アナスタシア Ⅲ
五月三日、金曜日。
この日の昼食は、前夜のドンチャン騒ぎの余韻が残る酒臭い連中と一緒だったので、早々に食事を終わらせたアナスタシアは、女子宿舎テントへ逃げ込んだ。
オヴリウス代表団キャンプには宿舎テントが三つある。元は軍用だからモスグリーン色。内部構造はシンプル。一人一人のスペースはカーテンで仕切られ、ハンモックがあり、その下に私物が置かれている。床はなく、使い古した茶色い絨毯が地面の上に敷かれていた。水道は敷かれてないが、洗面台の左右に水瓶があり、片方には清潔な水、もう片方は排水が入っている。
女子宿舎テントは使っている人数が少ないからスペースにゆとりがあり、入口近くに団欒用のテーブルセットが置かれている。
カーテンの中でドレスのホックを留めたアナスタシアは、中から飛び出すと自慢するためにくるりと回る。結い上げた桜色の髪には派手な髪飾り、大きなイヤリングと真珠のネックレスがキラキラ煌めいて、まるで小さなシャンデリアだ。
「ミドさん! どう似合う?!」
「ええ、可愛いわ」
対照的に安っぽい麻のワンピースをラフに着て、ハンモックに腰掛けていたミドが、読んでいた少女雑誌をパタンと閉じた。
国別対抗戦の開幕を明日に控え、今晩は前夜祭が執り行われる。
前夜祭は二十八年前にある新聞記者が始めたパーティだ。当時、どこの代表団もセキュリティーが固く、取材がまともにできなかった。そこで美味い酒を美女に注がせ、上機嫌になったところで色々訊こうという魂胆であった。最初は本当に座談会程度であったのが、回を増すごとに豪勢になり、今では総勢三百人を集める一大行事となってしまった。
人前に出るのが億劫に感じるアナスタシアであったが、他国の戦闘員と面識が持てるかもしれないから多少やる気はある。
ちなみに、ミドは怪我を口実に不参加である。
「でもちょっとゴテゴテしすぎじゃない?」
「そうですか? ママはこんなもんだったんですけど」
姿見鏡に近寄って目の下を引っ張って“あっかんべー”する。目の周りは真っ黒、唇は真っ赤。指先は粉っぽく思わずドレスの端で拭ってしまう。
アナスタシアは母や祖母がパーティーに行く時の化粧を真似たのだが、天真爛漫な彼女の振る舞いと噛み合っておらず、チグハグは印象だ。本当ならドリスあたりに手伝ってもらうのが普通だが、彼女はとても不器用。一度だけ試しにやらせてみれば、顔面が先鋭芸術と化したので二度とさせない。
「あなた、まだ若いんだから…… メイクもアクセサリーも半分にしておきなさい」
ミドの差し出す石鹸を素直に受け取って洗面台に向かう。
「ミドさんだってまだ若いでしょ?」
「私の場合、年齢以前の問題だから」
重い息を吐く彼女は、生白くて青い血管の浮いた肌を撫でた。
ミドは幼い頃から血液の病気を患っていて、食が細く、見た目の印象としては“骨と皮”。
そんな身体で国別対抗戦で活躍する彼女を尊敬しているから、アナスタシアは上手いこと取り繕おうと、
「大丈夫、世の中にはマニアってのがいるから!」
「アーシェちゃん、失言よ」
彼女はまた、重く息を吐く。
「そんなことないって! ハッ! 私、男だったらミドさんみたいな女好みっす、ホントホント!」
洗面台から戻って戻ってきたアナスタシアは両手をワキワキと動かす。
ミドは呆れた様子でタオルを投げる。
「私の話はどうでも良いわ。それよりあなた、ジャーナリストに囲まれると思うけど、何を言うか考えてる? 最初は肝心よ?」
「“帝国のために頑張ります”とか、“全力を尽くしますとか”、そんな感じでいいんでしょ? 分かってますよ」
「ブリュンベルク派閥にそんな当たり障りのない台詞期待してないと思うけど…… こっちいらっしゃい」
化粧水を塗り直していると、ミドが目の前の椅子を指差す。
そこに座ると、彼女が顎をクッと持ち上げるから思わず、
「あれ? キスされる時てこんな感じ?」
「そうよ、だから動かない」
迷惑そうに呟いたミドは薄く白粉を叩く。
「前夜祭って食べ物あるンですよね?」
「あるけど…… 食事を気にするなんて、らしくもないわね」
「いやぁナトラが案外食い意地張ってるから」
「あら、そう。あるわよ食べ物…… 好きなの?」
ミドはクスりとニヤけ、頬紅を薄く叩く。
「肉料理が好きみたいです」
彼女は新作映画のパンフレットでも眺めるように、ちょっとだけ期待の篭った瞳でジーッとアナスタシアの顔を伺う。
白粉のせいか鼻がムズムズする。
「……なんすか?」
「いいえ、私の勘違い…… かな」
「はぁ……」
ミドが残念そうな溜息を吐いて手を止めるから、アナスタシアも釣られて息を吐く。
ふと、彼女が読んでいた雑誌に目を向けると、“夏の夜の恋愛特集”と書かれていた。あまり表に出さないが、乙女思考なところがあるから変な期待をしたのだろう。
意外とミーハーなのですね。
「それはともかく、彼は呑気に食事なんてできないでしょうね。スケジュールもそうだけど、剣聖も現れるだろうから」
「はぁ、話しする機会なんてないでしょ?」
「どうかしら? 四年越しの姉弟子の仇が、手を伸ばせば届く距離に居るのなら、尋常ではいられないでしょう」
「そんな短絡的な。私じゃないんだから」
「自覚あるのね。はい、でけた」
最後に、薄い色の口紅を引くと、満足そうに息を吐いたミドが手鏡を渡す。
「おお、ミドさん上手」
手鏡の中には薄化粧の美人がいた。
確かに自分の顔なのに、別人のような印象を覚えるから不思議だ。凄く大人っぽい。
これなら今夜、人前に出ても恥をかくことはないだろう。