第四話 不穏な噂
「ほんと、すごい顔だ」
事務所の入口から入って来てノアールの顔を見るなり肩を揺すって笑うのはセシル・レイン・クインス男爵だ。
ぴったりとした黒いズボンに濃い茶色のロングブーツを履き、ゆったりとした襟付きのシャツにジャケットを羽織った姿はどこか悩ましく目を惹く。淡い緑の柔らかそうな髪と蠱惑的に輝く琥珀色の瞳、そしてどこか酷薄な笑みを浮かべる唇。
ノアールのように美男子ではないが、無性に心を騒がせる魅力を持っている。
「痛いって、触らないでくれる?」
遠慮なく手を伸ばして触れてくるセシルの手を払い除けてノアールが悲鳴を上げた。にやにやと笑いながら「男前が台無しだ。学園の尻軽女共も恐れをなしてこれじゃ近づかないね」と友の不幸を愉しんでいる男爵にレットソムは呼びかけた。
「クインス男爵、今日は夜会に出席予定だったんじゃなかったかぁ?」
「その予定だったけど、お目当ての伯爵令嬢が体調不良で出席しないって聞いて。それならノアールをからかって遊ぼうかと思ってここに来た。嬉しい?ノアール」
「嬉しくないよ!」
自分で淹れたハーブティーを飲みながらぷいっと横を向くノアールの横で、セシルは満足そうに微笑みながらレットソムの机の上に腰かける。
「ひどいなぁ。社交界では引っ張りだこで、ご婦人のお誘いを袖にしてまでここに来たのにさ。友達として喜んでもくれないなんて」
手を伸ばして机の上にある書類の束や、調査中の資料を無造作に手に取り眺めながらセシルがぼやく。守秘義務を主張して取り上げるのは簡単だが、男爵は基本的に自分のやりたいようにしか動かない。
止めてくれと頼んでもきっと楽しげに微笑んで、もっと悪質な事を仕出かさないとも限らない……よって放っておくほうが無難だ。
「素直にノアールが怪我したって聞いて様子見に来たって言えばいいじゃねぇかー……」
「まあね。どんな面白い顔になってるのか興味あったからさ」
否定はしないが素直に心配だったのだとは言わない。そんな友人を半眼で睨むノアールの眼鏡はちゃんと修理されている。
「でも流石便利屋だね。こっちの予定までしっかり把握してるとは恐れ入るよ」
感情の無い笑顔を浮かべてセシルが牽制してくるので、レットソムは耳に左小指を突っ込みながら大きな欠伸をする。
互いに駆け引きなどする必要も無い間柄なのに、時折こうして男爵はレットソムの挙動を確かめるかのようなことをした。
それは不安からか、それとも警戒からか。
どちらかは解らないが、懐いたふりをして餌だけ貰う癖に簡単に本心を見せない野良猫のような人物なのでいちいち気にしていてはこちらが疲れるだけだ。
「偉いさんのスケジュール管理は仕事に入ってないからなー……」
「よくいうね。その口、縫い付けて喋れないようにしたいって言われない?」
「残念ながら、ねえなぁ」
「ふぅん。そうだ。今日チューベローズ侯爵夫人のお茶会で嫌な噂を聞いたんだけど」
レットソムとの不毛な会話を打ち切ってセシルはノアールの方へと身を乗り出す。
侯爵の名を聞いてノアールは眉を寄せた。勿論レットソムも同様に不快な感情を抱きはしたが、顔に出すことはしなかった。
チューベローズ侯爵夫人は社交界で若く見目麗しい男に目をつけて声をかけ、お茶会や食事会を名目に屋敷に招いて不届きな行為を重ねていると噂されている。侯爵自身は夫人の乱交を黙殺し、己は別に愛人を囲っているとの話も漏れ聞く。
貴族同士の結婚は愛情など無く、互いの利権の為に結ばれることが多いのでそういう醜聞も少なくは無い。
「セシル、そんな所にのこのこ行ったの?」
「行ったけど?そこに有益な情報があるのなら行く価値はあるしね」
肩を竦めて事も無げに答える友人の姿に口を開いて唖然と眺め、直ぐに表情を引き締めると眉を上げてキリリと精一杯の恐い顔をする。だがノアールが必死に作った顔を見ても幼子すら怯えることはないだろう。
「約束したはずだけど?安売りはするなって」
「してないって、心配しなくても」
「チューベローズ侯爵夫人に見初められて出席した茶会で何も無かったとは思えんが……」
しかも嫌な噂とやらを聞いてくる程には長居したのだろうから疑われても仕方が無い。
「ちょっと、何考えてんのさ?お茶会はお茶を飲んで楽しくお喋りする場だよ?あんたら頭おかしいじゃない?」
わざとらしく両手を挙げて首を振り変な勘繰りをする方が可笑しいのだと抗議する。だが当の本人が一番チューベローズ侯爵夫人に淫らな噂があることを知っているはずだ。そこから得られる情報の重要性を見過ごせないと理解しているから誘いに乗ったのだから。
「いいよ。じゃあ。折角聞いてきたけど、胸の内にしまってひとりで思い悩むから」
机から飛び降りて長い脚を使って颯爽と入口へと向かうセシルの腕を慌ててノアールが掴んで引き止めた。
「とりあえずセシルの言うことを信じるから。嫌な噂ってなに?」
「いいって、もう」
演技だと解っていてもその悲しみに打ちひしがれた様な表情と、弱々しい口調には胸がざわめいてしまう。
ノアールが良心を痛め戸惑いながらも「ごめん。謝るから」と懇願した。
「……………キスしてくれたら許してあげてもいい」
「……………勘弁してください」
がっくりと肩を落とした友人の姿を見て機嫌を直し、セシルは何故かレットソムへと顔を向けた。その琥珀の瞳には嘘も偽りもなく、真実だけが浮かんでいる。
「今日のお茶会にリカステ国の有力者が来てたんだ」
「リカステ……」
それは紅蓮の故郷であるベングル国の隣に位置する国。内戦から戦争へと悪化したベングル国の状況は遠く離れたフィライト国にはなかなか伝わってこない。だが隣国であるリカステならばベングル国についての情報は入ってくるはず。
「紅蓮のことなの?」
震える声を抑えながらノアールは大切な友人で、共に働く仲間へ思いを馳せながら請う様な瞳をセシルに注ぐ。
「最初に言った通り、嫌な噂だ」
「……それでも」
念押ししたセシルの腕をノアールが強く引く。
どんな噂でも紅蓮のことなら聞きたいのだと懇願するノアールをちらりと横目で見て、男爵は言いにくそうに視線を彷徨わせてから再びレットソムを見据えた。
「その男はベングル国の炎の拳士は死んだと」
「炎の拳士……?それだけじゃ紅蓮のことかは解らない」
「多分紅蓮のことだと思うよ。隣国にその死が伝わるってことはそれなりに有名であることが前提だ。紅蓮の祖父は伝説の“炎の魔術師”だ。その孫の死ならば確実に伝わるよ。他に炎を操る有名人がいるとすれば別だけど」
断言してセシルは肩を竦めた。
紅蓮は炎を自在に操る能力が低く、触媒として火薬を仕込んだ皮手袋を使って炎を出して拳を繰り出し戦うスタイルだ。炎の拳士と呼ばれるに相応しい戦い方ではある。
恐らくセシルが言う通り、炎の拳士は紅蓮で間違いない。
だが。
「死んだ……」
俄かには信じがたい内容にレットソムは無意識に呟いていた。その事に気付いてもう一度舌の上で吟味しながら「死んだ」と繰り返してみる。
それでもしっくりと来ない言葉に戸惑う。
紅蓮と死が結びつかない。
あの時と同じだ。
二年半ぐらい前に紅蓮は東にある隣町のリストへと荷を運ぶ仕事を出た。その時無事荷には届けられたが、その本人はリストを出てディアモンドへと帰る途中で忽然と姿を消した。騎士隊やリストの警備隊が出動し捜索したがとうとう見つけることは出来なかった。発見されぬまま八カ月が経ち、その長さは絶望的になるには十分な物だったがレットソムの中で漠然と紅蓮は帰ってくるという思いは揺るがなかった。
レットソムの願いと確信を裏付けるように、ディアモンドの街で保護された紅蓮には記憶は無かったがそれ以後も厄介事万請負所で変わらず働いてくれた頼もしい青年。
あいつは死なない。
だが噂も完全には否定できない。
「未だ不確定の噂に惑わされる訳にもいかないし……もう少し、様子をみようや」
「……はい」
固い声で応えたノアールは座り直して温くなったハーブティーを飲む。渋面で美味しくなさそうに大好きなハーブティーを飲んでいる友人を気の毒に思ったのか、その細い肩に手を乗せて優しく撫でた。
「また、何か聞いたら教えるから」
「うん。でも……あんまり無茶しないようにね」
「なに言ってんのさ。この状況に引っ張り込んだ張本人のひとりの癖に」
「……それは、ごめん」
セシルの男爵位は一応期限付きの物だ。望めばそのまま爵位を継ぐことは出来るが、それを本人が望むかどうかは怪しい。
元々は自由を求めて放浪する生き方をするレイン一族の人間だ。
そのレインがひとつの場所に長く居続けることは珍しい。
セシルがディアモンドへと来て三年になる。レットソムはセシルと親しくするようになったのはここ七カ月程ぐらいだが、その数か月の間だけでも聡明さと奔放さを併せ持つ魅力的な人物が、更に印象深く魅惑的に成長しているのをひしひしと感じることができた。
男女問わず惹きつける力はセシルの一族たるレインの持つ特殊な能力のひとつ。それ故揉め事も多くひとつの場所に長く居られない性なのだ。
それ以前に悲しい歴史を持つレイン一族の固執しない生き方は頑なで、呪いのようにも見えた。
不憫な人物。
同情などいらないと拒まれるだろうが、レットソムには憐れに思えて仕方が無い。
「大丈夫だって。そんな間抜けに見える?」
「見えないけど、心配なんだよ」
ムキになって言い返すノアールへ柔らかな微笑みを向けるとセシルは「うん」と幸せそうに返事をする。
「もー……セシルは、すぐそうやって誤魔化して」
「さて帰るよ。帰りを待ってる健気な女の子がいるから」
「そう言えばティエリさんの他は雇わないの?」
ティエリは男爵が雇っている使用人の少女の名だ。
クインス家の屋敷は城壁内の旧市街にあり、それなりの大きさを持っているが現在雇っているのはティエリのみ。使用人ひとりで管理できる広さではないが、セシルは他に使用人を雇おうとは思っていないようだ。
その事からも期限が切れた後は早々に爵位を手放してディアモンドを去ろうと思っているのかもしれないとノアールは恐れている。
「必要ないからね。ティエリには使う場所だけ掃除すればいいからって言ってあるし」
ひとりで住むには広すぎる屋敷に寝泊まりして生活するのは男爵だけ。ティエリは住み込みでは無く通いで働いているからだ。
「だからノアール、いつでも来ていいから」
含みのある言い方にノアールが微妙な顔で曖昧に返事する。楽しげに笑い声を上げてからセシルは軽やかな足取りで「じゃあね」と扉の向こうに去って行った。
その軽やかさとは裏腹に持ってきた噂の不穏さが胸を重くする。
だが己の勘を信じてレットソムは目を閉じる。
きっとそう遠くない未来に紅蓮が戻ってくるのだと固く信じて。




