軽い気持ちは火傷のもと
透陽は孤独に森林を歩く。
ふと木々の合間から空を仰いだ。どんよりとした鈍色の雲が流れている。そのうち雨が降ってもおかしくない。
「何やってるんだろう、俺」
待ち焦がれるあの娘が見つからないせいで、青年の頭はどんどん冷えて来た。
そんな彼がやっていることは山狩りに近い。だが、それに似つかわしい準備は当然ながら皆無だ。雨具など持っておらず、そもそも大した荷物すら無い。
持ち物と言えば、習慣的にポケットに突っ込まれた軽い財布と、放心状態で漕いで来た自転車の鍵ぐらいである。
服装だって、土に汚れたスニーカーと、くたびれたジーンズと、シンプルなシャツにジャケット。元来お洒落などには気を使わないし、特に今日など死ぬつもりだったのだからなおさらだ。
どこにでもいる人間といった風情の透陽は、人並みに疲れを感じ始めていた。
「今までこんなに外を歩いたことなかったな……」
己の有様を振り返って気づく。
さすがに気晴らしに近所の散歩くらいはするが、勉強漬けの人生を送ってきた彼は、アウトドアな活動はおろか、旅行にもほとんど行ったことが無かった。
おまけにそうした世界で眩しいほどの笑顔を見せている人たちを、羨ましいと感じたこともあまり無かった。理由は単純、興味が無い。
そこで再びヴィロサの辛辣な言葉を思い起こす。
薄い人生ね。
自分を否定してくるその言い草にある種の切なさを感じながら、立ち込める心の霧を振り払うかのように足を進めた。
行けども行けども木々が立ち並ぶのは変わらないが、今までと少し異なる光景が広がる。
この周辺にはビニール巻かれた樹木が散在していた。その近くには、ペットボトルのようなものが突き刺されていたり、木の幹がまるごとがんじがらめに被覆されているようなものも見受けられる。
透陽はボトル状の人工物が刺さっている一つの木に近寄った。
何だこれはと表面を観察する内に、根元の方に無数の小さな穴が空いているのに気づく。虫食いのようだ、と思った。
虫がどうして樹木がなんたら。なんだか聞いたことがあるような気がする。そう感じて記憶を掘り返した。
――わかった、ナラ枯れだ。
透陽は軽快に手を叩いた。
そういった病気で木が枯れる被害が山に広がっていると先日ニュース番組で取り上げられていた。あまり自分に関わりが無いことなので、詳しいことは全く覚えていないが。
「樹木医ってのがこういう処置するのかな。人間の医者と一緒だ」
物言わぬ患者に包帯や点滴が施されている光景。それを好奇心に満ちた顔で観察しながら歩く。
その行為は足元への注意を散漫にし、たった今通り過ぎようとしている木の裏にあった、いや、居たものに気が付かなかった。
「……うわっぷ!」
靴の先で重いものを小突いたことでようやくその存在に気づいた透陽は、慌てて三歩ほど後ずさった。
なんてことは無い。色も形も燃える火のような髪型をした女が、地面をベッドに眠っているだけだ。
その子は透陽に蹴飛ばされかけたものの、少し体をよじっただけで、相変わらず心地よさそうな寝息を立てている。
森で眠る少女。
そう言えばおとぎ話の姫君のような愛らしい印象を与えるが、目の前に居る彼女はそれには程遠い。
黒のレザーのジャケットとショートパンツを身に着け、むちむちとした腿をあらわにしている。膝丈のブーツも黒く光沢を放っていた。
インナーには真っ赤なタンクトップを身に着けていて、これもまたへそが見えるほどの短いものだ。
こんなに肌を露出させて地面に寝そべっていては、色々がちくちく刺さって痛そうなのだが。
彼女のそんな滑らかな肌には、炎の蛇がのたうっているようなタトゥーが彫られている。胸に畳んで乗っけてある金縁のサングラスも、妙に刺々しくて攻撃的な印象を覚えた。
弾けた出で立ちの女性を見るに、透陽は顔をしかめた。
規律を重んじ実直に生きてきた彼の身近には、このような格好をした人間はいなかった。いや、居たのかもしれないが、関わり合いの中で排除してきたのだ。
彼の辞書には、こういうロックだかパンクだかという装飾を好む者というのは、不真面目で不潔で反社会的な存在だと記されている。もちろん、父親の受け売りだ。
なんだかあまり関わりたくない人種だ、と彼は眉を顰めた。単にこういった出で立ちの人間が怖いという本音もある。
しかし、こんな森の中で、肌も露わに女一人で昼寝をするなんて。そんな酔狂な人間が居るとは思えなかった。
二度あることは三度あると言う。だから透陽は断定した。
――絶対キノコだ。
と言うことは、彼女の本体――この言い方で正しいのかはわかりかねていたが――もどこかにあるはずだ。それも、すぐ近くに。
少し視線を動かして探せば、穏やかな顔で眠っている彼女のすぐ脇に、その髪に似て真っ赤な棒状の何かが、何本も地面から飛び出しているのが目についた。
森の土色の大地では、鮮やかな赤色はよく目立つ。
「でもこれ……キノコ……なのか?」
その地面から生える異質なものを、しゃがみこんで観察し始めた。
燃える炎、あるいは地面から這い出る人の指や手のような形で、一般的に思い描くキノコの形ではない。傘が取れて柄だけが残っているという風体でもなさそうだ。
隣同士で何本か生えているものの、それらは多様な姿をしている。長い一本の棒状だったり、ずんぐりして分岐していたり、と。
しかし、おどろおどろしい外見だ。
地獄からはい出た何かのようなキノコを訝しげに眺めていた透陽だったが、やがて好奇心に負けてそっと手を伸ばす。
恐る恐る震える指で触れてみた。おや、意外と硬い。
一度壁を越えてしまえばどうということはない。大きな青年は、初めておもちゃを与えられた子供の様に、その菌糸体を揉んだり弾いたり、曲げたりしていた。
すぐ近くで眠る者のことも忘れて、しばし夢中になる。
「あっ」
遊んでいる内に、真っ二つに折れてしまった。
そう言えばヴィロサが、蹴られたり踏まれたりするのが嫌だと言っていた。なら、胴の途中で折られることだって嫌だろうな。そう思い至って、透陽の心は申し訳ない気持ちで満たされる。
謝罪の言葉を唱えつつ、その折れた先をつまんで、目の前に持ってきた。
断面を眺めて意外だと言わんばかりの感嘆符を漏らした。
「中は白いのかあ」
てっきり中も見たままに真紅だと思っていたが。
しかしどれだけ調べてもキノコにはとても見えない。
透陽が断面を興味深げに観察し、指で撫でたり臭いをかいだりしている時だった。
甘い声の混じった吐息と、身じろぎする音が聞こえて来た。
忘れていた脅威の存在を思い出し身を震わせつつ、慌てて振り向いた。
眠っていた女性が、腕を伸ばし、大あくびをしている。
そんな彼女の寝ぼけ眼と視線がかち合った。
その途端に女は、強気そうな顔を驚愕の色に染めると、珍獣でも見たかのような素っ頓狂な声を上げ、上体だけを起こした格好で、引きずるように身をたじろがせる。
「に、人間!?」
「あ、その。お邪魔してます」
「嘘!? あたしのこと見えてるし!?」
あんぐりと口を開けたまま、大きなたれ目を丸く見開いている。その鮮烈な赤い瞳は、ヴィロサよりも攻撃的な印象を透陽に与えた。それゆえ、挨拶はしたものの、内心ではかなり緊張している。
しばらく彼女は目を点にしていたが、何に気付いたのか、今度は咎めるような悲鳴をあげる。
次いで、透陽のことを右手でびしっと指さした。
「触ったの!? それ! あんた、触った!?」
「い、いかがしたのでしょうか!?」
焦燥感が煽られるのあまり妙な言葉遣いになってしまった。
だが、やばいやばいと繰り返している女は、男の言葉など耳に入っていない様子である。慌てて立ち上がると、唖然としている透陽に詰め寄って、彼女の本体とも言うべき赤いキノコをはたき落とした。
刺激に手をひっこめる透陽に対して、見た目通りのきつい口調で言い放った。
「あっちに小川があるから、すぐに手を洗ってきな! 早く!」
「でも……え、何で!?」
「あたしに触ると火傷するから! とにかく早く! 痛いからって絶対舐めたりするんじゃないよ!」
キノコのくせに火傷だなんて。と内心で馬鹿にするように笑っていた。
そんな腰の重い透陽を強引に立たせるためだろう、彼女はぐいと人間の手首を捕まえた。
その触れた手が異様に熱く、透陽が顔をしかめる。体温が高い人間に触られた、と言うレベルは超えている。
おまけに、さっきまでキノコを触っていた彼の指が、ひりひりとした痛みを訴えて来た。
ようやく悟った身の危険にすっと顔が青ざめた。
そして弾かれたように、小川があると言われた方目がけて、無我夢中で駆けて行ったのだった。
やがて辿り着いた木々が切れた空間。
川だとあの赤い女は表現していたが、自然のそれと言うよりは、人工的に窪みを作って水が流れるようにしただけのような浅い沢である。
そこに面した斜面を転げ落ちるようして、魚のように水を求める透陽。
「うおっ、何だ!?」
丁度向かい側の斜面からそんな驚きの声が上がったが、青年の耳には入らない。
水、水だ。洗って、冷やさなければ。ひたすら心の中で唱えながら、一目散に彼は澄んだ水に手を突っ込んだ。
澄んだ水の冷たさが心地よく、体の隅々まで癒されていくようだ。安堵の想いは、緊張しきっていた心や顔をもほぐす。
念には念を入れて、両手を丁寧に洗い、ついでに顔も洗った。汗や泥や涙やらが一気に流れ落ちて、爽快感すら覚えさせた。
完全に自分の世界に居る透陽。彼のことを、向こう岸に座ったまま不思議そうに眺めている誰かのことには、全く気付いていない。
じれったくなったのか、相手から先に声がかけられた。
「よう、兄ちゃん。そんなに焦ってどうしたんだ?」
それは気さくな声音だった。ようやく気付いた透陽は顔を上げる。何だろう、またキノコだろうかと思いながら。
――おや、男子だ。
第一印象ではそう思った。
ところが、片膝を立てて座っているその膝の向こうで、大きな胸が存在を主張していることから、事実を察する。
しかしその胸の膨らみ以外は随分男前だ。オリーブ色のダメージジーンズは、ドクロの飾りが付いたベルトで絞められているし、ストライプのネクタイまで着用している。
眉も昨今の女性の流行りを鑑みると、ずいぶん太い。
女性らしさを感じさせるのは、卵型の石のような飾りがついた白くて長いブーツと、胸元、それに露わにした腹回りだ。
肩に着た短いマントのような着衣には、白地に青い文字で「POISON」と書かれているのが読み取れた。
毒キノコだとわざわざ主張しているのだろうか。透陽は心の中で小ばかにする。変な自己主張はいかがなものか、と。
それにしても、と透陽はげんなりした。
先ほどの赤いキノコの娘といい、この毒娘といい、近寄りがたい雰囲気の奴らばっかりだ。どうせ出会うならもっと可愛いか美しいかにしてほしい。そう、ヴィロサのような――。
不満な心情は、素直に顔に現れていた。
そんな面持で返事もしない人間の青年の態度に苛立ちを覚えたのだろう。土手でくつろいでいた女は、同じく顔をしかめる。
オリーブ色の豊かな髪を掻きながら、こちらも素直に本心を含ませた調子で咎めた。
「おいおい。嫌でも何でも、他人の質問には返事をするもんだぞ? 礼儀がなってないな」
「……人じゃなくてキノコじゃないのか?」
「はあ!? そういう事じゃないだろ!」
刺さるような痛い空気が流れる。
実は透陽は嫌味を言ったわけでもなんでもなく、単純に考えずに返事をしたことだった。それを、今となってはいたく後悔していた。
水を挟んで向かい側に居る女は、拳を握りしめて立ち上がり、気弱な青年の方へと向かって来ようとする。
彼女のオリーブ色の瞳が、ぎらぎらと赤く光っているような気がして、透陽は思わず目を逸らした。
――やっぱり、見た目通り危ないヤツらじゃないか! だから嫌いなんだ!
内心でそう毒づき、かといってどうするという手段も知らず、ただパニックを起こしかけていた。
そんな彼の元に、救世主ともいうべき声が響いてきた。
「うっわ、珍しい奴がいるじゃん!」
楽しげな音色に、一触即発の空気は流れ去った。
わけがわからず大口を開けている透陽の隣に姿を見せたのは、先ほどの赤毛の女性だった。
サングラスをかけていて表情がうかがいにくいが、口元を見ていれば嬉しそうなのはよくわかる。
敵対していた娘も、声の主を認めると、先程までのどす黒いオーラはどこへ行ったのか、一転して破顔した。張りのある大きな声で語り掛ける。
「なんだよー。お前に珍しいとか言われたくないって!」
「いやー、どうかな? 最近のあたしはフットワーク軽いよ? ナントカっていう虫が頑張っちゃってくれるから、あちこち暮らしやすい場所が増えたからねえ。ほんと、ありがたいありがたい」
「羨ましいなあ。あたいはもうちょい涼しい所がいいんだけど……ま、たまにはここもいいよなって」
親しげな空気を纏いながら、赤い方が事もなげに川を飛び越えて、向こうの斜面へと渡った。
そして、すぐ近くに居る透陽のことなど眼中にないように、二人で親しげな会話を始める。
「ファルっち、何怒ってたのさ」
「いや、大したことじゃない。あたいが話しかけてるのに、あの兄ちゃんが返事もしないから」
「えー何よ、そんなこと? 許してやってよ。あの人間、あたしのこと触っちゃってさー。すぐ洗って来いって言ったの、あたしなんだよね」
「なんだ、そうだったのか……。しかし、カエンも大変だなあ。さっき住みやすいって言ったけど、そのせいで人目に触れてトラブルも一杯だろ?」
「ま、ね。いやー、有名になるのも辛いトコよね!」
二人分の楽しげな笑い声が響いた。
すっかり取り残された透陽は、服の袖で顔を拭いながら、言いようも無い寂寥感を感じていた。
すぐそこで楽しそうにしている輪があるのに、自分は入れない。どう入っていいかわからないし、その必要もないから。もしこのまま立ち去っても、彼女たちは何も気にしないだろう。
この感覚が思い起こすのは、彼の小学生、中学生時代の記憶。
俗に言うガリ勉だった奥羽透陽という少年は、周りの男子たちが下品なネタで笑い合ったり、くだらない漫画やアニメの話をしたりする輪に加わろうとしなかった。そして、誘われることも無かった。
一応少ないながら友人もいたが、自分と同じレベルの者ばかりで、彼らとは下世話な会話はしない。上辺だけの知的で面白味のない話しかできなかった。
ただ、彼の場合、何もいじめられて疎外されていたわけではない。彼と周囲、話も性格も噛み合わないのだから、お互いがお互いを、空気のようなものとして扱っていた。
あの頃の透陽は別に独りぼっちでもよいと構えていた。俺は医者にならなければいけないのだから、無駄な時間を過ごすわけにはいかない。そんな、絶対の教えのようなものを信じていたせいだ。
だがしかし、集団生活を送る人間という生き物の性。楽しそうな雰囲気が、ちょっぴり羨ましかったのも確かだし、自分はどうしてあそこに混ざれないんだと思ったことだってある。
ああ、あまり喜ばしくない記憶を掬い上げてしまった。
透陽は虚ろな目を、流れる水の向こうの、別世界に居る二人へと向ける。
世間から拒絶されて然るべきだとレッテルを貼るようなファッションをした女性たちの姿が、中学生時代、不良を気取って髪を染めたり制服を改造していた、しかし気の良いクラスメートたちの姿に重なった。
彼らの堂々とした違反行為は大嫌いだったが、自分の傍で、ああいう風に幸せそうなオーラを醸していた彼らが、俺は確かに羨ましかったと、しみじみと思い起こす。
もしまだ子どもだった当時、「何の話?」などと声を上げ、一歩を踏み出していたとしたら、彼らは素直に受け入れてくれただろう。
孤独な大人になりつつある彼は、理解していた。
だが、そのほんの少しの勇気すら、当時の、そして今の彼も、等しく持ち合わせてはいなかった。
奥羽透陽は認めた。自分は臆病なのだ、と。
それゆえに死ぬことに踏み切ることもできず、かといって先の暗い未来に進む勇気もない。
何かから逃げるように一人山の中で、孤独な自分の味方になってくれそうな天使の姿を、こうして縋るように追い求めている。
透陽は俯いた。静かにせせらぐ水面に、くたびれた自分の顔が映る。多少老けただけで、中学生の、いや、もっと前から何も変わっていない顔がそこに浮かんでいた。
――俺はこのままでいいのだろうか。