ミド Ⅱ
そのテントには赤十字が描かれていた。
試合後、斬られた右肩を治療するために、ミドは〈大いなる卵胞〉の中にある医療テントの診察台にいた。
出入り口は開け放たれているが、衝立があって外の様子は知れない。内装は清潔感のある白色で統一され、薬品棚と空いたベッドが並び、消毒液の臭いが鼻を刺した。
上半身を裸になって、俯せになったミドの肩を、咥え煙草のルルゥ・ヘンドラムが診る。
ルルゥは女性の割にはグラマラスな長身で、そこそこ美人なのだが、猫背と、無愛想と、ボサッとした赤髪とヤニの臭いが台無しにしている。
彼女の両手には〈癒々着々〉。それは、ヌルヌルとした粘液でコーティングされた緑色の薄手袋である。彼女はクチャクチャと音を立てて切開した肩の中を弄った。大雑把にではあるが、ひと通りの外科手術をこれひとつでこなせる代物だ。
麻酔効果もあって痛みはないが、半身がゴムに変わったような錯覚に囚われるこの感覚は、何度体験しても慣れることはなかった。
「この時期に怪我とか、馬鹿なのかね? タダでさえ君は回復が遅いのに。いや私は良いがね」
「同感だね、新人くらい楽に倒してほしかったな」
すると模擬戦を組んだ張本人のフィリップが、衝立の向こうから酒臭い息を吐いて姿を現すから少し腹が立ち、バレないように頬を膨らませる。
裸のミドを気遣ったのか、ルルゥは立ち位置を変えて視線を遮ると、
「フィリップ、目を潰されたい?」
「おっと失礼」
気づいたのか、彼は手頃な椅子に背中を向けて座った。
ミドは痩せている。もっと病的に、窶れていると形容した方がいいかもしれない。肌は生白く、所々骨張っている。とてもじゃないが、色欲を刺激する身体ではないと自覚しているからこういう気遣いは嫌味な気がしてならない。
だから誰にも聞かれないように「めんどくさい」と呟いた。
背中を向けたフィリップはいつもの調子で問いかける。
「ミド、手合わせした感想は?」
「素晴らしいと思いますよ。ちゃんと考えてるし、身体もよく動くし。掘り出しものじゃないですか」
〈玉撞き遊び〉は対前衛用と言っていい性能だ。実際、今まで幾度となく彼らに風穴を開けてきた。
それをあれだけの時間凌いだのだ。多少慣れは必要だろうが、それなりに結果は出すだろう。あるいは経験を積めば、オヴリウス代表のベストメンバーに入るかもしれない、と妄想してみる。
「剣聖には勝てると思う?」
「無理でしょう。前回大会で結論が出たじゃないですか、あの人に一対一で挑むなら…… いえ、そうでなくとも近距離は無謀だって」
〈癒々着々〉での処置が終わったルルゥは、ミドに上体を起こさせると包帯を巻く。
「そんなに強いのかい?」
「国別対抗戦の戦術論を一変させた張本人ですからねぇ」
「そうだね…… 変わったね」
フィリップはガックリ肩を落とし大きな溜息漏らした。
ルルゥは不思議そうに首をかしげるから、ミドは小さな声で、
「フィリップさん、剣聖ウォルフに負けたのをキッカケに引退したんです。心が折れたんですって」
「それはまた、可哀想なことで」
前々回大会のことである。試合開始二分でウォルフガングに真っ二つに斬られたフィリップは、傷は癒えても心は折れたまま再起不能になったのだ。
ミドはその大会が初参加だったが、あの時のフィリップの放心顔は蝋人形みたいだったからよく覚えている。
包帯を巻き終わると、ルルゥがポンと肩を叩き、
「ご苦労様…… 肩甲骨の損傷、普通なら一日あれば充分だが、君は三日だろう」
「開幕戦は難しいですか?」
「完治はできんでしょう。いや、やれというのならしますが、副作用が出ますよ」
「“患部が完治した、だが患者は死亡した”…… ですか?」
「はは、覚えたな」
ミドは、ルルゥがよく使う台詞を借りる。彼女はどこか嬉しそうに煙草の煙を吐いた。
魔導具は理念の塊であり、これが強いほど優れた能力を得ることができる。
反面、魔導具の影響下にあるものは相応の反動が跳ね返ってくる。人体に作用させるモノの場合だと、発熱や倦怠感、急激な血圧の変動、神経麻痺、記憶障害などがメジャーだが、ほかにも色々と影響が出る。
そのため、医療用魔導具の使用はできる限り控えるのがセオリーだ。
「私は大丈夫ですよ。腕が使えなくても試合には関係ないですから」
「いや…… でもコンディションは整えておきたかったかなぁ」
頭を抱えたフィリップはボヤく。
国別対抗戦は国力を全世界に示すのが主旨である。当然、自国民に対してもだ。まして開幕戦、全ての民衆の注目の的。エース格が三角巾で腕を吊っているのは相当見栄えが悪い。それが嫌なのだろう。
ミドが身支度を終え、医療テントを後にしようと立ち上がった時、衝立の向こうから、カツカツと高価そうな革靴の音が聞こえてきた。
「それじゃありがとうございました」
これはマズイと身体に活性化を施し、早足でテントの出入り口に向かう。
だが体調が万全でないのか、軽い目眩と吐き気が襲い、思うように歩けない。
「おいどうしたッ?」
「……来ます、あの人が」
フィリップにそう告げると、彼も青い顔になった。
すると、ハキハキとした男の声が、
「おやおやおや、ガマクフィンコーチもここにおられたんですか〜。ちょうど良かった」
ミドとフィリップはギクッとし、互いに目配せする。
ユーリ・エーデルフェルトの声だ。
“万国皮肉博覧会”と称されるくらいの怪人で、とてもじゃないが陽気な話ができる相手ではない。
「先ほどの模擬戦について。問いただしたいことが五点ほどあるのですが…… 先生、よろしいかぁ? よろしいですね?」
「ああ」
手早く器具を片すと、ルルゥはまだ長い煙草を灰皿に押し付け、そそくさとテントを後にした。
「じゃあミド、また明日、朝に来なさい」
入れ替わって、カツカツと靴音が迫る。
今日は厄日だなと、ミドは膝を折った。