ナトラ Ⅵ
オヴリウス代表団のキャンプ地を覆う〈大いなる卵胞〉は情報を封鎖するための警備用魔道具である。膨大な魔力を要求するため起動できる者は一握りだが、その分高性能で、敵性の高いものを自己判断して対応する優れ物だ。内側スペースは広く、直径二百メートルの半球体。外からは白い壁に見えるが、内部からは透明で、ときおり境界面に虹色の稲妻が走る。
内部にはテントや木箱の山、発電用の小型蒸気機関などが距離を置いて安置されているが、それらが占有しているのはスペースのほんの少しだけで、あきらかに空いたスペースが多い。運動するのにちょうど良さそうだが、ナトラのもったいない精神がウズウズとしてしまう。
また、内部にはネコが二十匹前後いる。本物ではなく、魔導具〈縛猫〉で具象化したモノだ。ご丁寧に毛色もいろいろだが、どれも尻尾が二股になっているから、具象物と分かりやすい。これも警備の役目を担っているのだが、団員にじゃれつたり、虫を追っかけ回していたり、日向ぼっこしていたりで愛嬌を振りまいて緊張感がない。
アナスタシアに案内されて〈大いなる卵胞〉に入ったナトラは、脛に纏わりつく〈縛猫〉を撫で回したい衝動を我慢して、“本部”と看板が下げられたテントに向かった。アナスタシアと入口で別れ中に入ると、煙草の匂いが充満してちょっと嬉しい。折り畳みの長机が並び、そのうえの書類の山は今にも崩れそうにしている。
適当なところにトランクケースを置くと、
「キラミヤ・ナトラ、ただいま到着しました」
「おお、来たねこっちさ」
奥の席から、嗄れたの声が招く。
そちらへ向かうと、書類の山の向こうに老眼鏡をかけたグラディスの姿があった。
「すみません、ずいぶん時間がかかってしまいました」
「気にするこたぁないよ」
本当になんとも思っていないようで、慣れた手つきで葉巻に火をつけ煙を吐いた。
「お前さんもやるかい?」
「いいんですか、高そうなのに」
「ああ、いいよ」
渡された葉巻の端をナイフで切って吸い口を作る。そちらを咥え、スパッスパッと空気を吸いながら反対側をマッチで炙ると、乾いた苦味が鼻に抜けていった。
「あー…… こういう感じですか」
いろんな銘柄を楽しむのも煙草の良いところだが、これはナトラの口に合わない。吸うと喉がイガイガするやつだ。
それでも吸うのやめるほどではないので、ありがたく吹かし続ける。
「キツいっすね」
「こいつの良さが分からないなんて最近の若いモンは……」
なにやら話が長くなりそうだったので、彼女の言葉を遮る。
「それで自分は何をしましょう?」
「うん? お前さんには歓迎会を兼ねて模擬戦をやってもらうよ。おい」
少し腹の出た、額に油汗の滲む中年男が立ち上がり、そばに寄ってくる。
結成式の時に挨拶した顔だ。
「……フィリップさんでしたっけ?」
「改めてよろしくね。ここにいる連中はみんなド突き合いに命かけてるからね、ヘタに弁舌垂れるより良いと思うよ?」
「そういうものですか…… いえ、やれというのなら何でもやりますが」
彼が手を出すので握手をするとジットリとした手汗が移った。
手を離してからすぐ、見えないようにズボンで拭っていると、グラディスにはお見通しのようにニヤけている。
そんなことを知らないフィリップは、書類の山から一枚取り出しから目を細くして首をかしげる。
「ただ…… あった。君、防盾系持ってないんだよね」
事前に手持ちの魔道具について申告したからそれが書かれているのだろう。
「天龍院では使わないので…… どうも」
防御を主目的に、平面なり球面の盾を具象化させるタイプの魔導具を、大雑把に防盾系と呼んでいる。
フィリップは書類の山をガサガサ掻き分け探しものをしながら、
「そういうバカ結構いるんだよね。やっぱり僕としては持っててほしいわけなの。蜂の巣にされちゃうから。ええっと…… どこにやったけな…… あった」
彼は小さなケースを見つけるとナトラに手渡す。
“六百七十四号防楯”と味気ないラベルが貼られている。
開けると金属製のオイルライター。傷も少なく比較的最近生産されたものだ。それを見て舌を出したくなった。
「名前は?」
「分からないんだ、鹵獲品だから。君が付けていいよ」
「……性能は?」
「想像通りだと思うよ?」
魔導具は理念の塊である。基本的に、一朝一夕に作れるものではなく、長い年月をかけて熟成、強化していく。そのため若いモノの良い所は変な制約が付いてないくらいで、基本的に喜ばれるモノではない。
特に名前は重要だ。
魔導師がどれだけ思い入れているかによって勝手が変わってくる。“名前を覚える”という作業は愛着を持つための絶対条件だ。
これなら自分で愛用している物を魔導具化した方がマシだったかもしれないなぁ、と訝しみながら蓋を開けてみると、火花を散らせる器具がない。
「ああ、魔力で火がつくよ」
試しに魔力を流すと、ボッと火柱が立つから慌てて蓋と閉じた。
案外良いかもしれない、と早くも心変わりが起こる。マッチ代もバカにならない。
「はい受領書、サインして……」
手垢の目立つ万年筆を借りて署名をする。
それをフィリップに返すと、
「じゃあ話を戻そう…… ミド、いるかーい!」
フィリップがテントの向こうに声を飛ばす。
少しすると、パタんパタんとサンダルの音が近づいてくる。そしてパーテーションの陰から一人の女性が顔を覗かせる。
濁った白色のショートヘア。力のない瞳。ゆったりとしたワンピースの裾から見える肌は生白く病弱に見え、細々とした体躯を重そうにしている。
ナトラはゴクリと唾を飲んだ。
彼女は蚊の鳴くような声で、
「お呼びで?」
「話は聞いてた?」
「五月蝿かったですから…… よろしくナトラ君」
つぶやいた彼女が手頃な椅子に腰かけるとフィリップが紹介を続ける。
「彼女が今日の相手、“響測の魔女”って言ったら通りがいいかな?」
「はい、それはもう」
ミド・アンティーナ・クドリャフカ。
前回大会で最優秀後衛の選ばれたオヴリウス代表団のエース格である。
「じゃあ、このあと模擬戦、一時間後」
「……気の重い」
立ち上がった彼女はボヤくと、踵を返してゆっくり歩き姿を消した。
「いいんですか、この時期に模擬戦だなんて」
開幕戦は明後日だ、彼女も出場するだろう。怪我でもしたら大問題なのではないのか。
フィリップは少し悪い顔に変わる。
「キラミヤ。僕は当分、君を起用する気はないんだけど、模擬戦の内容次第じゃ考え直しても良いよ」
国別対抗戦の目的は国威高揚と国家交流。
中立国の人間が活躍しても意味はない。まして自国ラウンドではなおさらだ。
開幕戦なら代表団は万全の状態、経験もあるメンバーが揃っている。あえてナトラを使う理由がない。
それは事前に説明されていたし納得していた。
だが剣聖ウォルフと戦える機会は一度でも多い方が良い。
「……共和国戦に出れるってことですか?」
「そういうこともあるかもしれないね。だから前とは違って全力を出してね」
「……最善を尽くします」
相手は実力者だし、何より怪我をしたくなかったから、手を抜こうかと思っていたが、そうもいかなくなった。