第六話「茅ヶ崎 鉄子の卑下」
時刻は午後八時過ぎ。
カラオケ店「モンブラン」にて鉄子は絶賛バイト中であり、つまりはいつも通り暇を持て余していた。完全会員制であるこの店の生計は、特定のリピーターにより成り立っている。立地条件の悪さも手伝ってか、新規の客は滅多に来ないのである。
その致命的なハンデを覆すのが、店の名前の由来でもあり看板メニューでもある「手作りモンブラン」だ。その評判と言えば、とあるリピーターから「カラオケ店を辞めてモンブラン専門店を開いたらどうか」との言葉を頂いた程である。
そうしてリピーターの殆どがモンブラン目的で来店するため、カラオケ自体ついで扱いとなっている節があったりなかったり、といったところだ。
ちなみにモンブランは普段、店長である達海が作っているわけだが、ごくごく稀に、彼に指導されて鉄子が作ることがある。それも一応バイトの一環なのだが、やはり稀であるだけに普段は受け付けしか任されていない。
とは言っても、受け付けの仕事も名ばかりである。毎日決まった時間に来るリピーターの方々に対して受付をするだけの割の良いバイトなのだ。
「達海さーん」
鉄子は受け付けの椅子に背中を預けるように座りながら、古臭い箒を持ってフロアの掃除をする達海を間延びした声で呼び掛けた。
達海は「んー?」と返事をする。
「ねー、アイツ辞めさせてよー」
「ん? ああ、楓のことか。なんだよ、もう喧嘩したのか?」
達海のあっけらかんとした返答に、鉄子は「すっとぼけやがって」と内心で悪態を付いた。恩人であると言えども、あんな醜態を晒させられたのだから、そのくらいの仕打ちは許されるというものだろう。
というのも、先日の保健室での一件、どころか萩原 楓という人物との邂逅から始まり、更衣室での出来事、そうして鉄子が過去を暴露するに至るまで、彼女はそれら全てが明石 達海という人間の策略であったような気がしてならないのだ。達海が一体どこまで考えていたのかは分からないが、彼があの状況を仕向けたのは殆ど確定と思っていいだろう。そもそもバイトを雇うという話になった時、達海はきちんと公言していた。鉄子の男嫌いを直す、と。
達海は箒の先に顎を乗せながら、「言っとくけど、辞めさせるつもりはないからな」と鉄子の提案をばっさりと切って捨てた。
「えー、もうやだー。達海さんが意地悪する」
「お前のことを思ってだっつの」
「へーへー。ありがとーございまーす」
「ほんと可愛くねぇな、お前は」
「何言ってんの? 超可愛いじゃん、顔は」
「はいはい、顔だけな」
「どうせ私は顔だけの女だよ」
そんな風に戯れ合いながら、ぷく、と頬を膨らませる鉄子。彼女がそう言った無邪気な表情を見せるのは、その周囲では叔父の達海だけである。
その性質の唯一の対象外である達海に対してだけは、鉄子は世の男女の関係よりも密接な態度で彼に接している。それは明石 達海という人間が自分を救ってくれた恩人であるということもあるし、それに何より、達海が異性に対して関心を持たないというところが大きかった。だから鉄子は自身の男性に対する恐怖を度外視して、安心して達海の隣に居られるのである。
「男嫌いのくせに、達海さんにだけはそんな顔するんだね。鉄子」
ふと背後で発せられた甘ったるい声に鉄子が振り向けば、拒絶する暇もなく何者かに抱き着かれる。鉄子は「ぎゃあ!」と可愛げのない悲鳴を上げれば、その人物は心底楽しそうな声で笑った。
「いいなぁ。俺にもそういう顔してほしい」
「お前っ、何してんだクソが!」
「まったく、相変わらず口が悪いんだから。ま、それでも俺はこっちの鉄子の方が好きなんだけどね」
萩原 楓はそう言って、鉄子の首に回した腕をぎゅっと締める。鉄子はぶわりと全身に鳥肌が立っていくのを感じれば、躊躇することなく「おらぁ!」と楓の鳩尾に渾身の一発を叩き込んだ。腰の入った良い拳だった。
予想外の力でもって殴られた楓は、よろめいながら後退する。痛みに顔を歪めながらも、その無駄に整った顔で鉄子に微笑み掛ければ、呆れたように言った。
「ちょっと、女の子がそんな声を上げながら本気パンチって、どうなの?」
「そんなん知るか。馴れ馴れしいんだよ」
「つれないなぁ。保健室では泣きながら、あんな声を出してくれたのに」
「語弊がある言い方すんな。いいか? あの時は確かに色々話しちゃったけど、依然としてお前は私の敵だからな。心を許したとか、そんな風に思ってるなら死んだ方がいいから」
「当たり前だよ。このくらいで籠絡されるような女の子なら、最初から興味なんて持ってないからね」
「あっそ。死ね」
「鉄子のためならそ悪くないかもね」
「ほんと気持ち悪いな、お前」
声だけを聞けば、辛辣ではあるもののそれなりに仲の良さそうなやり取りに聞こえる。しかし鉄子の瞳は、保健室で自身の過去を語っていた時のそれと同じ色をしていた。
それは死んだような真っ黒な瞳。
何も映さない、哀しい瞳だった。
(籠絡? ありえないだろ)
鉄子は達海の厚意に応えたいと切に思いながらも、しかし、自身が異性への警戒を解けるようになるというその可能性を躊躇うことなく切り捨てた。
笑わせんな、と。
(これはお安い恋愛ドラマじゃねぇんだよ。私が男嫌いを、ひいては男性恐怖症を克服して、普通の女の子に戻って恋に落ちるとか、そういう吐き気のするような感動ストーリーは要らないんだ。そんな自分を、きっと私は許容できないから)
茅ヶ崎 鉄子は期待をしない。そうして幸せを願うことは、とっくの昔にやめている。
何度も何度も期待して、その度に裏切られて。手を伸ばした分だけ余計に遠くに感じて。誰も助けてはくれないから、だからそんなことは無駄なのだと、そう思い込んで、仕方ないと受け入れて。
そうして、いつの間にか壊れてしまった。
「ほら、楓。102号室にこれ届けてこい」
「ああ、はい。分かりました」
調理の終えた達海は厨房から戻ってくると、モンブランと紅茶の乗ったトレーを楓に渡した。楓は早くも仕事に慣れてきたようで、しっかりとした足取りでそれを運んで行った。
「……」
鉄子は今までの会話を聞かれていたのだと理解すれば、羞恥に顔を覆いたくなる。
けれど、それ以上に胸が苦しくなった。きゅうきゅうと締め付けられた心臓が弱々しく悲鳴を上げる。
情けない。恥ずかしい。
達海がここまでしてくれているのに、自分は意地を張ってばかりだと、申し訳ない気持ちで押し潰されそうになる。
自分が嫌いだ。こんな自分が嫌いだ。
そう思えばこそ、こんな自分を好きになる人間なんていないと鉄子は己への卑下を禁じ得ない。心は淡々と冷え切っていった。
(こんな自分が、報われる筈もない)
「そんなことないぞ」
ふと、達海が言った。
「……読心術?」
「お前は単純だからな。そんくらいのことは分かる」
「……そっか」
「おう。だから、大丈夫だ。男に慣れるのもゆっくりでいい。それでさ、いつか自分を好きになれよ」
「出来ないよ、そんなの」
「出来るだろ。お前らはまだ高校生なんだから、時間だっていっぱいある」
「……なんでアイツも含んでんの」
「目ざといな。楓もお前に似てんだよ」
「ふーん。ま、興味ないけど」
鉄子は泣きそうになりながらも無理矢理に微笑んだ。強がりではなく、卑下を排して、心からそうしたいと思ったからだ。
達海はいつも自分の欲しい言葉をくれる。いつも、ちゃんと向き合ってくれる。
それに心から感謝すれば、鉄子は心に温かいものが沁み渡って行くのを感じた。
「達海さん」
「ん?」
「ありがと」
唐突に発された感謝の台詞に、達海は快活な笑顔で応えた。