秋千とさようなら
ちかこちゃんは、とても大人っぽい女の子だった。
頭がよくて、気配りができて、顔もきれいで、先生たちにはものすごく気に入られていたけど、だからといって周りの子たちから「良い子ぶっている」と言って嫌われるようなこともなく。ちかこちゃんは、とにかくいろんな人に好かれていた。
ずっと小さな頃からちかこちゃんと仲良くしていた私は、よく知っていた。みんながちかこちゃんに向けている「好き」は、ぶりっ子なあいちゃんやさっちゃんたちへ向けるような「好き」じゃなくて、もっと素敵な何かなんだってことを。
私もきっと、ちかこちゃんにそういう「好き」を向けている一人だったのだ。
***
そんなちかこちゃんが、来週、遠くへ引っ越してしまうらしい。
『これがみさちゃんと遊ぶ、最後の機会になるかもしれないね』
寂しそうにそう言ったちかこちゃんは、いつも二人で遊んでいた公園へと、私をさそった。
『これが最後』……私たちはきっとその言葉の通りに、これからは今までのように簡単には会えなくなるんだろう。だけどふしぎと、それをはじめて聞かされたときには、涙は出なかった。
たぶん私は、ずっと前から一緒にいるのが当たり前だったちかこちゃんが、突然私のそばからいなくなってしまうということをうまく想像できなかったのだろう。
ぼんやりとした頭の隅では、悲しみでも寂しさでもなく、「そうか、私とちかこちゃんって、ずっと一緒にいるんじゃなかったんだ」と、ほんの少しの驚きだけがうずまいていた。
***
並木道のずっと向こうに、見慣れた黄色いすべり台が見えてくる。その公園で待ってくれているちかこちゃんの笑顔を思うと、自然と早足になってくる。
カラフルなさくを越えるとそこは、昔からよくちかこちゃんと遊んでいた公園だ。
今ではすべり台とブランコ、そして背の低い鉄棒……小学校高学年にさしかかった私たちには少し物足りないような子供向けの遊具しか残っていない、小さな小さな公園。この公園とは、幼稚園に入る前からのつきあいだ。私はここで同い年のちかこちゃんと出会い、それから「幼なじみ」と呼べる関係に至った今まで、しょっちゅう二人で遊ぶようになったのだった。
あれから、もう7年も経ったんだ。……あの頃にあった遊具も、今ではいくつかが取りこわされてしまった。
あそこはアスレチックがあったところ、こっちは丸太が置いてあったところ……更地になってしまったかつての彼らの居場所を見渡して、私は何ともいえない気持ちになる。
ちかこちゃんも、あの遊具たちみたいに、私と この公園を置いていっちゃうんだ。
「みさちゃん、こっちこっち!」
不意に名前を呼ばれて、我に返る。ちかこちゃんは、私よりも先に公園に着いていたみたいだ。
ぼんやりと立ちつくしたままの私の手が、駆け寄ってきたちかこちゃんにつかまれる。私はちかこちゃんに引っ張られるまま、錆びの多いブランコのほうへ歩いていった。
「……私ね、ブランコが好きなの」
「えっ、そうなの?」
意外だった。普段から大人っぽいイメージのあるちかこちゃんが、こんな子供っぽい遊具が好きだったなんて。
「あ、みさちゃん、ブランコのことばかにしてるでしょ」
ちかこちゃんが、ブランコに腰かけながら言う。さすがつきあいが長いだけあって、私の考えていたことはずばりお見通しだったらしい。
「あのね、目をつむってブランコに乗る感覚ってすごいんだよ?」
ちかこちゃんが、まじめな顔をして私の目をのぞきこむ。
「目を、つむって?」
「うん、そう」
私が問いかけると、ちかこちゃんはうなずいた。
私は少し、想像してみた。ちかこちゃんが、目をつむってブランコに乗っているところを。長いまつげ、風に流れる髪、そのすき間から見えるきれいな横顔。
うん、なかなか『サマになる』なあ。……なんて、お兄ちゃんの持っていた本で最近覚えた言葉を、ふっと心に浮かべた。
そして引き続き、クラスメイトのあいちゃん、さっちゃん、健二くん、藤原先生や私のお父さんお母さんが、目をつむってブランコに乗っているところを想像してみた。かたく目をつむって渋い顔をした藤原先生は、特にありありと想像できる。これは、ちかこちゃんを想像した時とは違って、なんだか少し笑えてしまった。
「あのさ、考えてみたら、すっごくへんだったよ」
「みさちゃんもやってみなよ。私が言ったこと、きっと分かるから」
私が笑いながら言うと、ちかこちゃんも私に笑い返した。
ちかこちゃんの笑顔は、少しもいやみなところがない。すごいなぁ、私もあんな風に笑えるようになるかなぁなんて思いながら、私は目線をちかこちゃんから外して、前を向いた。
そしてゆっくり、目をつむる。
放り出された暗闇の中で、キィ、という音が鳴った。
***
真っ暗闇の中、私の体は空中に浮いている。そして風を切っている。
私、今、飛んでる。
飛んだことなんてないくせに、私はなんとなくそう思った。
ふわふわと揺れ動く私の足下に、はたして今までいた公園の地面はあるんだろうか。もしかすると今私は気付かないうちに、ブランコに乗ったまま、さっきの公園から遠く離れた知らない場所まで飛んできてしまったのかもしれない。
そんなありえないことを真剣に考えてしまうほど、体が空に包まれているのを感じていた。
たとえば、もしも本当にどこか遠くへ飛んで行けたのなら、どんなにかいいだろうなぁ。
見知らぬところへ飛んでいってしまうという不安を感じるよりも先に、私の心はその「もしも」を望んでいた。
***
「ねえ、みさちゃん」
「うん、なに?」
ちかこちゃんの声が、私を現実に、二人でいた公園のブランコの上へと引き戻す。落っこちないように気をつけて着地しなくちゃ、と思いながら、私はゆっくりと目を開けた。
「みさちゃんも分かったでしょ、私の言ってたこと」
「うん。……飛んでる、って感じだったね」
私のその返答に、ちかこちゃんはどことなく嬉しそうだった。
それから、「どっちが遠くまで飛べるか、ブランコの上で競争しよう」とちかこちゃんが言い出した。子供みたいだね、私たちはまだまだ子供だよ、なんて言って二人一緒に笑う。
そして私たちは、目をつむる。
***
真っ暗な中、ブランコが動き始めた。
少しずつ少しずつ、風を切る速度が増していく。これは、高度が上がってきた、みたいだ。
ひゅん、ひゅん。
私の体が前後に揺れる。だけど、あまり『前後に』という実感はしなくて、もうほとんど『まっすぐ向こうに』飛んでいるような感覚だ。
今はどのあたりを飛んでいるのかなぁ、なんて考えながらも、私は一生懸命にこいでいた。
こぎ疲れてふと目を開ける。隣を見ると、ちかこちゃんも同じように目を開けてこちらを見たところのようだった。
「きっと一緒ぐらいだよね、私たちが今飛んでるところ」
ちかこちゃんが嬉しそうに言ったその言葉が、なんだか愛おしくて寂しくて……私はそのよく分からない感情にたまらなくなって、もう一度かたく目をつむった。
飛べ、飛べ、もっと飛べ。ずっと遠くまで、私を連れていって。
暗闇の中で風を感じながら、私は強くそう念じていた。
しかし、キィキィと響くくさりの音が、しつこく私に現実を思い出させる。「お前はどこにもいけないんだよ、夢を見ちゃあいけないよ」と言っては、くさりはキィキィと笑うのだ。
きっとこのブランコのくさりは、私を現実につなぎ止めるためのものだ。これが切れたら、きっとその時こそ私はどこへだって自由に飛んで行けるんだ。……なぜだか分からないけれど、根拠もないのに、私はそう確信していた。
くさりよ、ちぎれろ。お前なんか、ちぎれてしまえ。
私は今までよりも強く、強くブランコをこいだ。私の隣からも、同じぐらいの勢いでブランコをこぐ音が聞こえる。
ちかこちゃんが遠くに行ってしまっても、私はどこまでだって飛んで行けるんだから。きっと、会いにいくんだからね。
だから飛べ、飛べ、もっと飛べ。飛んで、ちかこちゃんと一緒にいられる場所まで。
くさりのキィキィという笑い声が遠ざかっていく。
今はどこらへんまで飛んだだろう、目を開けると隣にちかこちゃんはいるのだろうか。不意に怖くなり、そしてようやくその気持ちが「実感」と結びつく。
そうか、これが、「いなくなる」ということなんだ。
堅く目を閉じると、まぶたの隙間から温かいものがこぼれ落ちた。
それは、ちかこちゃんがここからいなくなってしまうと聞いてから、はじめて流した涙だった。
fin.