ナトラ Ⅰ
少年は極東の国で娼婦の子供として生まれた。碌な食事は与えられず、朝から晩まで働かされ、たまにサンドバッグの同然に殴られる生活。そんな生活が嫌で逃げ出し、それ以降は路地裏で暮らすようになる。不便ではあったが、自由気ままに生きていくのは気楽で良かった。
数年経った初夏、政変が起こった。
すると、関心の薄かった社会福祉が重視され、虐げられていた児童たちは片っ端から保護されていく。
少年も役人に捕まってしまった。
同じくらいの背格好の子がどこかの公館に集められ、健康診断や知能検査やらを終えると、行き先が決まるのを待つ日々。待機部屋の中は空気が淀み、ジットリとした熱気が支配していた。たまに綺麗な身なりの大人が部屋を覗いてくるが、数秒で鼻を曲げて去っていく。引き取り手に名乗りをあげた者が、孤児たちの見すぼらしすぎる姿を見て良心をグラつかせるわけだ。それでもやって来るのは善人ばかりなのか、部屋の中の子供は一人、また一人と減っていった。
そのたびに溜息を漏らし、彼の心がドス黒くなっていく。
人類、早く滅んでしまえ
床に座って俯きながら、彼は本気で呪文を唱え続けた。その中に少年自身も含まれているから救いようがなかった。
そうしていると気味が悪いのか、最後の一人になっても引き取り手がなかなか現れず、二ヶ月が経つ。
いつものように俯いて呪文を唱えていると、突然彼女はやってきた。
「少年、悪い口をしているね」
熱気を吹き飛ばす涼やかな声だ。
自分の心中を馬鹿にされた気がした。
あんまりにも腹が立ったので無視して呪文を続けると、ナトラの頭を両手で掴み強引に正面を向かせる。
「少年ッ、悪い口をしているな!」
日焼けした顔はむしろ爽やかに感じた。艶のある黒髪は冷たげで、赤茶の瞳すら清々しい。彼女の血管にはレモネードが流れているのだろうか。
息を止めて、グッと唇を噛んだ。こういう“ちゃんとした人”を見ると、どうしようもない劣等感が襲う。
怨念の篭った視線を送ると、女はニンマリと頬を緩め、
「よし、不貞腐れた態度気に入らない、お姉さんが君を引き取ろう」
アホなのだろうか?
気に入らないなら帰れば良いのに、どうして面倒な子供を引き取りたがるのか。
信用ならない、というか怖い。
「……イヤだ」
「なんで? ご飯には困らないよ?」
「あんたみたいなのが一番嫌いだ」
「私は少年に惚れたぞ? 一目惚れだな」
彼女はさっきまでの強引に掴んでいた頭を持ち直して、豊かな胸に優しく引き寄せた。
柔らかい人肌に顔が埋まると、優しく髪を撫でられる。
死んでしまうかと思うくらいの衝撃だった。
こんなことをされた覚えがなかったから、どうして良いか分からず心臓は高鳴る。息が吸えず、身体は強張ってガチガチだ。
この危機的状況を拒絶して腕を振り回す。拳や肘が何度も彼女の顔に当たるが解かれることはなく、彼女の手は優しくあり続けた。
「暴れるな、怪我するぞ」
「るっせッ!」
彼女は倒れ込んで押さえつける。上手いこと両腕を極めるから、まともに身動きが取れない。
「離せコラッ!」
「お姉さんの弟になるか?」
「ザッけんな! 離せ!」
「よし、ならこのままだ」
しばらく身体を悶えさせながら暴れ続けると、いつの間にか陽は陰り、部屋には西陽が差し込んでいた。
さすがに暴れ疲れヘロヘロ。そうなると代わりに悪知恵が回る。
少年は妙案を思い付くと抵抗をやめた。
「分かったッ、なんでもするから止めろ!」
「そうかそうか、では手続きをしに行こう」
優しく手を握る彼女に引き連れられ部屋を出たその瞬間、手を振りほどいて一目散に逃げ出した。
「あッ!」
「バーカッ! ざまぁねえなぁ!」
逃げ足には自信があった。幾度となく露店から食べ物を盗み、逃げ、そして一度も捕まることがなかったからだ。
雑踏に紛れれば彼女も追ってこないだろう。
廊下の曲がり角を曲がると出口が見えた。あと十歩で外だ。
程なく夜となる。逃げるには好都合だ。駅前で財布をスッて腹ごなしをしよう。
そんな甘い算段をした時だ。突風に煽られたみたくフワッと足が浮いて、身体は締め付けられながら床に落ちた。
「ん? どうした。また抱っこされたいのか? 甘えん坊だな」
背中にのしかかる彼女が抱きしめられていた。
やはり上手いこと腕を取られて身動きできない。何故だか背中越しの方が柔らかさが感じやすくて歯痒い。
「しッ…… 死ねッ!」
「生きるッ!」
さっきまでの戯れるような軽い口調から一転して、廊下中に響き渡る大声で叱りつけられ、少年は呆気に飲まれ言葉が出なかった。
騒ぎを聞きつけたのか、廊下に面した部屋からは七三分けの役人が顔を出し、
「どうされました?」
「これはお恥ずかしい、ただのスキンシップですわ。お気になさらず」
「はぁ」
役人は不審げに首を傾げながらも一応納得したのか、ソッと扉を閉めた。
「もし、路地裏の生活が好きなら…… そうね、このまま逃してもいいわ。でもね、ちゃんと考えなさい。あそこは…… 暗すぎない?」
「知ったようなこと言いやがってッ! お前には分かんねだろうよ」
「分かるよ、私も路地裏出身だもの……」
その時はそれ以上は語らなかった。
「……大丈夫、あなたはまだ大丈夫」
気がつくと陽は沈み、外は夜闇に沈んだ。慣れ親しんだ冷たい暗さであったが、今は少しだけ鳥肌が立つ。
このまま連れて行かれるのも良いのかもしれないと思ったが「ついて行く」と言うのは癪だったから、ただ黙って全身の暴れるのをやめた。
それで伝わったのか、彼女は嬉しそうに、
「良い子…… そうそう、私はクノ」
「間抜けな名前だ」
「お前の名前はなんだ?」
「ねぇよそんなもん」
「ではそうだなぁ…… お前は今日から“ナトラ”だ。カッコイイだろう?」
クノの細い指で髪を撫でられるのは、悪い気はしなかった。
そして、連れてこられたのは“天龍院”という山の中にある修練施設だった。
ここでは、老若男女問わず同じ道着を身に付けた者たち百人ほどが、日夜研鑽に励んでいた。昔から、ナトラのような身寄りのない子供を引き取り、戦闘用魔導師として育成してきたのである。
魔導師。それは、魂魄と呼ばれる霊体機関から供給される魔力を動力源とし、魔導具を扱うことを生業にしている者のことである。
道場で白い髭の師範からその話を聞いた時、ナトラは一目散に逃げ出した。
安寧とした生活を送れるとは考えていなかったが、“戦闘用”となると話は別。つまりは、いつか戦場に行くのが前提だからだ。
身の毛がよだち、血反吐絶えず、寝小便の続く日々が訪れるのだろう。
だが案の定、三歩踏む前にクノに組み伏せられる。
「甘えん坊」
「なんでそうなるッ?」
ところがナトラが想像していたよりかは天龍院での生活は良いものだった。
もちろん鍛錬は厳しいが、それ以上に生活は穏やかだった。衣食住が整い、人の繋がりがあり、それで自分が人間なのだと実感できたからだ。
夜になると、路地裏での自由気ままな生活を思い出し逃げ出したくなるが、すぐにクノが察知して、投げ技からの固め技を食らう毎日だった。
そんな環境で六年が経過すると、ナトラの精神は少なからず穏やかになる。後輩の面倒もみるようになり、すっかり天龍院の生活に馴染んだ。背丈も伸びて、あんなに大きく見えたクノが今では小さく見えてしまう。
ある雪の日の夜。師匠が六人いる師範代たちが全員を集める。
道場の中で車座になって蝋燭の火を囲んでいるのだが、まだ半人前のナトラが何故だかその中に加わっていた。
「国別対抗戦?」
「そう、政府から打診があった」
「なんでまたこの時期に…… あれって開幕まで三ヶ月ないでしょう」
かつて、大陸中では戦乱が絶えなかった。
魔導と科学の向上によって戦火は拡大して行き、ついには大陸中を巻き込む大戦争が勃発。多大な犠牲者を出したのは百年ほど前のことであった。
これを重く見たオヴリウス帝国、シンカフィン共和国、ユーグミシェラ連邦、エインジェン司教国、ゼプァイル商連、クォンツァルテ諸島の六大国は大陸同盟を結成し、束の間の平和を得ることになる。
しかし、どの国にも主戦論を唱える者が数多く、再びの大戦争が勃発する機運は徐々に高まっていくのである。なんとか国家間の接点を持ちたかった穏健派が、強硬派の息抜きを兼ねて開催したのが、国別対抗戦なのだ。
四年に一度、衆目の元、戦闘用魔導師たちに優劣を競わせる平和の祭典。
という名目の限定戦争。
やや歪んだ形ではあっても国家間事業の効果は充分で、これを機に政治家が会談したり、商人たちが縁故を持つことで穏健派は増えていった。
徐々に国家間の緊張は緩んでいったのである。
ところが、大戦争の機運が低くなると、皮肉なことに相対的に戦闘用魔導師の需要も減っていく。それは六大国に属さない極東の地であっても例外ではなく、天龍院に依頼される仕事の量は減って行く一方であった。
「つまりは、天龍院の存在意義を示せとのお達しだ」
「師範、それは決定事項ですか? 試験か何かがあったのでは?」
「うむ。時間がなくて根回しが利かんが、いくつか興味を示したトコもあるし参戦自体は可能だろう」
「はあ…… で? 誰が行くんです」
「クノに参加してもらう」
「ちょっ……」
師匠たちの話を聴いてナトラ思わず立ち上がった。
すると師匠の鋭い眼光が突き刺さり、威圧された身体が痺れ、腰が抜けてまた座る。年老いたといえ、天龍院師範の肩書きは伊達ではない。
「なんじゃ?」
「……こう言っちゃなんですが、ほかに強い人はいるでしょう? それこそ師範が出ればよろしいのでは?」
「そうしたいのは山々だが、政府からの名指しでな。クノ、心当たりはあるか?」
「さあ、政府要人の方々はよくお会いしますが…… どの方かと言われるとちょっと」
クノは本気で分からないのか、頬に手を当て考え込むと、師範代の一人が茶化すように指差して、
「巨乳だから、目を付けられたんだろ」
「あらやだ、兄弟子口説いてる?」
「いやぁ道着臭い女は遠慮したい」
すると緊張感のない笑いが道場中に響いた。
何も言えなくなったナトラは、苦々しい焦燥感を味わいながら黙り込むしかなかった。
翌朝。まだ陽も昇らぬうちから正門前には見送りの門弟たちが集まっていた。
年長者たちは激励の言葉をかけ手土産を渡したり、まだ年端もいかない子供連中は泣きながら抱きついたりしているが、ナトラは少し離れたところで突っ立って不貞腐れていた。
ひと通り挨拶が済むとクノは歩み寄って、
「ナトラ、何か言うことがあるんじゃないの?」
「ない」
ナトラは外方を向いて無愛想に答えた。
クノはワザとらしく泣きマネして、
「グズん、おねえちゃん寂しい、そんな薄情なこと言うなんて…… 育て方間違えたかしら?」
「知らん」
「ほら、顔見せて」
スーッと両手を顔に伸ばす。きっと力技で強引に正面を向かせるつもりだろう。
このまま、なすがままになるのは気恥ずかしくて堪らない。
ので、ナトラは掌底をクノの顔面に打ち込む。
すると彼女は紙一重で躱すと、袖を取りながら身体を反転しグッと腰を払う。
足が地面から離れ視界が逆さになってから背中に衝撃は走る。
背負い投げだった。
クノはさらに袈裟固めをかける。完璧に極まった固め技からは逃れる術はない。それはもう六年間、ほどんど毎日かけられ続けたのだ。
抵抗する気にもなれない。
「何か言うことがあるんじゃないの?」
「……行ってらっさい」
「良い子で待ってなさい」
ナトラの髪をクシャッと撫でると、クノは後ろ髪引かれることなく天龍院から旅立った。
それからどれだけ待っても、彼女が帰ってくることはなかった。
代わりに遺品が送られてきた。
ナトラの心にポッカリ穴が空いたまま、四年の月日が経過した。