対負けない。絶対にだ」
「試合? 悠長だな。どうしてここで戦おうとしない」
すると、ウォルフガングはタキシードの中から小さなダンベルを二本取り出した。魔導具だ。
起動させるとダンベルを柄にして、右手には大剣、左手に大盾が具象した。どちらも分厚く、重く、濃い紫色だ。
構えただけで、経験値の差が感じ取れた。
「ナトラッ! すんません、もう帰るんでッ」
駆けつけたアナスタシアが羽交い締めて引っ張る。
だが、ここで簡単に退くわけにはいかない。
ナトラはウォルフガングと戦うためにここまで来たのだから。ここで逃げるわけにはいかない。
「どうした? いつ、どこで、誰からの挑戦でも受ける私だ」
呼吸がどころか心臓が止まるほどの威圧感。
緊張の糸で雁字搦め、〈座鯨切〉の柄においた手を動かせずにいた。
その場の全員が同じだったのだろう。誰一人として微動だにせず、絶句したままだ。
ところがただ一人、囚われない少女がいた。
たなびく黒い長髪と、深い黒い瞳。
身長は低く、パンツスーツの上からでも分かる女性らしい曲線が目立っていたが、攻撃的な雰囲気はウォルフガングに負けず劣らずである。
「いい歳こいて何してやがる。あまり私に恥をかかせるな」
彼女が手に持ったワイン瓶をウォルフガングの後頭部に打ち付けると、紅い液体がバシャッと飛び散った。
振り向いた彼は軽くニヤケてみせて、
「おやおや、シャルロットに叱られてしまったよ、ハハッ」
彼の発する威圧感が和み、記者たちも乾いた笑いを続けた。
「一張羅が台無しだ。余興の続きはまた今度にしよう」
そう言い残すと、剣聖ウォルフは悠然と立ち去った。
足の裏が地面にへばりつき動けないナトラは、その背中を恨めしい気持ちで眺めることしかできなかった。