第093話 その効能は、正にファンタジー
ハキムの手により開かれた扉の先は、明らかに二人で利用するには広すぎる程だった。
「こちらが当旅館の最高級の部屋でございます。何か御用がございましたら、そちらのベルをお鳴らし下さい。すぐに係りの者がお伺い致します」
そう説明をするハキムの示した先は、ベッドの横に設置されたナイトテーブルの上にある、長さ10㎝程のハンドベルだった。
そのサイズから、激しく鳴らさないと係りの人には聞こえないのでは?と疑問に思えたが、すぐに、きっと使う事は無いだろうし、気にする必要は無いだろうという考えに至る。
「分かりました。ところで、この宿自慢の温泉とやらに入ってみたいのですが、今から入れますか?」
「ええ、勿論ですとも!当旅館の温泉はいつでも入る事が出来ますので、ご宿泊中はいつでもお入りになられても結構です」
そんなハキムの返事に、まさか異世界で好きな時にお風呂に入れるとは!と喜んでいるボクの横では、ルーリアも瞳を大きくし、その表情には喜びの色を浮かべていた。
だが、ボクはここで一つ、問題に気付く。
「しまった。ルーリアの着替え…」
普段から自分の分は収納の腕輪に入って居るのだが、ルーリアの分はあちらの宿にあるのだ。
ルーリアも「あ…」と小さく声を漏らしながら、尻尾とお耳がヘニャっと垂れ下がらせていた。
そんなルーリアの姿がちょっと可愛いと思ってしまうのだが、すぐにどうしたものかと思考を切り替えたその瞬間、ハキムは営業スマイルで「その事でしたら問題はありません」と口にする。
「この[恵みの湯]では、各部屋のクローゼットの中に[ゆかた]という着物が用意してありますので、そちらをご利用ください。それと、ルーリア様の替えの下着については、すぐエイラにこの部屋まで届けさせますので、ご安心ください」
宿の経営方針なのか、それともナツキ関係のお客だからかは分からないが、どちらにせよこれで着替えと下着の心配はしなくて良い事にホッとする。
隣に立つルーリアもホッとした後、先程までヘニャっとさせていたお耳をピンと立たせ、尻尾はユラユラとゆっくり振れていた。
そんなルーリアの姿を見ていると、ハキムは「それでは急ぎエイラに知らせに戻るので、これにて失礼します」と頭を下げ、ロビーの方へと速足で戻って去っていく。
「とりあえずここに泊まる事について問題はなさそうだし、安心だね」
「そうですね。着替えとかが無い事に気付いた時は、これから2泊3日の間、下着無しで過ごさないといけないかと心配しましたが、安心です」
ルーリアの言葉に、まさかそんな覚悟をしようとしていたとは…、と少し驚きながらも、ボクは「ホントに良かったね」という言葉を返す事しか出来なかった。
その後、用意されているという着替えをクローゼットの中から取り出し、いつでも温泉に向かえるように準備をし、ルーリアの替えの下着が届久野を待った。
それから少しして、少し息が上がっている様子のエイラが部屋にやって来てルーリアに小さな巾着袋を手渡した。
きっとその中に替えの下着が入って居るのだろう。
流石にどんな下着なのかを聞いた入りはしないが、今夜辺りに…
そんな事を考えながらも、エイラに温泉の場所を教えてもらい、ボクとルーリアは自慢の温泉がどんなものかと楽しみにしながら廊下を歩くのだった。
「はぁ゛~もう何もかもがどうでも良い気がしてくる~」
温泉へと辿り着いた後、先に身体を洗ってから湯船に浸かったボクは、その気持ちの良さに溜息を吐くかのように独り言ちる。
この温泉の効果は、正にファンタジーな世界だという感想が出てきそうな程、ボクの身体から疲れがスーっと抜けていくのだ。
「(ところで、こんなにも気持ちの良い温泉なのに、何故ボク以外、誰も入っていないんだ?)」
ふとそんな事が頭に浮かぶのだが、次の瞬間には、まぁ今はどうでも良いか、と思考を放棄してしまう。
それ程までにこの温泉が気持ち良いのだ。
あの物語を読んでいる時、この温泉が実在するならぜひ入りたいものだと考える事があったが、まさか本当に入れる日が来るとは…
運命神モイラに感謝かな、なんて思いながらも、ボクはのぼせそうになるギリギリまで、じっと浸かり続けるのだった。




