死にたい男と死の天使
薄暗い森に、純白の天使が舞い降りた。
奥羽透陽は、流れるような足取りで、木々の合間を縫うように歩み寄ってくる美しいその姿に見惚れていた。己の頭上より垂れ下がるロープの輪を掴んだまま、つい今まで自分が何をしようとしていたかも忘れて。
昼間なのに薄暗い樹林、そこには似つかわしくない全身真っ白の女性の姿。裾のぎざぎざした長いスカートはくるぶし近くまで丈があり、白いブーツが見え隠れする。その無垢な色は、見ている方が汚れてしまわないかと不安になる。
頭にはつばの大きな貴婦人を思わせる帽子を被っていた。これも眩しいほどに白い。
そして大きな銀のペンダントをつけた胸元は大きく露わになっている。肌色が目を引くが、それでも下品には感じさせないのは、彼女自身が纏うエレガントな空気のせいだろう。
そんなうら若き娘は、肩に付かない程の長さでに綺麗に切りそろえられた雪の様に白い髪を揺らしながら、微笑みと共に透陽に近づいてくる。
無気力な顔つきをしていた彼の目に、光が宿った。
天使だ。
透陽は心の中で反芻するように呟く。
それは決して美しい女性に対するただの比喩などではなかった。その人の背中からは、小さいながらも、絵画等でよく見る天使の白い翼が生えているのだから。
林の中に悠然と降臨したその天使は、ぼさぼさの髪を直そうともせず呆然として立ち尽くす透陽の手をとり、柔らかい手で包みこむ。男の冷たく冷えた手に、癒しの光が当てられたかのようだった。
そして無駄に背の高い男の顔を、下から覗きこむようにして、優しい声音で語り掛けた。
「理由は知らないけれど、自ら命を絶とうだなんて考えないで。大事な、たった一つの命なのだから」
宝石の様に赤く輝く瞳に見つめられて、今まで恋愛経験もろくになかった男の心臓が大きく波打っている。
天使様は相変わらず包んだ手を離さず、それどころか慈しむように擦ってくるものだから、彼の体温は上昇していく一方だ。
だが。透陽は首を横に振った。
「でももう俺、ダメなんです……」
はあ、と溜息をついて、透陽は熱い視線から目を逸らした。
優しい手も振りほどこうとしたが、その細い手指は、見た目からは想像できないような力で固く結ばれていて、失敗した。
「どうしたの? お話聞かせて? あちらで話しましょう?」
相変わらず微笑みを讃えたままに、彼女は少し前方にある、まだ新しい倒木を指し示す。
嫌も応も無いまま、華奢な腕で強引に引っ張られた。バランスを崩してたたらを踏む透陽。
すると、はたと立ち止った彼女が、きらりと目を光らせて、少しだけきつい口調で言った。
「足元には気を付けてね。私もみんなも蹴飛ばされたり踏みつぶされたりするのは嫌いだから」
促されて足下をを見る。なんてことはない、降り積もった落ち葉と、そこから顔を出す一本の白いキノコがあるだけだ。
大きく開いて存在を主張するその傘は、中央がやや高い平らな形で、どこか目の前の天使の被る大きな帽子に似ていた。
美女に手を引かれるこのような状況に至っても未だ鬱気分が抜けきらず、正常な思考が出来ない透陽だった。
それでも、さすがに引かかるものを感じた。
彼女は足元、そしておそらくこのキノコを指して、「私」だと言った。――どういうことだ? そう疑問は浮かぶ。
ともあれ、言われた通り点在するキノコに気を付けて進み、誘われるがまま倒木に並んで腰かけた。
うなだれる透陽にぴったりと肩を触れさせて、おしとやかに座っている彼女は、何でもいいから吐き出して楽になりなさいと、督促するかのようにまくしたてている。どことなく咎めるような色が含まれていて、話は切り出しづらい。
それでも隠そうとしない優しいオーラが暗い青年を包めば、しばらくの葛藤の後、頼りたいという意志を抱かせる。
透陽は頭を抱えるようにして身の上話を始めた。
どこの誰とも、おまけに何者とも知らない彼女に素直に従がったのは、彼自身とて救われたいという思いを抱いていたからだった。
この男、奥羽透陽は、医学部志望の浪人生であった。
開業医の父親の跡継ぎとして、幼い頃から医者を目指して厳しく育てられた上、彼自身とて医者になるという強い意志はあった。
ゆえに常に必死に勉強して成績はトップクラス。周囲も誉めそやし、将来は順風満帆かと思えた。
だが、いざ迎えた大学受験。彼は、難関大を受験し、そして、ものの見事に滑った。
体裁が全てな以上、国立大に進学する以外は許されざるし、そもそも透陽の実力ならどこだろうが落ちることはない。そんな風に鷹をくくっていた。だからこそ、自分と両親とが共に受けたショックは計り知れなかった。
それでも彼が学業優秀なことに変わりはない。一年浪人して、多少なりともランクを下げれば、合格は間違いなしだろう。だからさも当然のように、透陽は浪人するという道を選んだ。
そして彼はより一層必死に勉強した。自分の経歴、父親の顔に、二度目の泥をつけるわけにはいかないと。
まさかそれが裏目にでることとは、露も思わなかったが。
春が過ぎ、夏が終わり、涼しくなり……そんな季節の移り変わりにすら目もくれず、ただただ机に向かう日々を送っていた透陽は、昨夜、はたと気づいた。
そういえば、十月だ。そろそろセンター試験の願書を出さなければ、と。
センター試験、古い言い方をすれば共通一次、国公立大学受験に挑むに必須な最初の関門である。
高校時代は学校でほとんど全部やってくれたから楽だったのに。そう苦笑いしながら、浪人生なりの願書の出し方をインターネットで調べて、そして彼の顔は一気に青ざめた。
その理由を震える声で告白する。
「――締切が……五日前だったんです」
その途端、二十歳近くの男が、幼子の様に声を荒げて泣き出した。そんな滑稽にも見える様を白い天使は小首を傾げて眺めていた。
嗚咽混じりに彼は続けて語る。
己のつまらない失態で今年のチャンスを逃したことを、朝になって恐る恐る両親に告知したら、泣かれ怒鳴られ、しまいには人生初の親子喧嘩になったと。
「父さんは『二浪もして、俺にどれだけ恥をかかせる気だ!』だって……俺って馬鹿だよなあ」
「まあ……それで、もう人生終わったと思って、この人気のない山の中で死のうとしてたの?」
宝石のような目を丸くする彼女にちらりと目線をやり、涙に濡れた顔を縦に振る。
その反応を見て、しばらく困ったような表情をしていた女性。やがて、背中の羽根をぱたぱたと動かして、一言、透陽に告げた。
「馬鹿みたい。そんなことで死にたがるなんて」
呆れたとばかりに両手を開き、心底蔑むような眼差しで投げられたその言葉に、心荒む青年は激怒した。
「そんなこと!? こっちは人生台無しになったんだぞ。今までの十九年間が全部無駄になったんだ! 会ったばかりのアンタに、そんな風馬鹿にされてたまるか!」
茹で上がったタコのように真っ赤になっている透陽だった。
が、不思議な女は目を細め、小悪魔のような不敵な笑みを浮かべて、さらに挑発を重ねる。
「だからお馬鹿さんだと言ってるのよ。たった一度失敗して、それで全部が終わりになるようなものなのかしら、あなたの人生って。とてもそんな風には思えないわ」
「ふざけるな! 俺は必死で勉強してきたんだ! みんなが遊んでいる間も、テレビを見ている間も、俺はずっと! 人の何倍も頑張ってきたんだ! それなのに……!」
感極まって言葉を失う青年。
そんな彼を見下すように顎を上げ、高嶺の花の美女は毒を吐いた。
「あらそう、とても苦労した人生だったのね。勉強しかしてこなかったのに、その結果も出せない。勉強しかしなかったせいで、季節の移り変わりすら感じていなかった。そんなあなたの過ちを教えてくれる、かげがえのない友達すら一人も作らない。ふーん、そう。あなたが死に物狂いで頑張ってきたって言う十九年間って、大変だったっていうくせにすごく薄っぺらいわ? むしろカラッポ。……ああそうね。そんな人生なら死んでもいいと思えるかも。ちょうど、さっきのあなたみたいにね」
まるで喜劇だと言わんばかりにくつくつと笑っている。それが透陽の人生を嘲けっているかのように聞こえて、彼は怒り心頭だった。
「お前に何がわかるんだよ! 俺の……俺は医者になるしかないのに! これでまた一年待たなければいけないんだぞ!? もう、そんなの――」
透陽が思いの丈を繰り返し叫ぼうとするのを遮り、落ち着いた女は大きな音を立てて手を叩いた。
わざとらしい溜息の後、彼女は口を開く。
「もういい、わかったから。やっぱりあなた大馬鹿者だわ。私は人間の社会を知っているわけじゃないけど、医者がどういう職業なのかはよく知っている。人の命を救うのが仕事よね? それって、あなたみたいに、簡単に命を捨てられるような人がなるべき仕事じゃないわ。だから、これを機会に諦めなさい?」
「な!? 諦めたら……それこそ終わりじゃないか……」
終わり。その言葉を引鉄に、湧き起っていた怒りに変わって、重く暗い情念が湧き上がる。
それは彼の記憶にもつれ、思い出したくもない光景を、音を、浮かび上がらせる。
お前は勉強ばかりでつまらない。
そんな風に友達に苦笑された記憶。彼らとは当の昔に疎遠になってしまった。
成績優秀な癖に志望校に落ちたって。
それが判明した時に突き刺さった周りの冷ややかな目。嘲りと憐れみの混じった目が、口が、声が、透陽を責めたてる。
何もかも捨てて、ただ机に向かって来た日々は。変わり映えのない、色の無い毎日は。そして己の大失態を告白した時の両親の暗く冷たい視線は。
脳漿にフラッシュバックするシーンは、透陽を闇へと引きずり込む。
息を荒げて、頭を抱えた。己を追い詰める妄執を振り払うかのように髪をかき見乱し、頭を振りかぶる。
ああ、嫌だ! もうたくさんだ!
透陽は何かに取りつかれたようにゆらりと腰を上げて、石の様に重い足を引きずった。その足取りで向かう先の目印は、先ほど己の手で駆けたロープの輪。
「もういい……あんたなんかに何を言われても……。俺は死んで、楽になるんだ……」
無感情に呟いて、幽霊の様に歩いていく。くたびれたスニーカーで踏みしめる枯れ葉が砕ける音が響いた。
そんな彼の背後で、わざとらしいほどに大きいため息の音が聞こえた。それが彼の歩みを妨げる。
「ああもう、わかったわ。止まらないというのなら、いっそ、私が殺してあげる」
死へのいざないだ。
そんな天使の甘美な言葉は、透陽の足を完全に止めるのに十分であった。虚ろな目を見開き、縋るような視線を声の主に向ける。
謎の天使は小さな翼を目一杯大きく広げ、どこから取り出したのか、白い大鎌を右手に持っていた。
彼女の身長より長いその凶器を軽々と携え、死を望む男を赤く光る妖艶な眼で見据え、長いスカートをたなびかせて自分に歩み寄ってくる。その姿は、天使と言うより死神だ。
心に余裕が無かった先ほどは気づかなかったが、よくよく見れば彼女の胸のペンダントは、ドクロをかたどっている。
透陽はぞっとした。美しい、しかし、恐ろしい。本性を現した天使が纏っているのは、恐怖を覚えさせるほどの目には見えない凄みの気である。
汚れ無き鎌の刃が、立ちすくむ透陽の首に当てられた。息が止まる。
そして、微笑む死神は、顔をぐいと近づけて来た。大きな帽子のつばが、冷や汗を垂れ流している青年の額に当たった。
「私は『死の天使』。今まで何人も死なせてきたわ。殺しは得意よ?」
「じゃ、じゃあ……俺を……」
震える唇で透陽は言葉を紡ぐも、最後まで形にすることはできなかった。
妖しい笑みを絶やさない純白の女性は、笑顔と共に頷いた。
だが、薄い唇が開いたときには、逆接の言葉を紡ぐ。
「だけどね、あなたは思い違いをしているわ。死ぬことは決して楽になる事じゃない。特に私は、楽には死なせない。痛くて、苦しくて、吐いて、えづいて――あなたに、耐えられる?」
「でも……そんなの一瞬だろ? 終われば……天国に行ける」
淡々と語る透陽の言葉に対して、彼女は意味深な笑みを見せた。
「ええ、そうね。少し待てば楽になる、身体も心も苦痛に慣れてしまうから。でもね、あの世に行く一歩手前、そこに待っているのは生き地獄。血を、臓物を吐き散らしながらのたうち回る、狂乱の苦しみ。でもね、そうして私が死なせる人は、苦悶する中でみんなこう思うわ。『嫌だ、死にたくない。生きたい』ってね。……そこまで行ってしまったら、もう後戻りはできないっていうのに」
長々と語る彼女は、相変わらず他者を畏れさせるようなオーラを纏っていたが、しかし、悲しげな眼をしていた。
透陽は何も言えない。死の天使と語り合っている内に、少し冷静になっていた。 そして、それと共に恐怖がわいていた。すり減った神経ではあれだけ美しく見えた、死という事象に対して。
痛いのも、苦しいのも、嫌だ。そんな思いをしてまで、死にたくない。――かといって、生きているのも辛いのだ。
ああ、俺はどうすればいい! 誰か、助けてくれ!
思考の渦に呑み込まれて、透陽は嗚咽を漏らしながら、地面に崩れた。
両手を地について泣きじゃくっていると、その頭が柔らかい物に包まれた。
されるがままに天使の豊かな双丘に顔をうずめて、優しい腕に抱かれながら、成人間近の男は、生まれたばかりの赤子のように泣きわめいていた。
どれだけ時間がたっただろう。
あらゆる思いを涙と共に放出した透陽は、落ち着きを取り戻していた。
それを見計らって、若き人の子を慈しむように彼を抱いていた女性は、安堵したかのように身体を離した。懐かしささえ感じさせるぬくもりが離れて、透陽は名残惜しさを感じた。
彼女は青年のかけたロープの方に向かって歩いて行く。そして、それを鎌の一閃で切り取った。
「これは預かっておくから。でも、もう大丈夫そうね。馬鹿な真似はしなさそうだわ……いえ、できなさそう」
輝かんばかりの笑みを浮かべた天使。その妖艶な表情は、透陽の心の中に焼き付く。
だが彼女は、それじゃあ、と一言残して、木立の中へ去っていこうとする。
そんな様子を見て、慌てて呼び止めた。
「待ってくれ! あんたは……あんたは何者だ?」
「……私はヴィロサ。アマニタ・ヴィロサよ。人は私のことを『死の天使』と呼ぶわ」
「それはさっき聞いた! そうじゃなくて……あんたは人間じゃなくて、天使でもなく……あ!」
透陽が自ら出した彼女の正体の結論を、しかし自分でも肯定できずにいる間に、ヴィロサは身を翻して森の中へ去っていく。
大鎌が霧散した後なのだろう白い煙が、まるで舞い散る羽の様に空中を漂っていた。
後を追おうと立ち上がって足を踏み出す。だが、悠々と歩いている彼女とは違い、透陽は樹木の根に足を取られ、落ち葉の積もった窪みに滑り落ちと、不慣れな環境に大苦戦だ。
そうこうしている間に、透陽はヴィロサの後ろ姿を完全に見失った。
静かな森の中で一人、彼はここまでのことを、自慢の頭脳で理屈づけようとした。だがそうしてでた結論はただ「理解不能」という悲鳴であった。
溜息をついて、木の根元に座り込む。
その時視界に入ったのは、一本の白いキノコ。頭に飾りの様に枯れ葉が乗っているそれは、先ほど彼が首を吊ろうとしていた地点にあったものと同じ姿だ。
つばの大きな帽子を彷彿とさせる傘に加えて、よく見れば長い柄にスカートのような膜を持っている。まるで、先ほど自分と話をしていた女性と同じ特徴ではないか。
透陽は一つの考えに至っていた。それは、今までの人生で経験したことが無い、非現実的な話。
「キノコの……精霊?」
精霊、妖精、お化け、化身……何でもいいが、とにかく彼女はそう言ったキノコを由来とする娘なのだろうというのが、透陽の出した結論だった。
だが混乱は収まらない。そんなものは空想で、現実に居るわけがない。そうだ、ありえないことだ。もう、わけがわからない。
透陽は乾いた笑い声を上げていた。
「俺、ついに頭おかしくなったのかな」
キノコが人間の姿をして、おまけに人間の言葉を喋って来るだなんて、おかしな話だ。
彼女との出会いは、精神的に追い詰められた末に見ためちゃくちゃな夢だ。あるいは救いを求めたがゆえの妄想に過ぎない。
もしかしたら本当はもう自分が死んでおり、ここがあの世なのかもしれない。彼の空想はそこまで及んでいた。
ところが、彼が居るのはまごうことなき現実世界である。
悲しいかな、頭はおかしくなってはいないし、今まさに人生の岐路に立っていることも、目を逸らすことはできない事実なのだ。
あらゆるものに対する渦巻く思考はそのままに、奥羽透陽はひとまず歩き出した。
あても無く、自分が居る場所も見失って、森の中の道なき道を行く。彼を突き動かすのは、先ほど見た天使の姿。
不思議な人だった。でも、彼女なら自分を救ってくれる。そんな気がしたのだ。