我も忘れて舞い踊り
人の分け入らない悪路で何度も転びそうになりながらも、愛らしい女性二人にエスコートされて、無事に透陽が案内された先には、一本の大木があった。
それだけではない。大樹の腕に抱かれるように、一人の少女が舞っていた。
細くしなやかな腕は宙をかき、リズミカルにステップを踏めば、樹木のように茶色い髪とひらひらしたドレスが、楽しそうに跳ねた。先の割れた裾は跳ね上がると共に翻り、その光景は白い花が暗い森に咲いたようだ。
足元は太い樹木の根が伸びてかなり不安定なはずなのだが、舞手は白いサンダル履きの足で、まるで平らな舞台上にいるかのように悠々とした躍動をみせる。
透陽はその姿を見ているうちに、不思議と体が軽くなってくるような気分を覚えた。
ここは彼女の独壇場だ。いつの間にか観客が増えていることにすら気づかず、気持ちよさそうに身体を動かす森の美女。
自分の世界に浸る彼女に向かって、ムスカリアがある種無遠慮な程に大きな声で呼びかける。
「おーい、舞ちゃーん!」
突然湧いてきた声に、踊り手の少女は驚きつんのめって、地面に派手に転倒した。
大失敗だと言わんばかりに顔をしかめる。だが、笑顔で大手を振るムスカリアの存在を認めた途端、舞はくるりと顔を綻ばせた。
弾けるばかりの爽やかな笑顔。
しかし、次いで隣に居た透陽にその水色の目を向けると、今度は驚きの色に転じる。
間髪入れずに顔を紅潮させると、舞はそそくさと大木の裏に回り込んで、すっかり隠れてしまった。
ムスカリアが慌てて駆け寄り、木陰を覗きこむ。
透陽の居る位置からはよく見えないし、聞こえない。だが、何やら会話をしているのは確かだ。
手持無沙汰な透陽の目は、静かに立つ巨木の地際に惹きつけられた。
枝葉の積もる風景には異質なまでにこんもりとした。巨大な茶色の塊がそこにあったのだ。
直径二十センチほどはあるそれは、褐色の花弁が折り重なるような姿をしていた。その形状は、実に舞のスカートそっくりであり、彼女の正体だとは容易に理解できた。
舞、マイ、マイタケ。透陽の脳内で名前が浮かんでくると同時に、美味しそうな天ぷらの絵が描かれる。
朝から何も入っていない胃が、存在を忘れられないためかのように、切なげな音を立てた。
「お腹空いた……」
「確かに舞に毒はないけど、生はおすすめしないわよ」
「食べないよ。大体、本人の目の前で食べづらいし……」
口をとんがらせて透陽は言った。
だが、プレムナは片眉を持ち上げて、優しい口調で話す。
「あら、食べられること自体は大抵どの子も喜ぶわよ。ただ、それで死んだりするからみんな悲しむだけなの。……まあ、私はハエにも好かれないニオイなものだから、人間が口にするような真似しないけどね」
食べられて嬉しい、何だかよく理解できない感覚だ。
そんな種族の違いを噛みしめていた所に、木の陰からムスカリアに手を引かれて、舞が姿を見せた。
相変わらず顔を紅潮させていて、唇も震わせている。
それでも、鈴の音のような可憐な声が、彼女の口から響き渡った。
「あ、あの。わたし、水楢舞です。せっかく見に来てくれたのに、みっともないことお見せして、ごめんなさい!」
大きくかぶりを振って、垂直近くまで頭を下げた。
慌てたのは透陽だ。謝罪されるような目には何もあっていないのだから。
「いや、別にそんな……むしろ、踊りが上手いなあって思ったよ」
「ほ、ほんと! やったわ、褒められた! ありがとう、えーっと……」
「透陽です。奥羽透陽」
「透陽さん! ありがと!」
そう言って舞は、跳ねるような足取りで透陽に一気に詰め寄ると、頬に親愛のキスを落とす。
ぼっと燃えるように青年の顔が朱に染まった。頭に靄がかかったようになって、何も考えられない。ただ、いい香りがするなあと漠然とした感想を抱くのみだった。
そんな反応を見て、ムスカリアとプレムナが笑いをかみ殺していたのは、すでに様式美でもある。
舞はと言えば、ギャラリーの様子には目もくれず、すっかり茹で上がったようになっている透陽の両手を取る。
それを上下に振って、爽やかな笑顔を浮かべていた。
「今度は失敗しないから、わたしの最高のダンス、見ててちょうだい!」
壊れた人形のように首を縦に動かす透陽。
青年の事は一旦放っておき、舞は軽やかな足取りで自分のステージに戻ると、一回転してポーズを決めた。
それは開幕の合図。何もない自然の風景は、一転彼女の舞台へと切り替わる。
舞は流れるような動きで、自然の躍動を見せる。柔らかい体を最大限に活用し、足の先から手の先までしならせている。筆舌に難い流麗の美。
そんな彼女が一歩二歩とステップを踏めば、華やかな衣装が煌めいた。
そして、明るく笑って見せる彼女の表情は、さながら森に咲いた大輪の花のようであった。
活き活きと舞う彼女の踊りを彩る音は至ってシンプルである。風のかき鳴らす木の葉のささやき、遠くで歌う鳥の声、そして、楽しげに打たれるムスカリアとプレムナの手拍子だけなのだから。
メロディーもハーモニーも無い自然音。しかし、水楢舞にとっては至上の音楽なのである。
それゆえに、極楽にいるかの心地で、自然の躍動の舞を披露できるのだ。
最初はただ見惚れていた透陽も、いつの間にか、微笑みを浮かべて手を叩いていた。
やはり舞のダンスは人の心を動かす力がある。芸術分野には全く興味も知識も理解も無い男であったが、自身の胸中に湧き起るこれ気持ちこそが「感動」だということは疑わなかった。
「プレムナちゃん、あたしたちも踊ろっ!」
見ている内に体がうずきだしたのだろう。ムスカリアがプレムナの手を取って、ステージに上がった。舞もそれを拒絶することはない。
ムスカリアの華やかな桃色のドレスは、木々の色目の中でとりわけ異彩を放つ。フリルが動きと共に揺れ、彼女らしい愛らしさを強調させた。
とは言えさすがに動きづらいのだろう、時々裾を踏んだり、転んだりしそうになっていた。それでも得意気な笑みを浮かべて、くるくると回っている。
一方プレムナもなかなかの舞手だ。シャープな動きで、リズミカルに身体を動かす。時折ムスカリアや舞の手を取り、社交ダンスの様相を呈しているように見えた。
透陽の手拍子を背景に、三人娘が仲良さげに踊っている姿を見ていると、自然と笑みが浮かぶ。
彼は空腹どころか、今の自分の状況すらも忘れて、目の前の公演に熱中していた。
「ほら、透陽さんも踊りましょ!」
舞がスマイルを向けて誘ってきた。長い指を伸ばして、手を指し伸べて来る。
だが、透陽という男、生来ダンスなどしたことがない――小学生の頃にフォークダンスをしたのは含まずに言えば。それゆえ、とても踊れやしないと首を振って、観客に徹しようとしていた。
だが、絶好調の気分にある水楢舞にとっては、そんな青年の意志などお構いなしだ。リズムに乗ったまま跳ねるように彼に寄ってきて、頑なに拒否する手を強引に掴むと、そのままステージに引っ張り上げた。
どうすればいいのかと立ち尽くし、焦る透陽。
だが慌てることは無い。舞が手づから、動きを指導する。
次々と言葉がかけられた。右足を出して、一拍おいて左足。右手を上げて、大きく降ろして。ほら、そこでターン!
「良い感じ! 透陽さん、頑張って!」
ぎこちない動き、顔も引きつっている。それでも生真面目な仮面の剥がれかけた透陽は、振り落されまいと必死で舞の掛け声についていった。
少し様になってきたところで、舞に手を取られる。そして、誘われるがままペアダンスの様相になった。
当然、素人の透陽は相手の高度な動きについてはいけない。それでも舞は透陽をエスコートして、楽しそうに踊り続けている。
こうなると、もはや踊っているのか引きずり回されているのかわからない。それでも、透陽の心の中は「楽しい」という感情で占められていた。
――何も考えずに体を動かすのって、こんなに楽しいんだな!
そう思う透陽は、いつしか笑顔を見せていた。
ああ、こんなに楽しいとは。音楽も無いし、そもそも今までやったこともないダンスという分野なのに。
透陽に襲ってきたものは、日常のほぼ全てを自分の部屋で椅子に座って過ごして来た人生の中、一度だって味わったことのない解放感であった。
ダンサーとなった奥羽透陽は、湧き起る感動の全てを、己が身に沁み込ませていた。
すっかり汗だくになった透陽は、ふらふらと舞台から離れると、大の字に手足を開いて地面に倒れた。
仰向けの顔は達成感に満ち溢れて、軽快な笑顔だった。
「お疲れー」
三名の女子たちが、揃いも揃ってにこやかに透陽に歩み寄ってくる。
心地よい疲労感のなか、むくりと顔だけを起こせば、彼女たちの晴れやかな表情も目に映った。
「どうどう? 舞ちゃんと踊ってると楽しかったでしょ?」
「ああ、そうだよ。人生で一番楽しかったかもしれない」
「ほんと!? わたし嬉しい! ありがとう!」
再び舞姫の熱いキス。今度は額に振ってきた。照れる透陽を、しゃがみこんだプレムナが焚き付ける。
「ほら、今度は透陽君からもやってあげなよ」
「い!?」
その言葉を耳にすると、舞はすでに目を閉じており、右の頬を透陽の顔に向けていた。
逡巡もあったが、ここまで来たら勢いだけだと、彼は高鳴る鼓動を感じながら、目を閉じて舞の頬に口づけた。
芳香が鼻をつき、稀代の舞姫の柔らかい肌が、唇に一瞬触れた。
その直後思い切りのけ反って、赤い顔を隠すようにそっぽを向く。ぼおっとする意識の中で、女子たちが笑っている声が聞こえた。
「子どもみたい、トーヒ君」
「う、うるさいな……」
悪態をついたが、すぐに笑いがこみあげて来る。何がおかしいのか自身でもわからないが、とにかく心から溢れた感情を吐き出していた。
それを共有するかのように、顔を合わせた皆で笑っていた。
「みんな、ありがとうな」
不意に口を出た感謝の言葉。それは、共に過ごした友人たちへの、素直な気持ちだった。皆、こんなに楽しい時間をありがとう、と。
「俺、ずっとこうしていたいよ」
つい本音を漏らす透陽。
今までの十九年間よりも、この森で彼女たちと過ごす数時間の方が、ずっと色彩豊かで、楽しくて、己のためになっている気がするのだ。
このままずっと彼女たちと共に。人間の世界に帰ることには、もはや抵抗感ばかりであった。
透陽が家に帰った時、そこに待っている物は、国立医学部入学を目指す無の一年間しかない。
お前は俺の後を継ぐために生まれた、そう父親に縛られてきた過去。そして、それが全てであった奥羽透陽の現実は、消えて無くなったわけではないのだから。
では、透陽は再び過去の己のように勉学に打ち込めるだろうか。彼自身でも薄々感じている。答えは「ノー」だ。
そもそも、今朝方両親と喧嘩をした段階で、医者を志す彼の心は粉砕されており、それゆえ絶望してこの森に死にに来たのだから。
今更戻ったところで、以前のように黙々と学ぶことに集中できるわけがないと断言できる。
「このまま俺もキノコになって、君たちと毎日楽しく暮らせたらいいのに」
願望を駄々漏れにしながら、透陽は力なく笑った。
もしこれが夢や空想ならば、例えば煙と共に「オウウトウヒ」という名の新種キノコが湧いてくるだろう。
だが、この世界が現実である以上、そんなミラクルは起こりやしない。透陽はよくわかっていた。だが、わかっていても、諦めきれないことはある。
気まずい空気が流れた。
もう、と、怒るように腕を組んで口を開いたのはムスカリアだった。
「何言ってるのよう、トーヒ君は人間でしょ? だったら、人間としての幸せを見つけなきゃ。キノコに生まれ変わりたいとか、それじゃトーヒ君死んじゃうじゃないの」
「人としての幸せ、か。それってなんだろうな」
その問いに、プレムナが大人の余裕を醸しながら静かに応える。
「人間のことはわからないわ。でも、私の場合は、ムスカリアみたいに誰かが私のことを好いてくれたら、幸せね」
「そうか……」
透陽は次いで、舞に目線をやった。待ってましたとばかりの輝く目と、かち合う。
「わたしは、やっぱり踊ってる時! その時のわたしが、一番わたしらしいなって思えるもの!」
舞は両手を開いてテンションも高く答えた。
間髪入れずに、ムスカリアが身を乗り出して口を開く。
「あたしはね、みんなが楽しそうだったら、あたしも幸せなの」
いつも通りにこやかな表情で、なおかつ自信満々な答えだった。
そして訪れる沈黙。三名は、残りの一人の答えを待っている。
「俺は……」
透陽は口をつぐむ。テストで満点を取った時でも、頭がいいと他の生徒に誉めそやされた時でも、担任教師に将来を期待された時でもない。こうしてキノコの娘たちと過ごせる今が一番幸せだ。
それが核心なのだが、そう答えれば堂々巡りしてしまう。
では、医者になることはどうなのか。全てを懸けて掲げて来た目標を達成したとき、待っているのは幸福ではないのか?
初心に帰った自問自答。しかし青年はイエスと答えることができなかった。
彼は悩み、惑う。果たして奥羽透陽と言う人間は、それが人生の答えであって、本当に幸せなのだろうか。満足な生き方をしたと言えるのだろうか。
粛々と己の過去を振り返り、そして順々に紐解いてきた彼の疑問は、ついに人生の根幹に触れた。
そして何より、すでにその答えを、透陽はぼんやりと掴みかけていたのである。
人生という難問に対する解答。しかし、いざ口に出そうとすれば、十九年の呪縛が重くのしかかってくるのだ。
最後の一歩を踏み出すには、未だに躊躇いが勝った。
不意にムスカリアが透陽の名を呼ぶ。
声に応じて彼女をみれば、相変わらず優しい顔を浮かべている様子である。しかし、その赤眼がいつになく恐ろしい光を湛えている気がした。まるで、透陽の心を見透かすように。
ムスカリアは静かに語る。その声音は今までの明るいだけの娘のものではない。深みと重み、外見に似合わない圧がかかっていた。
「そんなことじゃ駄目だよ。逃げてるだけじゃ、何も変わらない。生きてたら、楽しいことばかりじゃないんだよ。あたしたちだってそうだもん。逃げた方が楽でも、立ち向かわなきゃいけない時だって、あるんじゃないかな」
「俺が逃げてる? そんなこと……!」
見えないプレッシャーに押される透陽。窮鼠猫を噛む、形勢不利の男は、年端もいかない少女に激高しようとしていた。
だが彼女の内面からほとばしるオーラは、もはや一介の娘のそれではない。長い年月を重ね、あらゆる局面を乗り越え、様々な生き様を見据えて来た、そんな悟りを開いたようなものが放つそれである。
ムスカリアは全く動じない。不気味なほどの微笑みを湛えたまま、静かに言葉を重ねて、人間の男に忠言する。
「逃げてるよ。トーヒ君に何があったか知らないけど、人間の世界で嫌なことがあったから、帰りたくないっていってるんでしょ? でも、君は人間だもの、いつまでもあたしたちと居る事はできないよ。そろそろ、君の居るべき現実に帰らなきゃ」
「でも、俺は……!」
まだ帰れない。そう食って掛かろうとした矢先に、透陽はそれを見た。ムスカリアの座るずっと向こう、彼女の背景の木々の合間ずっと遠くに。
たった一瞬だけだった。刹那の間に森の奥へと消えた人影は、しかし彼の望むものであった。
「ヴィロサ!」
透陽は思わず叫んで、次の瞬間には無我夢中で走り出していた。重圧から逃げるように、希望に飛び込むように。
ムスカリアの言う事は間違っていない。透陽は、確かに逃げているだけなのだ。それは、自身も認めるところである。
だが、もう少しで答えがつかめるチャンスだ。彼女なら、自分に正解を教えてくれるはずだ。だから、ただ単に逃げている訳じゃない。
そう妄信し、彼は一心不乱に駆け、木立の中へ消えていった。
取り残された三人娘は、青年の後姿を見守るしかできなかった。確かに、彼の行く先には、彼女たちの仲間の白い胞子が漂っている。
プレムナがぽかんとしていた口から、苦み走った吐息を漏らす。
「困ったわね。菌糸も胞子も届いてないから、私じゃこれ以上彼についていくのは辛いわ」
「わたしも無理。あっちの方は、良い感じの木も無いから行ってもつまんないし」
キノコの精神たる彼女たちは、子実体を本体として、菌糸の伸びる範囲で活動する。一応そこから離れても短時間なら動けるが、消耗は激しい。
残念だがここでお別れだ。それが、三人の出した結論だった。
ムスカリアは静かに赤い光を湛える瞳で、彼の行く先を見据える。
こうなれば自分の出る幕ではない。後のことは、「彼女」に任せよう。ムスカリアは目を伏せた。
「頑張ってね、トーヒ君。また会いに来てくれることを祈ってるわ。今度は、もっと素敵な人間になってね」
ムスカリアは密やかにエールを送ると、ダンスの間おいていた愛用の日傘をその手にする。そのまま流れるような所作で、幻想的な紅白の花を、静かな森に開かせた。
そして、彼女は優雅に、透陽の向かう先とは逆方向へと歩き出したのだった。