第三話「茅ヶ崎 鉄子の敵対心」
ともすれば被害者と加害者が反転しそうな事件ではあったが、しかし達海の登場により一応の解決を見せた。
従業員室の椅子に並んで座る男女二人の前で、達海は申し訳なさそうに何度も頭を下げる。
「いや、俺が悪かったわ。着替えて来いって言われたら、そりゃ更衣室に入るもんな。鉄子も楓も、本当にごめんな」
達海があまりにも申し訳なさそうに謝るものだから、鉄子はなんだか気抜けがしてしまう。まさか怒鳴りつけるわけにもいかず、椅子に座ったままジャージの裾を強く握った。
胸中に渦巻くこの怒りは、一体どこへ向ければいいのだろう。そう思えば、ついさっき起きたばかりの出来事が頭をよぎり、鉄子は羞恥に顔を覆いたくなった。
(ああ、くそ、最悪だ)
不可抗力ではあるものの、裸を見られたことに変わりはないのだ。
男性嫌いの鉄子と言えど花も恥じらう高校生であるから、同年代の異性に裸体を晒すことは大事件であった。
鉄子はちら、と横目で男を見やる。
楓と呼ばれた男はどうやら達海の言っていたバイトの起用者だったようで、よくよく見てみればとても整った顔立ちをしていた。
まるで絵本から飛び出してきた王子様のようだと、鉄子にしては柄にもなくメルヘンなことを考えてしまう。
歳は鉄子とそう変わらないだろうといった風情で、自身の身長とその差を比べれば頭二つ分はないにしろ男としては少し高い部類に入るだろう。目測だが百八十弱といったところだ。
デカいなと思い見ていれば、次はその頭髪に目が行く。引き込まれそうなほどに真っ黒な髪は少し長めに切り揃えてあり、彼が動くたびにさらさらと靡いた。見ているだけで清潔なイメージを持たせるのは何故だろうかと疑問に思えば、その答えが否応なく目に飛び込んでくる。
(本当に、綺麗な顔してるなぁ……)
第一印象において最重要項目とされる顔面が、やはり恐ろしく整っていた。
鉄子は今まで出会ってきた人間にイケメンというキーワードで検索を掛けてみるも、彼ほどの美形はいないという結果に落ち着く。目の前の彼の世間的な格好良さはそういったレベルなのだと、遅ればせながら理解した。
そうして、鉄子は嘆息を漏らす。
別に見惚れているわけでもなければ、恋に落ちたというわけでもない。
大変だろう、と心底同情したのだ。
茅ヶ崎 鉄子は平穏をこよなく愛する人間である。と同時に、自身の静かな日常を引っ掻き回したり騒ぎ立てる輩を好まない。どころか憎んですらいる。それが男であるのなら、その男嫌いの性質と相まって倍倍で憎悪するほどだ。
だから目の前の美男子でさえ、鉄子にとっては敵でしかない。
しかし、彼女はまだ会って間もない目の前の男のことを、自身の境遇と重ねて心の底から可哀想だと思ってしまっていた。それはつまり、自身への憐憫でもあったわけだが。
(まぁ、この人がそれを望んでるんだったら話は変わってくるんだけどね。ていうか、男なら入れ食い状態で万々歳か)
やっぱり男は汚らわしい、と偏見を交えながらも自身の男嫌いを再確認すれば、鉄子は再び達海へと視線を戻す。
達海は食ってかからない鉄子に安心したのか、訝るような目を向けながらも、ひとつ溜息を吐いてから一息に言った。
「とりあえず今日のことは俺の過失による事故だから、鉄子は楓のことを恨まないこと。楓は極力忘れる努力をすること。はい、もう今日は解散」
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雨の匂いがする。
濡れた土の匂いだ。土煙の咽せるような厚い匂い。
あの後、モンブランを出た鉄子は自宅のマンションへと帰るために近道である路地裏を歩いていた。
新しいバイトの男、楓をその後方に確認しながら。
いやいやまさかと思いつつも、鉄子の思考はぐるぐると回る。現時点でそうであると断定するのは焦燥だと自身の危惧を取り払おうとするも、やはりその懸念もしておかなくてはならないのだと、内心がもみくちゃにせめぎ合っていた。
(もしかしなくても、尾けられてる?)
否、「尾けられている」という表現はあまり正しくはないのかもしれない。何故なら、楓は身を隠すことなく、堂々と鉄子の後ろについて歩いて来ているからだ。
それは彼なりの身の潔白の証明だとも取れるし、身を隠す必要もないほどに強硬な手段に出られるんだぜゲヘヘという牽制であるようにも思えた。
冷え切った思考は、しかし背後からの言葉によって掻き乱される。
「茅ヶ崎さんって、学校外だとあんな感じなんだね」
ふと、楓が揶揄うように言った。
鉄子はその言葉の意味するところを寸分違わずに受け取ると、濡れるのも構わずに楓を壁へと押しやり、拘束するように縫い付け逃げ道を塞いだ。
二人の傘が地面に落ち、絶え間ない雨が髪を濡らしていく。鉄子は射るような眼光で真正面から楓を睨んだ。
楓の言葉を裏付けるように、鉄子は普段被っている猫を脱ぎ捨てると、底冷えのするような低い声で言った。
「同じ高校だったんだ。まったく気付かなかった。まぁ、お前私服だったし当然か」
「当然ってことはないんじゃないかなぁ。俺って、学校でも結構目立つ方だと思うんだけど」
楓の茶化すような態度に、鉄子は「見りゃあ分かる」と一層の憤りを募らせる。耐え切れず、一切合切の遠慮を放棄して言う。
「今日見たこと全部忘れろ。じゃなきゃ、学校でのお前の居場所を失くしてやる」
「へぇ、できるの?」
そう言って、楓は挑発するように意地の悪い笑みを浮かべる。それが無性に腹立たしくて鉄子は憤慨しそうになったが、努めて冷静に言葉を紡いだ。
「私は顔だけはいいからね。お前に襲われたとか狂言すれば、あとは勝手に外野が盛り上げてくれる」
「それはこっちも一緒だよ。振られた腹いせに変な噂を流されてるって言えば、周りはみんな俺の味方をしてくれるだろうね。言っておくけど、女の方が怖いよ?」
予想外の返しというわけではなかったが、その言葉に鉄子の指先はぴくりと反応した。
男よりも、女の方が怖い。
それは鉄子も知るところだった。
中学時代、とある男子からの猛烈なアプローチが始まると同時に、クラスの女子が鉄子を孤立させようと働きかけた事件があった。
その男子は俗に言うイケメンの部類で、女子からの評価も高かったらしい。クラスのボスギャル的ポジションの女子がその男子を好きで鉄子に嫉妬していたというオチだ。
それはそれで静かに暮らすことが出来たし悪い気はしなかったが、しかし大多数の中で孤立してしまうというのはやはりどこか哀しく、また寂しいものであった。
鉄子はそうした嫉妬絡みの事件が少なくなかったから、楓の言葉は無視出来なかった。
「なんだよ。いい性格してるじゃん」
鉄子は冷たい視線を楓へと注ぎながら、彼がただ顔が良いだけの男ではないことを理解する。
人間関係の不和に辟易している鉄子としては、わざわざ波風を立てることはあまり芳しくなかったから、ここで楓を押し切ることは躊躇われた。
「茅ヶ崎さんも結構印象が変わるね。ああでも、俺はこっちの方が好きかなぁ」
軽い口説き文句のようなその楓の台詞に、鉄子は顔を赤らめたりはしない。
むしろ、そうして胸中に熱いものがふつふつと湧き上がれば、鉄子は自身の心がどこまでも冷めていくのを感じた。
(なんだコイツ。一発殴ってやろうか)
軽蔑と侮蔑の入り混じった表情で見下ろす鉄子に、楓は強かな微笑を浮かべる。
その余裕な態度から、こうした女性関係のトラブルに慣れているのだろうなと鉄子は思った。
楓が再び口を開く。
「ねぇ。茅ヶ崎さんはさ、俺に脅されて酷いことされるとか思ってるでしょ?」
「違うわけ?」
「うん、微妙に違うかなぁ。前から少し興味があったし、それに今日の茅ヶ崎さんを見て尚更興味が湧いた。裸も見ちゃったしね」
「こんな貧相な身体がなんだって言うんだよ。胸が秀でて大きいわけでも、別段スタイルが良いわけでもないし、それに肌だって別に綺麗じゃない。性格だって最悪だ。それこそ私の価値なんて顔にしかないよ。それとも、なに、やっぱり男って顔が良ければ誰でもいいの?」
「まぁ、別に身体が欲しいわけじゃないんだけどさ。ていうか、別にそういうのは困らないしね。でも、その口振りからすると茅ヶ崎さんって、もしかして処女なの?」
「処女じゃねーよっ」
「ほら、照れてるとこも可愛い。随分と自分を過小評価してるっぽいけど、俺には容姿以外も魅力的に映るよ。それに、身体だって白くて綺麗だったのに」
そこまで言い合ったところで、鉄子の怒りは頂点へと達した。壁に寄り掛かるような姿勢になっている楓の胸倉を掴み、嫌悪感を露わにしながら、地を這うような低い声で罵声を浴びせる。
「キモイんだよ、ストーカーか。今、自分が通報されても仕方のないこと口にしてるってこと、ちゃんと自覚してんのか。これ以上私に構うつもりなら本気で殺すぞ」
「……っ」
美少女の口から飛び出した、ともすれば規制の掛かりそうな単語に、さすがの楓も呆気に取られたのか言葉を失くしたようだった。
殺す。
自身の発した言葉に、しかし鉄子は言い過ぎだとは思わなかった。
それこそがつまり、彼女の男嫌いの底の深さを物語っている。彼女はそれほどまでに男という生き物が嫌いだし、自分の日常を引っ掻き回す人間を野放しにはしておかない。
「もう一度言うね。殺すぞ」
というのは、しかし本心ではありながら脅しの意図を含んだ嘘であった。殺したいと本気で思うし、実際殺せるだけの気概があったけれど、今はそうではない。それが出来てしまえるほどに憤慨しているのだという、楓への忠告、もとい牽制のようなものだった。
一方、楓の方は未だ茫然自失といった感じで固まるばかりである。その反応には鉄子も思うところがあった。
(そりゃあ、まぁ、こんだけ整った顔立ちしてれば、女から酷いことを言われたこともないんだろうなぁ)
いい気味だ、と内心で高笑う。
しかし鉄子のその余裕も、すぐに消え失せることになった。
依然として壁に縫い付けられたままだった楓は、ふと息を吐いたかと思えば、次には心底楽しそうに笑い出したのだ。
「ふは、っははは」
ざあざあと降りしきる雨の中であっても、しっかりと耳に届く楓の笑い声に鉄子は狂気染みたものを感じれば、すぐさま距離を取り怪訝そうな顔をした。
「うわ、なに、キモいんだけど」
「はぁ、いや、それは酷いでしょ。茅ヶ崎 鉄子さん。面白いね、やっぱり。俺と付き合う気とかない?」
「キモイしウザいから嫌」
「じゃあ友達は?」
「キモイしウザいから嫌」
「友達になってくれたら今日見たことと聞いたことは全部忘れてあげるって言ったら?」
「お前なんかと親しくなるくらいなら、バレた方がよっぽどマシだ」
拒否し続ける鉄子に、さすがの楓も不毛なやり取りであると気付いたのか、近くに落ちていた鉄子の傘を拾い上げ、「はい」と手渡した。鉄子は訝りながらも無言でそれを受け取り、再び自身の頭上に向けて差す。楓も同じようにして傘を差し直した。
濡れた髪に触れながら、楓は調子を戻して言った。
「俺、茅ヶ崎さんに興味が湧いちゃったんだけど、どうすればいいかな?」
「は? 知るかよ、そんなの」
「そっか。まぁ、いいや。今日のことは黙っといてあげる」
その代わり、と楓は続けた。
「明日からは仲良くしてね、鉄子ちゃん」