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恋はいつでも

恋はいつでも

作者: 紙森けい

 午後の販売事業部会議を終えた吉野は、ミーティング・ルームを出るとオフィスには戻らずエレベーターに乗った。目的地は一階通用口脇にある喫煙所。禁煙奨励の昨今、吉野が勤める株式会社KUSAKA――旧クサカ製薬――横浜支社が入っているテナント・ビルでも、ご多聞に漏れず全館禁煙である。愛煙家と言えるほどの喫煙本数ではない吉野だが、不景気感漂う会議の後には気分転換に一服したくなるのだった。

「陽が傾くの、早くなったなぁ」

 紫煙の流れる先に橙色一歩手前の太陽を見て、吉野は独りごちた。腕時計であらためて時間を確認すると、午後四時になったばかり。つい一ヶ月前はまだ充分に陽は高く、夏と変わらない熱さの日差しが降り注いで、秋の気配などどこにもなかったのに…と、吉野は季節の律儀さに感心する。

「吉野さん、休憩っすか?」

 背後から声がかかったので振り返ると、外回りから戻って来た同じ課の若い社員・永浜裕二だった。すでに煙草を一本銜えていて、吉野の目の前に立つやいなや、手にした百円ライターで着火した。

「会議が終ったとこ。早いな?」

 ルート営業とは言え、帰社時間が五時より早くなることは珍しい。特に今年の春に中堅の薬品卸会社と合併し、人的体制はそのままに営業エリアが拡大した横浜支社では尚更だった。永浜は満面に笑みを浮かべ、「今日は何が何でも六時には上がらないと」と答えた。

「デートか、金曜日だもんな?」

「何、言ってんですか、懇親会ですよ、懇親会。あ、その調子だと忘れてますね、吉野さんも面子に入ってるってこと」

 永浜はあきれたように吉野を見る。それで今夜、総務課の女子社員達と一席持つことを思い出した。

 二十八才で独身、見た目も気性もイマドキの永浜と違って、いくら独身でも今年四十一になった吉野に、懇親会と言う名のコンパの誘いなど本来ならありえない。だからすっかり失念していたのだった。

「すまん、忘れてた」

「まさか残業の予定じゃないでしょうね?」

「若い女の子との懇親会なんて無縁な年頃だからな。だいたい俺なんか面子に入れてどうするんだ? 絶対浮くし、場違いだろ?」

 総務の女子はざっと見回しても平均年齢三十代前半にかかるか、かからないか。既婚者が除外されているとして、平均年齢は更に下がるだろう。それに課長代理とは言え肩書き付きは吉野くらいで、煙たがられるに決まっていた。

「大丈夫ですよ、吉野さんは若く見えるし、違和感ないですって。それに釣り餌ですから」

「釣り餌?」

「木島さんが、吉野さんが行くなら参加するって言うもんで。だって今回のコンパは木島さんが参加してくれなきゃ意味ないんです」

「ああ、なるほど」

 吉野は木島の顔を思い浮かべた。

 木島――木島慧きじま・さとしは今年の春、合併を機に横浜支社に移動してきたのだが、以来、独身既婚、新参古参問わずに女子社員の注目を一身に浴びている。

 長身で均整のとれた体躯、端整に過ぎる容貌、吊るしのスーツを着てさえも男性ファッション誌から抜け出したかのように見えるほど、とにかくモデルばりに整った容姿の持ち主だった。実際、大学時代はモデルのアルバイトをしていたそうで、パリコレやら何コレやらに出てもおかしくない逸材だったと、女子社員達が知った風に噂していた。あくまでも噂ではあるが、洗練された、それでいて嫌味のない立ち居振る舞い、三十五才と言う中年の域に入りつつありながら弛みのない体型から見て、その噂の信憑性は高い。

 積極的な女子社員は個人的に、あるいは団体で、木島を一度ならずも食事などに誘っているみたいだが、まだ誰も「オッケイ」をもらえずにいると言う。

「で、どうしてもって頼まれちゃって」

 喫煙所で一服終えた吉野は、オフィスへ戻りがてら総務課女子との懇親会に至った経緯を永浜から聞いた。総務課には『ミス横浜支社』と男子社員が密かにあだ名している野添響子がいる。女子軍団は彼女を目玉にして、木島が参加する食事会を計画してくれないかと永浜に打診してきたのだった。

「野添さんが来るって言うなら、断れないっしょ?」

 彼女を何度も食事に誘っては撃沈している永浜は、ポイント稼ぎのために木島を口説き落としたのだが、だからと言って野添響子の中で永浜値が上がっているかどうか。木島が参加するとわかった時点で、女子達の関心はすべて彼に向けられていると言って過言でなく、そのほかの男子社員は十把一絡(じゅっぱひとからげ)にされているだろうから。

「だから吉野さんの参加は必要不可欠なんですよ」

「ふ~ん」

 吉野が生返事をしたので、永浜は慌てて、

「それに吉野さんだって密かに人気あるんですよ」

と付け加えた。上司にあたる吉野を、木島を呼ぶためだけのエサだと言ってしまうことは、さすがに不味いと思ったらしい。

 釣り餌にされたことに、吉野は頓着していなかった。年齢も年齢だし、容姿も平凡、それらを補う社会的地位があればまだしも、たかが中間管理職の端っこ、女性にとって魅力的な要素には乏しいと自覚している。結婚をいまだにあきらめていないとか、機会があればコンパに参加したいなどの野心が相応にあれば、前述の自覚があっても釣り餌にされることに良い感情は湧かないのだろうが、吉野の恋愛に関する「野心」の対象は同性だった。だから異性と親しくなることが目的のコンパは、面倒くさい以外のなにものでもな

い。今回の懇親会もすっかり吉野の意識野から閉め出されていた。

「あれ、木島さん?」

 販売事業部オフィスの入り口で、別方向から来た木島と行き会った。

「早いっすね」

 吉野から言われたセリフを、永浜が木島に投げかけた。疑問形に聞こえないのは、裏に別のニュアンスが含まれているからである。永浜は自分同様、今夜の懇親会のために木島が早く戻ったと思っているのだ。二課のエリアでは、普段この時間に見られない顔ぶれがチラホラとデスクワークしている。独身の若手ばかり、理由は言わずもがなである。

「いや、麻薬の急配要請が入って、取りに戻っただけ。出庫手続きしたら、すぐに出る」

「今から麻薬?! 今夜、大丈夫なんでしょうね?」

 永浜の声が大きくなった。急配=緊急配送とは、配送担当の通常便とは別に営業担当が直接、取引先に持って行く業務である。今から出庫を待って帰宅ラッシュ時の街中を往復するとなると、行き先によっては今夜の懇親会に間に合うか微妙だった。持って行く薬品が出庫手続きの特殊な麻薬では、大幅にずれ込む可能性がある。木島は今夜の「主役」で、永浜の反応も無理からぬことだ。 

「今夜? ああ、コンパだっけ。大丈夫、大丈夫。急配先はそんなに遠くないところだから」

 木島の言葉にあからさまにホッとする永浜を見て吉野は笑った。木島はそんな吉野の方に向き直り「吉野さんは大丈夫なんですか?」と尋ねる。

「忘れて残業する気満々だったんじゃないかと思って」

「永浜に言われて思い出したよ」

「やっぱり」

 木島が苦笑を作ったところで、彼宛に内線が入った。近くの電話で受けて話しだしたので、後の二人は二課のエリアに向った。

「あー、良かった。木島さん、イマイチ乗り気じゃないから、ドタキャンされるんじゃないかって思いましたよ」

 永浜はそう言うと、時間内にデスクワークを片付けるべく、自分の席についた。今日のようなヤル気が常日頃出れば、もう少し彼の評価も上がるだろうにと思いながら、吉野も席に着く。会議に出るために後回しにした仕事が山積していた。懇親会のことをすっかり忘れていたので、いつも通り残業してゆっくり片付ける予定が狂ってしまった。

 視界にまだ電話をしている木島の姿が入る。ただ立って受話器を持つだけの姿も絵になる男だ。容姿が良いだけではなく、仕事も出来、性格も良い。もてない要素が見当たらない彼が、いまだに独身であることを周りは不思議がった。とんでもない欠点があるのではないかとやっかみ半分で勘ぐる輩もいたが、彼の姿を見かけると女子社員はどんなことにも目を瞑れそうな勢いで色めき立つ。

 木島が独身で浮いた話がないことや、ミス横浜支社が同席する懇親会に乗り気でない理由を、吉野は知っている。

 独身なのは、たとえ結婚したいと思う相手がいたとしても、日本の法律がそれを許さないからだ。そしてミス横浜支社に限らず、相手が日本代表クラスの美人であっても、木島の乗り気は女性相手に出力されない。

 木島慧の恋愛対象は異性ではなく同性であり、吉野は『同好の志』であることを、彼の着任当初から知っていた。

 



 遡ること半年前、吉野倫成の勤めるクサカ製薬株式会社は中堅の卸会社を吸収合併し、株式会社KUSAKAと社名を変更した。

 旧クサカ製薬はそれまでの製薬中心だった体制を見直し、卸販売部門を販売事業部として独立させることにより、医薬品ばかりでなくヘルスケアのフルラインを網羅し、再編が進む業界での盟主たる一角を占めようと模索していた。それには販売部門の強化・拡大が急務であったため、中堅ながらも全国、ことにクサカ製薬が弱かった西日本を中心に事業所を展開している、医薬品卸販売専門のナオハラと数年前から提携、この春合併に至ったわけである。

 合併ともなると当然ながら人的移動が発生する。横浜支社でも数人の入れ替わりがあった。吉野の義弟・関目慎司もその一人で、新たに置かれた京都支社のリーディング・スタッフとして、妻で吉野の妹・菫を伴って栄転して行った。

 両親は既に亡く、十四才離れた菫を親代わりに育ててきた吉野の身辺は一挙に寂しくなった。結婚して実家を出たものの、車で十五分程度の社宅に住んでいた菫は、毎週末には関目を連れて『里帰り』していたし、平日の夜でも吉野を夕食に呼ぶものだから――社宅の方が勤務先に近かった――、それまでの生活とさほど変わらなかった。しかし京都へ転勤となると事情は変わる。「ブラコン過ぎる」と菫を嗜めていた吉野も、いよいよ妹夫婦が去ってしまうと寂しさを否めなかった。

「不景気な(つら)だな」

 行きつけのBar『Erebos(エレボス)』のマスターで学生時代以来の友人・奥平(おくひら)賢斗(けんと)が、カウンター席の端に座る吉野に特製ナポリタンを差し出しながら言った。なぜ特製なのかと言うと、メニューにないものだからだ。Erebosは酒と肴が主であり、がっつり系な家庭料理はメニューに載っていない。ナポリタンに使ったスパゲティも、本来はおしゃれなパスタ・サラダ用だった。そしてErebosはゲイが気兼ねなくゲイでいられる「ソレ系」のBarであり、食事を期待する客はいなかった。

「ここんとこ忙しいんだ。出て行く人数の方が多いのに、入ってくるのは少ないし、なのに仕事は増えるし」

手渡された皿を受け取ると、吉野はすぐにかっ込んだ。

吉野の所属する病院二課は、義弟の関目をはじめとする転出した社員に対し、転入者は少なかった。そのうちの二人がまだ前任地の引継ぎに手間取っていて、着任が遅れている。営業エリア拡大で今までの倍近い取引先を抱えることになり、今春入社の新人社員も抱えた現状では仕事が回らず、昇進してルート営業の現場を離れた吉野も、駆り出される始末だった。

「だからってうちを食堂代わりに使うなよ。どっかで済ませてから来てくれないかな。俺の自慢のレザーが所帯臭くなっちまうじゃないか」

奥平は黒いレザー・ジャケットの捲り上げていた袖口を下ろしつつ、鼻の辺に持ってきて嗅ぐ素振りを見せた。においがついているとしたら、今日はきっとトマトソースのそれだろう。

「せめてここで知り合った誰かと、デートがてら食べに行ったらどうなんだ?」

「面倒くさい。デートなんかしたら、遅くなるじゃないか。さっさと食って、帰って寝たいのに」

「だったら真っ直ぐ帰って、コンビニ弁当でも何でも食え」

「う~ん、ケントの作るメシのが断然美味いからなぁ。この前の洋風親子どんぶり、絶品だった」

「ハッ、ダチに褒められても嬉しかないね」

奥平はそう言うと、常連客に呼ばれて場を離れた。

彼に言われなくても、まっすぐ帰宅した方がいいことは吉野にもわかっていた。Erebosへ来るには、途中で路線を乗り換える必要があったし、店が店だけに表通りから入り込んだところにあり、最寄り駅から結構な距離を歩くことになる。それでも日を空けずに通うのは、コンセプト通り気兼ねしないで良いからだった。それに一人でコンビニ弁当を食べる毎日が続くのは、どうにも寂しい。昔は妹のために炊事もした吉野だが、仕事で疲れた身体で、自分のためだけに食事の支度をする気にはなれなかった。そんなところをわかっている奥平だから、文句を言いながらも裏メニューを出してくれるのだ。

戻って来た奥平は、吉野がもくもくと食べているだけの姿を見てため息をついた。

「菫ちゃんも嫁に行って、やっと自由になれたんだから楽しめよ。恋人の一人や二人作って。人生、短いぜ? いつまでも『右手が恋人』じゃ虚しいってもんだろ」

彼は来店する都度に早く良いパートナーを見つけるなりしろと勧めた。

「俺は左利きです。それに今更、恋愛するのは疲れるよ。新しい人間関係も」

「枯れ過ぎだろ、みっちゃん」

「四十一になったから」

「俺の方が二つ上なの、知ってるか?」

二つ上でも奥平の方がよほど若々しく精力的だった。太りやすい体型を気にして、ちゃんとジムに通っては崩れを最低限に抑える努力をしているし、「若さを吸収する」と言って年下ばかりを相手にしていた。確か今の恋人は大学卒業したての新社会人ではなかったか。

吉野はと言えば、奥平とは反対に太らない体質だから良いものの、それでなければ「疲れた中年」に「メタボな」が確実に付加されていた。父親業に徹した年月は、恋愛の入り込ませる余地を吉野に与えず、妹が社会人となり自由な時間を持てる頃に恋をする気持ちは蘇ったが、何年かぶりに好きになった相手はその妹と結婚してしまう。『老いらく』の片想いの末の失恋に、疲労感は半端なかった。「しばらく恋愛は勘弁」と思わせるほどで、もともと希薄だった自分磨きは忘却の彼方に追いやられている。

「土日は連休なんだろう? 今夜羽目を外しても二日あったら回復するさ。遊んでみたらどうなんだ? 例えば、彼。さっきからみっちゃんに秋波送りっぱなしと見たけど?」

奥平が顎で示す方向を見やると、スタンド・テーブルにもたれて立つ若い男と目が合った。薄暗い店内にあって、彼には後光がさしている。それほど目立つ美形だった。彼のテーブルとその周辺には、数人が鈴なりだ。吉野は目を、ほとんど空になったナポリタンの皿に戻した。

「年下は趣味じゃない」

「俺たちの年齢で同年代や年上なんて言ったら、楽しめる時間は一瞬で、後は茶飲み友達一直線だぜ? 下手すりゃ介護だ」

「大げさだなぁ。でも茶飲み友達な付き合いでも、俺は一向に構わないよ。それほどセックスしたいと思わないし、体力もないし」

「他人事ながら、悲しくなるセリフだねぇ。彼、後腐れないとタイプだと思うから、気晴らしに今晩付き合ってみろよ。ああ言うキレイ系も、昔はイケてたろ?」

確かに学生時代はあの手のタイプとも付き合ったことはある。ただ最近の吉野の趣味はガタイの良い、どちらかと言うとマッチョ系だった。一緒にいて安心出来て心身ともに預けてしまえそうなタイプ――関目の顔が頭を過ぎった。失恋して一年が経ち、その一年で義兄弟の関係に慣れたはずだった。こうして何かの折に思い出すなんて、

(案外、俺も諦めが悪いな)

と、吉野は自嘲気味に笑みを浮かべた。

「やっぱり、年下は、」

 もういい…と続けようと目を上げると、奥平の姿は消えていた。オーダーが入って、そちらにでも行ったのか。

 ふと、鼻腔に知らないコロンの香りが滑り込んだ。隣に人の気配を感じたので顔を向けると、さきほどの美形が座っている。吉野がぼんやりしている間にナポリタンの皿は目の前から消えて、代わりにオンザロックのグラスが置かれていた。奥平は気を利かせたつもりなのだろう。

「一人?」

「まあ」

 彼の分のグラスを奥平が持ってくる。それをさっさと手渡すと、去り際、吉野にウインクを寄越した。「誘いに乗れ」の意味が含まれているのがわかった。奥平のお節介には辟易したが、表情には出さなかった。

 それにしても惚れ惚れするような見目良い男だった。ありふれたVネックのグレイのTシャツにジャケットを羽織り、ジーパンに合わせただけのシンプルな装いであるのに、店内にいる誰よりもファッショナブルに見えた。緩やかなウェーブがかかった髪質に縁取られた顔には、彫りの深い、それでいて暑苦しくないパーツがバランスよく配置されている。外国の血が混じったハーフやクオーター特有の、日本人好きする美しさを感じた。実際、外国の血が入っているかどうかは不明だが。ともかく顔も体型もモデル並かそれ以上だった。

 話し運びもスムーズである。営業職ならさぞかし成績がいいだろう、彼くらいの人材が一人いればずい分と楽なのにと思ったところで、吉野は心の中でため息をついた。オフ・タイムに仕事関係が頭に浮かぶのは良くない兆候だった。これだから疲れが取れずに溜まる一方なのだ。せっかく目の保養的美形が目の前にいて相手をしてくれているのに、色気がないことこの上ない。吉野は頭の中から仕事を閉め出すことに努め、彼との会話に集中した。

 会話もアルコールも自然と進む。彼からは「慣れ」が窺えたが、悪い印象を受けなかった。さりげなくちやほやされることもまんざらではなく、吉野の身体も久しぶりにその気に傾いている。奥平の言うとおり、後腐れなく付き合うにはちょうどいいかも知れない。こうして話して飲むだけでも、かなりの気晴らしになる。

 どれくらいかして場所を変えようと誘われた。とっくに過ぎた終電の時間と、腰に回された腕の存在から行き先はおのずと知れたが、「まあいいか」と吉野は導かれるままErebosを後にした。

 


 

 目が覚めると、あきらかに自分のベッドではなかった。それに背中に人の気配がする。吉野が首を回して窺い見ると、あの美形が静かな寝息をたてていた。

(ああ、そうだ。あれからホテルに泊まったんだっけ)

 彼の誘いに乗ってErebosを出た後、タクシーで向った先は吉野が察したとおりホテルだったが、ラブ・ホテルではなくビジネスホテルだった。フロントを通らずにあらかじめ持っていたカードキーで部屋に入ったことから、彼がここの宿泊客だと知れた。よその土地から引っ越してきたのだが、連絡の行き違いで荷物より先に着いてしまい、今晩一晩ホテルに泊まることになったとか何とか聞いたように思う。しかし適度にアルコールが入っていたのと、部屋に入るやいなや、すぐに二人してシャワーを浴び、事に及んでしまったので、はっきりしない。どうせ一晩きりの相手だから、どうでも良いことだった。

 よく眠っている彼を起こさないようにコンフォーターから這い出て、ベッドの端に腰掛けた。遮光カーテンの合わせ目がずれて、指二本分の隙間を作っている。そこからまだ夜が明けきっていない、ほんのりと白む朝の色が見えた。

 重だるかった疲労感は、吉野の身体から抜けていた。何やらすっきりとして目覚めがいい。久しぶりのセックスだったが、身体へのダメージはほとんど感じなかった。彼が吉野の深部に触れたのは一度だけ。その一度も、驚くほどに気遣われて満たされた後での一度だった。

 荒々しい寄せと、緩やかな引き――快楽の波動に逆らうことなく、互いの官能を高めあうことに終止した一夜。

 疲れの上塗りを覚悟していたのに、派生した甘やかな倦怠感とで相殺されてしまったのだろうか。吉野はくくっと喉の奥を小さく鳴らし苦笑した。どうやら性欲を自覚しなくても、身体はその処理を欲していたらしい。よく「溜め過ぎはよくない」と言うが、こう言うことかと吉野は身をもって納得した。

 背後で動く気配がしたかと思うと腰に腕が回ってきて、吉野はそのまま後ろに引き倒された。頭が、眠っている…はずの彼の胸に落ちる。ちょうど吉野の耳は彼の口元近くにあり、「おはよう」と言う声を拾った。

「おはよう」

「どうかした?」

「目が覚めただけ」

 吉野が身を少しよじる。意思を汲み取って彼は腕をどかした。吉野の頭が胸から離れると、彼はずり上がってベッドヘッドに背をもたせ掛けて座った。

 ほどよい逆三角形の上半身が、微かな光を吸って暗さの中で浮かび上がる。抱き合った時、意外としっかり筋肉がついていることに驚いた。

(物好きなヤツだ)

 顔も極上なら、身体も極上。Erebosで彼を囲んでいた連中は虎視眈々と機会を窺っていただろう。彼の容姿に相応しい相手は、あの中にいくらでもいた。なのに、カウンターの片隅で場違いにも夕食をとっていたサラリーマンと一晩を過ごすなんて、物好きとしか考えられない。

「風邪、引くよ。中に入ったら?」

 ベッドの端に座ったままの吉野に、彼はそう言ってコンフォーターをめくった。

「いや、いいよ。もう帰るから」

 吉野は目を眇めてベッドヘッドに埋め込まれたデジタルのアラーム時計を見た。電車はすでに動いている時間だった。脱ぎ散らかした服やら下着やらの中から、手探りで自分のものを探す。まず眼鏡が最優先だ。それはティーテーブルの上で見つけた。

「もう少しゆっくりして、一緒に朝飯、食わない?」

 彼がルーム・ライトを一番絞って、しかし辺りが見える明度にしてつけた。全裸で下着を探す間抜けな姿を慮ってのことで、憎らしいほど出来た男だ。

「今日、ゴミの日なんだよ。昨日までに出しておくの忘れたから。うちのマンションの集配は、朝早いんだ」

 吉野は言ってから、「ちょっと所帯じみていたか」と思った。色っぽい一夜を過ごした朝には似合わない。

「ゴミの日?」

 彼は一瞬、きょとんとして、それからにっこりとした。笑みは呆れたようでも小馬鹿にしたようでもなかった。たとえ呆れていたとしても、気遣いの出来る男だから、表情には出さないだろう。

 吉野は手早く服を身につける。いくら明度を絞った灯りでも、完璧なボディーを持つ人間にいつまでも裸体を晒していたくなかった。

「連絡先を教えてくれない?」

 すっかり身支度を整え、「それじゃ」と言おうとした時に、彼がベッドから降りて近寄ってきた。

「なんで?」

「また会いたいから。まさかこれっきりってこと、ないでしょう?」

「う~ん」

 吉野はこれきりのつもりだった。気晴らしの相手とは後腐れなく一夜限りなのが良い。彼との夜はそれなり以上に悦かった。だからこそ尚更に警戒が必要だった。この男は、セックス・フレンドにするには上等すぎる。万が一、一度きりが二度になったり、下手に連絡先を教えて次を期待したり、あまつさえ社交辞令を真に受けてうっかり本気になりでもしたら…と思うとそら恐ろしい。今更しんどい恋はしたくないと言うのが、吉野の本音だ。

 間近に迫る彼の顔は、明らかにキスの体勢に入っていた。その口元を、吉野は手のひらで押しやる。

「たいてい昨日の店で晩飯食ってるから、そこで会えるよ」

「それは、教えてくれないってこと?」

「縁があればってことで。それじゃ」

 吉野はそう言って、部屋を出た。

(ほとぼりが冷めてからErebosに行こう)

 などとツラツラと考えながら、駅までの道を吉野は歩く。昨夜、二人が一緒に店から出たことを奥平は知っている。すぐに店に顔を出そうものなら、興味津々に顛末を聞いてくることは目に見えていた。それに間を置くことで、彼の社交辞令の有効期限も切れるだろう。しばらくはコンビニ弁当になるのもやむをえない。

 ところがErebosで会うまでもなく、吉野は彼と再会した。それもわずか二日後の週明け月曜日の朝に。

 転属が遅れていた二人のうちの一人がやっと姿を現し、出勤してすぐ吉野は課長に呼ばれ引き合わされた。「あっ」と言う声が、吉野とその転入社員双方から同時に、多分、同じ驚きを含んで発せられた。

 吉野の目の前に立つ男――木島慧は、つい一昨日、一緒に朝を迎えたあの『極上の男』だった。




 総務課女子社員との『懇親会』と言う名のコンパで、吉野はどう見ても場違いだった。四十代はもちろん一人だったし、吉野が入ってしまったせいなのか、男の方が一人余る。「これはまずい」と店の入り口で適当な理由をつけて帰るつもりだったが、木島にぴったりマークされて機会を逸した。

 店に入ったら入ったで、女子の誰もが狙っていたであろう木島の両隣は、一つは壁が、一つは吉野が埋めて大顰蹙。幹事の永浜が彼基準の完璧なセッティングのもと、恨みっこなしで席を決めていたのだが、店に入ると木島は、

「『おじさん達』は端でいいよ」

と強引に吉野の腕をとって、さっさと隅の席に座ってしまったのである。確かに吉野の次に年長ではあったが、彼を「おじさん」と呼ぶには絶対的な違和感があった。自分にあらぬ期待を抱く女性との会話を、極力避けようとしていることは明白で、「おじさん」発言も吉野の存在も、防波堤としての意味合いが強かった。

 木島は友人関係を保つ女性とは親交を持っても、特別な好意を見せる女性にはそっけなかった。大人なのであからさまではなく、表面上は紳士的であったが。

 彼ほどの容姿であれば、好むと好まざるとに関わらず異性が寄って来る。ゲイの知名度が一般的に上がったとは言え、よほどのことでないかぎり身近の、それもすこぶる良い男をゲイとは疑わない。期待を抱くなと言う方が無理なのである。今までそのせいで木島自身が意図しないトラブルに巻き込まれたこともあるだろう。それでなくても興味がないのだから、木島にとって異性は、ますます煩わしい存在になったのではないか――と言うのが、半年間、同じ職場で過ごし、彼の性的嗜好を知っている吉野の見解である。

 今夜の懇親会に吉野が参加することに拘ったのも、同好の士として煩わしさを分かち合いたかったのか。木島の思惑はどうあれ、懇親会の間中、吉野の居心地は最悪だった。女子社員から話しかけられると木島は一言二言当たり障りなく答えて、「吉野さんは?」と話を振る。誰も吉野の趣味やら、食べ物の好みやら、好きな服のブランドなどに関心はない。ウィットの利いた答えが返せればまだしも、ありふれた内容では場が白けるというものだ。吉野も疲れたが、女子社員も興味のない相手への愛想笑いでさぞ疲れたことだろう。

 最近は苦手になった脂っこい系の料理だが、気を紛らわせるために口に運び、吉野は時間をやり過ごした。

「え?! 二次会、行かないんですか?」

 支払いを済ませ、最後に店を出てきた永浜が、吉野を目の前にして言った。

 懇親会が行われたイタリアンの居酒屋ではテーブル・チャージが二時間まで。その後は、場所を変えて飲みなおす算段にしているようだった。吉野ははじめから次に行くつもりはなく、もしその後を予定しているなら行かない旨を永浜に伝えてあったので、彼の焦った言葉は吉野に向けたものではない。傍らに立つ木島が、一緒に帰ると言い出したからだった。総務課女子のお目当ては木島で、言わば今夜の主役。その彼が来ないと知ったら彼女達の落胆は必至だった。

「そんなぁ、木島さん」

 自分一人では説得は無理だと踏んだ永浜が、聞こえよがしに情けない声を出してみせる。計算通り、みんなが集まってきた。「行きましょうよ」と誰かが口にする前に、

「何だか寒気がするんだ。実は朝からあまり調子、良くなくって。悪いな」

眉を八の字に下げて、申し訳なさそうに木島が答えた。

「一人で大丈夫ですか? 私、途中までご一緒しましょうか?」

 もう一人の主役、ミス横浜支社こと野添響子が言ったものだから、今度は男子社員たちが落胆の表情を浮かべた。

「いや、大丈夫です。吉野さんのところで、少し休ませてもらうつもりだから」

 すっかり他人事で、電車の時間に気を取られていた吉野は、名前が出たので思わず木島を見る。吉野の自宅マンションはここから一駅で不自然じゃない。計算された方便だと呆れるより感心する。いっせいに視線が自分に向いたので、吉野は反射的に頷いてしまった。

 木島が野添響子の魅惑的な申し出を断ったことに安堵する男達と、社内一の美人にも靡かなかったことでますます彼に好感を抱いた女達は気分良く次の店へと向かい、吉野と木島は駅方向へと分かれた。

 

 

 

「すみません」

 吉野の手から水の入ったコップを受け取ると、木島は申し訳なさそうに言った。

 二次会を断るための方便だと思っていた木島の体調の悪さは本当だった。ただし、理由にした風邪などからくるものではなく、酒の影響によるもの――つまり飲みすぎだ。

傍目にはそれほどの酒量には見えなかった。ペースは吉野と変わらず、社内や取引先との飲み会よりは控えめの量だった。どちらかと言えばアルコールに強い木島らしくなく、疲れからくる多少の調子の悪さが素地にあって、酒の回りが早かったのかも知れない。他の連中と分かれて駅に向う道すがら段々と言葉が少なくなり、ホームに着いて電車を待つ間に座ったベンチから木島は立てなくなった。演技かと疑った吉野だが、顔色がすっかり白くなって、見る見る目の下や頬に青みを帯びてくるとそうとも思えず、しばらくホームで休んだ後、電車ではなくタクシーで自宅マンションに彼を連れ帰った。車に揺られてますます気分が悪くなったのか、木島は吉野宅に入るなりトイレに直行。五分は出て来なかった。

「気にするな。少し横になったらどうだ?」

「いえ、横になったら眠ってしまいそうだし。それに胃の中が空っぽになったせいかマシになってきましたから、もう少ししたら失礼します」

 幾分、血の気が戻ってきたものの、木島の顔色はまだ冴えない。

「明日は休みなんだし、ゆっくりしていけばいいさ。何なら泊まってもいいぞ?」

木島は奇妙な笑みを浮かべ、呟いた。

「…こうなりたいとは思ったけど」

 聞き取れなくて、吉野が「え?」と聞き返すと、彼は微かに首を振り、

「いつもは『ちゃんぽん』なんてしないのに、思った以上にテンションが上がってしまって。かっこ悪くて凹むな…」

と続けた。

 今夜の店ではワインとピッチャービール、昨今流行の焼酎がテーブルに乗っていた。木島は勧められるままワインもビールも焼酎にも口をつけていた。あれでは酒量にかかわらず、酔いが回ったのは頷ける。

 女の子好きのする瀟洒な店内だった。女子社員にはやはり華があって、彼女達の存在が男子社員を陽気にさせた。異性が守備範囲外の木島のテンションも、引きずられて上がっていたのだろうか。

「木島でもそんなことあるんだな。雰囲気に当てられたのか?」

「まさか。女の子がいると真から楽しめませんよ。興味もないし、本当は参加したくなかった」

「だったら断れば良かったじゃないか?」

「同僚とのつきあいは大事ですから」

 水のおかわりを聞くと、「結構です」と木島は答えた。

 彼がソファに横たわりそうにないので、吉野は少し間を取って隣に座った。

「じゃあ次からは一人で参加してくれ。今回のコンパに俺と一緒じゃなきゃ参加しないって言ったらしいな? なんでそんなこと言うかなぁ。おかげで居心地悪いったらなかったぞ」

 半分本気、半分冗談で吉野が言うと、木島は伏し目がちに笑みを作り「口実です」と答えた。

「口実?」

「聞きたいことを女の子達が聞いてくれると思ったし、それに最終的に二人きりになるつもりだったから」

 木島は目線を上げて、隣に座る吉野を見た。

「予定では、一次会が終ったら吉野さんと一緒に抜けて、どこかで飲みなおすつもりだった。そんなことを考えて、時間が早く経てばいいと思っていたから、きっと変にハイになっていたんでしょうね。結果はこのザマ、せっかく二人きりになれたのに」

 木島の言っていることの意味が、吉野には理解出来なかった。文章として理解出来ても正しい解釈かどうかわからない。まるで木島が吉野に何らかの感情を持っているかに受け取れるのだが、それは俄には信じ難いことだった。

「俺は、吉野さんに興味があります」

 吉野のそんな心の内が表情に出ていたのか、木島ははっきり言葉に出した。

「だから、二人きりになってもっと話しがしたかった」

 顔色が悪いながらも、今夜、女子社員が誰も見られなかった、そして見ることが出来たなら一瞬で悩殺されたであろう魅惑的な笑みが浮かんでいる。おそらく一部の同性にも有効な笑顔だ。その『一部の同性』である吉野だが、魅惑より困惑が先に立つ。

「今まで何度も二人きりになったこと、あったじゃないか」

「仕事ではね。だけどプライベートでなかなか掴まえられないから、実力行使に出ることにしたんです」

 出会ってから半年。二人の間に仕事以外のつきあいはない。吉野が代わって引き受けていた仕事は木島に引き継がれたので、しばらくの間は一緒に行動することが多かったが、プライベート――ことに「同類」関係――の話は出なかった。もともと吉野はあれきりのつもりだったし、木島から何のリアクションもないので、同じ職場だと知った時点で互いの中で線引きがされたものと吉野は思っていた。

 Bar『Erebos』でも二人が鉢合わせることはなく、あの夜の記憶も遠くなっている。ともすれば、あの「彼」と木島は別人だったのではと錯覚するほどだった。

「Erebosに行っても会えないし、もしかして避けられてました?」

「偶然だろう。たまたま行った日に木島が来ないだけさ。それに以前は月に一度も行ってなかったし、今年の春が特別だったんだよ」

 Erebosに足繁く通っていたのは、多忙による疲れと、妹夫婦が離れた寂しさを埋めてくれる奥平の料理が目当てだった。人手が足りて業務内容が軽減し、純然たる独り暮しに慣れると、Erebosへ向う回数も以前のペースに落ち着いた。木島がかなりの頻度で通っていたとしても、毎日でないかぎり吉野と会う確率は必然的に低くなる――元に戻っただけで木島を避けていたつもりはないと吉野は続けた。

(何、言い訳しているんだ、俺は)

 羅列した言葉が、ひどく言い訳めいて自分の耳に返ってくるのを吉野は感じる。

「それはそれで、複雑だな」

 吉野の答えに木島が目元を苦味のある笑みで綻ばせた。

「避けるってことは、少なくとも意識はしてくれているってことだけど、そうじゃないって言われるとね」 笑みはすぐに消え、今度は真っ直ぐ吉野を見つめる。

「それとも少しは俺のことを意識してくれましたか?」

 意識?――あの朝、「しばらくErebosには近寄らない」と思った。奥平に詮索される煩わしさを理由にしたが、そればかりだったかどうか。すでに次に会った時のことを意識していたことにはならないか。

 あのままどこの誰とも知れずに済んでいたならともかく、毎日会社で顔を合わせ、その人となりに触れる。一緒に仕事をしてみて、木島がどれだけ有能かがわかった。営業成績の良さもさることながら、合併で今までのシステムが変わり微妙に忙しくなった部署内で、周りをさりげなくフォローする。その頼り甲斐のある存在は、前線指揮者である吉野をずい分楽にしてくれた。

「沈黙は肯定の意味に取っていいってことですか?」

 一夜の思い出として忘れさられるはずの『意識』は持続され、

「まったく意識してなかったとは言わないけど」

それこそ『意識的』に閉め出さなければあらぬ方向に向かいそうだった。

「けど?」

「次をどうこうとは思わなかった」

 覗き込む木島の顔が近い。吉野の身体は彼と反対方向へ傾ぎながらずれる。そうしながらも目は木島の唇を捉えていた。

 程よい厚みの彼の唇が、どれほどしっとりとした弾力を持ち、そして柔らかく肌に触れるかを吉野は知っている。

「本当に?」

 木島の手が吉野の頬に軽く触れた。長い指先から伝わるのは彼の体温。今は少し冷たい指先だが、その手の本当の熱さもまた、吉野は知っている。

 二人の距離は徐々に縮まり、比例して唇も近づく。気がつくと吉野の身体はソファの端に追い詰められ、肘掛に頭がついてしまうほどだ。いつの間にやら押し倒されたかっこうになって、真上から木島の端整な顔が吉野を見下ろしていた。

「…本当だ」

 辛うじて木島の言葉に答えたものの、魔法をかけられたかのように吉野は動けなかった。彼の唇が自分に向って降りてくることは見えていたが、拒めない――拒まない。二つの唇が重なるその瞬間を、思考とは裏腹に身体は待っているのか。

「すみません、ちょっと…」

 ふわりと二人の間で空気が動き、視界が開けた。口元に両手の平を押し当て、木島は慌てて吉野から離れるや否や、居間から飛び出して行った。

 ドアの開閉する音。多分、トイレのドアだ。  たっぷり時間をかけて吉野を押し倒しにかかる際に、ずっと下向き加減だったため、アルコールによる不快感が復活し吐き気を催したのだろう。

「ぷっ」

 身体を起こして座りなおした吉野は、思わず吹き出す。笑い声がそれに続いた。近づいてきた木島の煌煌しい表情と、口を押さえて居間から飛び出して行った姿のギャップがどうにもおかしかった。

 しばらくして木島が戻ってきた。今度は手のひらではなく手の甲で口元を押さえている。顔色は赤い。嘔吐する際に息んだせいか、それともバツの悪さによるものか。おそらくどちらもだろうが、表情から見るに後者が勝っている。

「水は要るかい?」

「お願いします」

 さっきまで部屋に充満していた甘い雰囲気は消えた。

 木島はソファの背もたれに頭を乗せ、目を閉じていた。吉野が水の入ったコップを差し出すと、薄く目を開けて「すみません」と受け取る。それに続く吉野の「少し横になったら」と言う言葉。つい十分か十五分前にも同様のやり取りをした。雰囲気にまたのまれて流されることを警戒した吉野は、木島が横たわらなくても隣には座るまいと思っていたが、今度は木島もおとなしく従って、ソファに身を横たえた。吉野はテーブルの脇にそのまま腰を下ろした。

「…本当、かっこ悪い」

 情けない表情を隠そうとしてか、腕で目を覆って木島が呟く。

「そうか? いつも完璧な木島の、普通のサラリーマン的なところが見えて新鮮だったけど?」

 彼の落ち込み具合に、吉野はフォローを入れた。本当は「面白かった」と言いたいところを「新鮮だった」に置き換えた。

「完璧なんかじゃないですよ、俺。でも吉野さんの前ではそうありたいと思っていたのにな」

「なんだ、それ?」

 腕を少しずらして、木島が吉野を見た。

「『年下』って言うハンデが最初からついているからです」

 木島はErebosで吉野とオーナーの奥平が交わしていた会話を漏れ聞いたと話した。初めて出会ったあの日のことである。決して盗み聞きしていたわけではなく、声をかけようと近づいた時に吉野の「年下は趣味じゃない」発言が耳に入ったのだそうだ。いきなり気勢を殺がれた形になったと木島は笑った。

 木島との付き合いを勧める奥平の言葉にも反応が鈍く、「これはダメかな」と諦めながら隣に座ったら、会話もアルコールも楽しく進んだ上に、一晩一緒に過ごすことになって良い気持ちで朝を迎えられた。それほど年下云々に拘っていないのかと思い直し、一度きりの付き合いで済ませる気はなかったが、連絡先を聞いても教えてくれず吉野の側にまったくその気が見られない。週明けすぐに同じ会社の社員として再会した時は運命を感じたものの、まるで何事もなかったかのように会社でのスタンスを逸脱しない様子が遣る瀬無かったと木島は言った。

「それでオクケンさんにリサーチしたんです。吉野さんは本当のところどうなのかって」


『みっちゃんは身も心も預けてしまえる頼りがいのあるタイプが良いのさ。今までずっと父親代わりしてきて、無自覚に疲れてんだよ。年下がまったくダメとかってわけじゃないはず。だいたいこの前失恋した相手は十近くも年下だったし、趣味じゃないも何もないっての』


 オクケンこと奥平が、吉野の脳裏で「あかんべぇ」をして見せる。

(あんの、おしゃべり。何言ってくれてんだ、まったく)

「だから、こんな情けない姿は絶対見せたくなかった」

 そう言うと木島は再び、腕で目を隠してしまった。その仕草が妙に子供っぽく見える。

 木島は無意識に自分の見せ方をよく知っている。情けないと本人が言うほどには他人の目には情けなく映らず、むしろ吉野の母性、もとい父性を刺激した。緩急のついた魅力が、ますます人をひきつけるタイプなのだ。

「別に俺は相手に完璧を求めてるわけじゃない。どこか抜けてる方が親しみって湧くだろう?」

 吉野は一般論として言ったつもりだった。しかしそれは別の意味にとられなくもない。事実、すぐに木島は反応し、半身を起こした。

「それは、少しは可能性があるってことですか?」

「あくまでも一般論だ、一般論」

 慌てて打ち消す吉野を、木島は嬉しげに見つめている。

 吉野はどうして木島が自分に興味を持つのかわからなかった。十人並みの容姿に十人並みの体躯、家庭を持っていないせいか若く見られるが、年相応に近眼に老眼が混じり始め、髪には白いものもチラホラしている。目を引く特徴などどこにも見当たらない。身体の相性だって特別良かったわけでもなく、それこそごく普通のセックスだった――心地良かったことは認めるが、それだとて終始リードをとっていた木島の『功績』によるものだ。

「こんなオヤジのどこがいいのやら」

 思ったことが呟きとして零れた。

「吉野さんは自分が思っているほどオヤジじゃないですよ。それに好きになるのに理由なんてない」

 木島は身体を起こした。

「今夜はかっこ悪いところを見せて恥ずかしかったけど、吉野さんが少しは俺を意識してくれていることがわかったことは収穫だったかな」

「木島?」

「さっきも、それから最初の夜も、吉野さんは拒まなかった。一度目は成り行きで流されたのだとしても、今夜はそうじゃない。違いますか?」

 情けなさはすっかり鳴りを潜め、いつもの木島に戻っている。吉野はため息をついた。

「暗示をかけるなよ」

「ここでキスすれば、すぐにかかってくれそうなんだけどな」

「ゲロ臭いキスは嫌だね」

 吉野のその答えに木島が笑い出した。その大らかな笑い声につられて、吉野も笑った。

 木島の言うとおり、彼を意識していたと吉野は自覚せざるを得ない。考えないようにしていたと思い当たる。それが恋愛に発展するかどうかはまだわからないし、今さら恋愛なんて面倒くさい…と言う気持ちもある。

 ただ笑みの止まない空間に身を委ねながら、吉野は心の底に熱く灯る、表現出来ない何かを確かに感じていて、それを無理に消そうとは考えなかった。



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