第五話「茅ヶ崎 鉄子の過去」
昼休みも終わりに近付き、五時限目が始まろうという時分、鉄子と楓は保健室の前まで足を運んでいた。
あの後、鉄子の吐いた「それ」は鉄子自身と目の前にいた楓、両者の制服を豪快に汚した。楓もさすがにこの事態は予想していなかったらしく、驚きに目を見開けば、しばらく狼狽した後に裏庭の水道へと鉄子を連れて行ったのだった。しまいには鉄子が泣き出すものだから、今まで余裕を絶やさなかった楓も宥めたり制服を軽く洗い流したりと忙しなく働いた。学年一の美少女を吐かせたとなれば、学年一の美少年も罪悪感からは逃れられないらしい。
そうして大雑把にだが制服を洗い終えた楓は、また繰り返されては堪らないと、鉄子の制服の袖を掴んで保健室へと誘導したのだった。
「千鶴先生、いる?」
親しみのある呼び方で保険医の小嶺 千鶴を呼ぶ楓に続き、借りてきた猫のように大人しくなった鉄子も保健室へと入る。どうやら小嶺は出払っているらしく、楓の呼び掛けに返答はなかった。
楓はソファーを指差し言った。
「ほら、鉄子ちゃん。とりあえず座って」
「……」
鉄子は黙りを決め込んだまま返事はせず、けれども促されるままにソファーへと腰を下ろす。そんな素直な鉄子に、楓はどこか愛らしさを感じて見つめていれば、鉄子はふと顔を上げ、先程のように恨みがましい目付きで楓を睨んだ。
「……死ね」
「あー、いや、ごめん。本当に。ここまでするつもりじゃなかったんだ。ちょっと調子乗った」
「……」
「あ、保健室の備品にココアがあるんだけど、鉄子ちゃんも飲む?」
楓はあからさまに話題を逸らした。
授業をサボる時、楓は大抵保健室を利用しているのだが、そうした場合に養護教諭である小嶺がココアを振る舞うのが習慣となっていた。それを一応の教師であるところの小嶺が許すのは、彼女が少なからず楓に好意を抱いているからに違いない。
ふと、鉄子が「名前」と呟いた。
「?」
「鉄子ちゃんってやつ、本当にやめて」
「ああ、うん。わかった」
その言葉の意図を汲み取ることは出来なかったが、のっぴきならない事情があるのだろうと察せば、楓は素直に「どう呼ぼうか」と逡巡する。しかし、そう悩む問題でもなかった。
「じゃあ、鉄子。ココア飲む?」
「……なんで下の名前なんだよ」
「だって、今更でしょう。
もう苗字で呼ぶつもりはないよ?」
「いいよじゃあ好きにしろよ。
あとココア飲むから」
「ん、了解」
楓は「昨日よりかは打ち解けてるなぁ」と呑気なことを思いながら、戸棚からマグカップを取り出しココアを注いだ。ちなみにポットは小嶺の私物である。
楓が二人分のマグカップを机に置けば、鉄子はそれにおずおずと手を付けた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「おい黙ってんじゃねぇぞ」
「いやぁ、さすがに悪いと思ってて」
「ちゃんと謝罪しろ」
「ごめんなさい」
「ふん」
鉄子はこれ以上ない醜態を晒してしまったことに対して、それなりの屈辱と恥辱を味わっていたが、しかし、その反面どこかスッキリした気持ちでいた。
そんな自分を認めたくないと頭を振るも、記憶を書き換えることは叶わない。妥協に妥協を重ね、鉄子は渋々ながら現状を受け入れた。
(ああ、くそ。自尊心が瓦解しそうだ。これが世に言うアイデンティティークライシスというやつか。恐るべし)
鉄子がそんな思考に頭を抱え考えあぐねていると、楓はココアに口を付けて一息付いた後、鉄子の方を向かないままに口を開いた。
「才色兼備の優等生」
「?」
「に見せかけた猫被り」
「は?」
「に見せかけた男嫌い」
「だから、なんだよ」
「に見せかけた男性恐怖症」
「……っ」
鉄子のその過敏すぎる反応が、楓の推測を裏付けてしまったと言っても過言ではなかった。
鉄子は視線を足元へと落とし、マグカップを両手で強く握った。その手は微かに震えている。
そもそもの話。鉄子の異常なまでの男性嫌いは、元を辿れば異性に対する恐怖から来るものだった。それは彼女の育ってきた境遇によって植え付けられてきたもので、彼女自身そのことは思い出したくもない過去として海馬の奥深くに追いやっている。
(ああ、ほんと、厄日だ)
ここまで自身の心を覗かれてしまったなら、もういっそ全て吐き出してしまおうかと半ば自棄になりつつ、それでも鉄子は一応の反駁した。
「恐怖症って言うのは、ちょっと大袈裟。ただ触れられたり、特定の仕草とか行動が、なんとなく苦手なだけ」
「それは十分、恐怖症の範囲内だと思うけどね」
「へぇ。それが分かってて、私にあんなことしてくるんだ? クソみたいな性格してんな」
「だから、ごめんってば」
「でも、まぁ、気付かないほうがおかしいか。流石に、あんなもん見せられたらね」
今度は楓が視線を落とす番だった。
マグカップを机に置くと、床の一点を見つめながら昨日の邂逅を反芻する。
(あんなもん、か)
楓は自分が握ってしまった彼女の秘密が、彼女にとってそういう認識であるということに若干の驚きを覚えれば、なら気を遣う必要もないのかもしれないと改めて思い直す。
「……正直、誰にも言うつもりはないんだ。脅すつもりもなかった。からかいすぎたよ。ごめん」
「じゃあ、もう関わらないで。私に触らないで。話し掛けないで。なんで構うのか知らないけど放っておいて。どっか行って」
「それは、無理かな」
鉄子の言葉をすぐさま否定した楓は、窓際へと寄ってグラウンドへと目をやった。幸い、体育の授業は行われていないらしく、ただっ広い空間があるのみだ。
鉄子は眉を寄せると、目をぱちくりさせながら訊いた。
「は? なんで」
「俺たちが出会った根本的な原因はなんだっけ?」
遠回しではあるものの、からかうようではないその言い方を不思議に思い回想すれば、鉄子は「ああ、そうだった」と肩を落とす。
カラオケ店のバイト同僚。
鉄子と楓の関係は、端的に言えばそういうものだ。まぁ、それ以前に同じ高校の同級生ではあるのだが。
「お前、バイトやめろよ」
「言うと思ったよ。でも、俺をバイトに誘ってくれたのって達海さんの方なんだよね。だから今更やめるとか言えないし、俺も鉄子がいるから辞めたくない」
「は? 達海さんと知り合いなの?」
「俺の父親が知り合いらしいよ。
なんか、よく分からないけど」
「あっそ。でも、ああ、やだなぁ」
情けないと思いつつも、やり場のない憤りに泣きそうになる鉄子。せめぎ合った感情は互いを食い潰して増幅していく。心の内で暴れて、ずるずると嫌な音を立てて這い出してくる。
ああ、何故。
何故、こんなにも自分の周囲は五月蝿いのだろう。
何故、そうも騒ぎ立てるのだろう。
私はただ普通に、静かに日常を過ごしていければ、それだけで何も要らないのに。
何も望まないのに。
願わないのに。
求めないのに。
強請らないのに。
欲しがらないのに。
手を、伸ばさないのに。
そんな疑問がぐるぐると回る。
ぐるぐるぐるぐる、と。
色んなものを巻き込んで攫っていく。
もう、嫌だ。
そう思えば、鉄子は自身の瞳から溢れ出る涙を止めることができなかった。先ほどの突発的なものとは違い、それは彼女がずっと溜め込んできた、抱え込んできた涙だった。
鉄子は自分を抱くように両手を肩へ回しながら息を震わせる。その瞳は深く、どこまでも黒く濁っていた。
こんな奴には死んでも言いたくないと思う心の裏側で、けれども言ってしまえばどれだけに楽になれるだろうと鉄子は逡巡する。
吐き出してしまえ、と。
そんな声が何処からか聞こえた気がした。
「私が」
弱々しく、けれども硬く冷たい響きを伴って、音は声として虚空へと躍り出た。
見えない何かに縋るように。
彼方へと手を伸ばすように。
「私が何をしたんだよ。悪いことしたか。酷いことしたか。こんな仕打ちを受けなきゃならないような、そんな人間なのかよ。アイツは言ってたよ。お前なんか産まれてこなきゃよかったって。怒鳴って殴って、メチャクチャされたよ。酔うと思いっきり殴られたし、容赦なく蹴られた。その内、働かなくなって、ずっと家にいるようになって、暴力ばっか振るうようになった。私がバイトで稼いだお金も全部アイツの酒代に消えた。毎日毎日、ぼろぼろになるまで殴られた。痛みで動けない私を、アイツは何度も蹴った。生理が遅れることもあった。煙草の火を押し付けながら死ねって言ってた。生活が苦しくなると私の身体も売った。男が何人も家に押しかけて来て、何度も何度も何度も、強引に抱かれた。知らない奴に乱暴に犯されたんだよ。痛かった。苦しかったし、辛かったし、怖かったし、逃げたかった。抵抗したらまた殴られた。生意気だって怒鳴られた。怖かった。写真も撮られた。ビデオも撮られた。ばら撒くぞって脅されて、色んなことをさせられた。そのうち泣くのも辛くなって、だけど何も言わないと殴られたから、私は情けなく媚びて喘いだ。怖かったから。舌を噛んでやろうと何度も思った。自殺してやろうと思った。アイツを殺してやろうとも思った。なのに足が竦んで動けなかった。しかたないよね、怖かったんだもん。だから何度も叫んだのに。声が枯れるまで叫んだのに。なのに誰も助けてくれなかった。笑ってた。楽しそうに嗤ってた。げらげら笑って、私を見下ろしてた。やめて下さいって懇願しても、それでも笑ってたよ。気持ち悪くて何度も吐いた。吐くものなんて何もないのに。自分の身体が気持ち悪くて仕方なかった。汚れてるから何度も洗った。穢れてるから。いますぐ身体を引き裂いてやりたいと思うくらい、私は私が汚らわしくてしかたなかった。だから、お前が私の身体のことを綺麗だって言った時、本気で殺したくなったよ。お前が悪いんじゃないって分かってるけどさ。それでも、やっぱり男ってだけで嫌いだ。殺したいくらい、嫌いだ。死ねばいい。心の底から死ねばいいと思う。与えうる全ての苦痛を強いて、私が全員殺したいって、そう思う。ほんと、死んでよ。死ねよ、みんな、死ね」
茅ヶ崎 鉄子を苛むそれは、まるで呪いのように彼女を蝕んでいた。少しずつ爪を立てていくような、そんな痛みを伴って彼女を犯すのだ。遠い記憶の崖の淵で、際限なく。
「鉄子」
楓はそうして名前を呼ぶも、今の彼女は触れるだけで壊れてしまいそうだと思えば、伸ばした手をそっと下ろした。
出来ることなら、彼女の不安や痛みを取り除いてあげたいと殊勝にも思う。なんなら代わりに請け負ってもいいと、そう思えるくらいに憐れんでいた。
けれど、そんな憐憫さえ彼女にとっては煩わしいだけなのだろうと楓は思った。自分は男なのだ。それも出会って二日。昨日までは他人で、今は明確な敵であるとまで言い切られてしまった。それなのに、随分と彼女に感情移入をしている。
なんだか無性にやるせない気分になった。
「死ねよ。死ね、男なんて。みんな死んじゃえ」
子供のように泣きじゃくる鉄子と、何も出来ずに立ち尽くす楓。二人は、まだ何も分かち合っていない。
空間を共有してしながら。
時間を共有していながら。
秘密を共有していながら。
何一つ解り合ってなどいない。
ただ、それでも。
「鉄子、泣かないで?」
「うるさい、お前もどっか行け……っ」
歩み寄る楓と、突き放す鉄子。
二人は今初めて、自身の中にお互いの存在を強く感じていた。とは言え、一方は明確な敵として認識しているわけだが。
鉄子は男が嫌いだ。
彼女の中に植え付けられた途方も無い恐怖は、死にたくなるような絶望は、凶器そのものであると言っても過言ではない濃密な憎悪は、そう簡単には消えてくれない。何処にいても誰といても、そのトラウマはきっと着いて回るだろう。
だから。
どんなに格好良い男に言い寄られたって。どんなに優しい男に甘やかされたって。どんなに自分を大事にしてくれる男に出逢ったって。
茅ヶ崎 鉄子は、振り向かない。