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第三十五話 父の最期


 シミの浮いた薄い背中は皮が弛み、触れると乾燥でかさついていた。腰の曲がった老人が歯の抜けた顔で笑って「いつもすまんなー……」と申し訳なさそうに頭を下げる。


「いいって、仕事だからなぁ」


 軟膏を手に取りひんやりとした室内で上半身裸の老人の背中に丁寧に塗って行く。軟膏は乾燥からくる痒みと、年齢による肩腰の痛みに効くように調合されている。独り暮らしの老人は自分で薬を塗付することが出来ないので、毎日決まった時間に訪ねて来てくれるようにと依頼されていた。


「最近寒くなってきたから、ちゃんと着込んで栄養のあるもん食わねえと」

「儂らほどになったら寒いのか暑いのかの感覚もなくなるんだから困ったもんだ。飯も食ったのか、食ってないのかも覚えとらん。耄碌しちまったジジイには自分が生きてるのか死んでいるのかも解らんさ」


 それでも毎日あんたが来てくれるから儂はまだ生きとるんじゃなと認知できて助かっとるよと身体を揺らして笑み崩れる。

 筋肉も脂肪も無い骨に皮が張り付いているだけの老人だが、昔は歓楽街でも名うての商売人で今でもレナン・セナといえば「あの獣欲の」と二つ名を挙げる者も多い。

 彼は昔娼館を経営しており、女衒が連れてきた若い女から子供までみっちり教育し数多の男達に彼女たちの身体を売ってきた。当時は身体を壊して死んでいく娼婦が多かったが、レナン・セナは折角育てた商品が病気や栄養不足で命を落としたり、魅力が損なわれることを嫌った。

 自らが食べられなくても彼女たちには好きなだけ食事を与え、店専用の医者を雇って健康管理を徹底した。娼婦が魅力的で健康なら、それだけ沢山の金を稼いでくれる。そして飢えや病気の心配が無くなった女たちは彼の為に喜んで働き、支給される金が増え早く足抜けすることが出来た。

 女たちにとって働きやすい店であり、男達も病気を感染させられる心配も無いので安心して通ってこられる。女衒もできれば連れてきた女子供を少しでも良い所へ売りたいと、レナン・セナの店に上等の女を連れてくるという相乗効果で店は繁盛した。


「強欲ジジイの最期は憐れなもんだ」

「歓楽街で働く女たちはみんなあんたに感謝してるさ……」


 今では普通に医者が春をひさぐ者達の健康状態を診療してくれるようになっているが、そのことを当たり前にするきっかけを作ったのは紛れもないこの痩せた老人なのだから。


「お前のとこの別嬪さん、名前なんだったかなー……」

「カメリアですか?」

「そうそう。ありゃ娼婦なら、抱き潰されて駄目になる女だ」


 目蓋がたるんで半分見えなくなっている眼がきらりと光らせ、痛む腰を擦りながら立ち上がり椅子に掛けていたシャツを掴んで羽織ると老人はレットソムを顔だけで振り返る。

 多くの女たちを見てきたレナン・セナの目にはカメリアはどんなふうに映っているのか。


「気丈そうに見えるが、複数の男に抱かれるたびに心が砕けちまう。女房にするには一途でいいが、商品として見るなら二流だな」

「……かもなぁ」


 娼婦という職業は体力勝負でもあり、満足させられるだけの技術もまた求められる。精神的にも強くなければならないが、中には客を取る度に絶望し自暴自棄になって壊れてしまう者も多くいる。

 カメリアは貧しい中でも家族手を取り合い真っ当に生きてきた。その潔癖さと気高さが染みついた彼女は生活のためだと割り切って、名前も知らぬ初めて会う男を受け入れるということを自分が選んだのだとしても結局は耐えきれずに心を病んでしまうだろう。


 それは初めて会った時から薄々感じていたこと。


「お前が救い出してやらなかったら今頃どうしていたかね」

「………………」


 三年半前。


 カメリアは歓楽街で働いていた。酒を出す店で給仕をして、客がつけば二階の部屋で身体を売る――弟の学費と生活費を稼ぐために彼女は身を削っていたのだ。

 家族は知らなかったはずだ。

 酒と料理を運ぶだけの仕事だとカメリアは説明し、心配する両親と弟に大丈夫だからと笑ってまで見せた。

 仕事を終えたカメリアが店を出た所を客だった男が待ち伏せ、強引に他の店で飲もうと口説いている所を偶然通りかかったレットソムが助けたのが始まり。どう見ても歓楽街で身体を売っている女には見えなかった彼女を飲みに出た彼氏か父親を探しにでも来た普通の女だろうと思っていたら、男が「店では金を出せば誰とでも寝る癖に、外に出れば御高く留まりやがって」と罵ったので驚いたのをよく覚えている。

 カメリアは冷ややかな声で「仕事中は受け入れます。ですがそれ以外で私が貴方と寝ることを強要されても困ります」と言い放った。

 怒り狂った男に店に雇われている女を店以外で強引に抱くのは権利を害する行為で法に触れると諫めて、これ以上しつこければ騎士隊に突き出すぞと脅した。一応男は引き下がったが、ひとりで帰しては危ないので家まで送り届けた。

 古い小さな家の入り口には灯りひとつだけ灯っていて、その薄く頼りない扉の奥に消えて行く背中を見送り清潔感のある彼女が金を得る為に身体を売る仕事もしているのだとは信じられなかった。

 男が言い寄って来た時の毅然とした態度も、清純そうな雰囲気もなにもかもがちぐはぐでレットソムはその危うさに胸を突かれた。

 変な下心なくカメリアが男との情事の間どんな顔をしているのかと考えると不憫に思えたのだ。


「救い出したつもりはねぇよ」


 数日後、店の女将から道で声をかけられてカメリアの境遇を聞いた。抱いても悦ばない女はあまり人気が無く、それでもいいという客は嗜虐的な趣味の男が多い。そのせいでこの間カメリアは酷くいたぶられ医者を呼ぶ程の大事になったそうだ。

 できれば客を取らせたくは無いと相談を受け、レットソムは彼女を自分の所の事務員として昼間雇うので、その分客は取らせず給仕のみで雇ってはどうかと提案した。

 女将は喜んで了承し、すぐにカメリアを連れて事務所へとやって来たのだ。


 本当に軽い気持ちでカメリアを雇ったのだ。


「お前さんにそのつもりはなくとも、結果その女は救われたんだ」

「働き者だから助かっちゃいるけどな」

「いっそのこと嫁に貰え」

「……こんなおっさんには勿体ねぇよ」

「お前が貰ってやらなかったら短かったとはいえ、娼婦の真似事してたんだ。まともな男と結婚できやしねえぞ」


 隠しても事実は消えない。


 カメリアが嫁に行く時はその事実を伏せたままという訳にはいかず、隠していてもいずれはばれてしまうだろう。後から解る方が始末が悪いので、先に真実を告白した方が利口ではある。

 だがそうなると男側は結婚に二の足を踏むかもしれない。それが問題にならない程カメリアは心根が清く魅力的で働き者の女だ。

 それでもいいと言ってくれる男は絶対にいる。


「その時は結婚相手を王都中から探してきてやるさ」

「……往生際の悪い奴め」


 苦虫を噛み潰したような顔の老人に「口の悪い年寄りは嫌われるぞ」と言い返して笑いレットソムは玄関へと向かう。伸ばした手がノブに触れる前に乱暴に引き開けられて遠ざかる。


「大変です!しょちょ――うむぐ」


 叫びながら飛び込んできたノアールは目の前にレットソムが立っていることに気付いていなかったようだ。思いっきりぶつかって胸にノアールの顔が埋まる。


「どうしたぁ?なんかあったか?」

「カメリアさんのお父さんが」


 眼鏡を直しながら青白い顔で見上げ、最後まで言えずに口を噤む。目尻が赤く涙目になっているノアールの表情を見ればなにがあったのかは察することが出来た。

 レットソムが老人の家を訪ねるのは時計塔の鐘が三つ鳴る頃。カメリアの帰宅時間は鐘が五つ鳴り終わってから。今日も事務所を出てくる時には事務所の机で仕事をしていたので、知らせが来て慌てて帰ったのだろう。


 間に合っただろうか。


 それだけが心配だ。

 二年余りも看病を続けた彼女が父親と最後の別れが出来なかったら—―。


「……今行っても迷惑だろう。取敢えず事務所に戻るぞ」

「……はい」

「爺さんまたな」

「おう、そろそろ腹据えて向き合えよ」


 そういう場合じゃないだろうが、と説教したかったが、そんな気分にはなれず聞こえなかったことにしてノアールと二人で足取り重く事務所へと戻った。




 35年前に感染病が流行り沢山の死者が出たことから、フィライト国ではそれまでは主流だった土葬から火葬をするようにと法律で決められた。墓所の傍に火葬する施設があり、そこに家族は悲しみを引きずりながら棺を抱えて運び、物言わぬ故人を魔法の炎で燃やして灰にしてもらう。

 集められた灰を墓所へと埋葬するのだが、金の無い貧しい者たちは共同墓地の中へと入れられる。

 カメリアの父親も小さな壺に入れられて、そっと沢山並んだ壺のひとつへと仲間入りを果たした。

 事務所に所属している紅蓮もノアールもフィルも葬列に参加し、棺を抱える役を務めた。セシルとリディアも朝早いというのに出席し共に歩いてくれたことをカメリアが頭を下げて感謝する。

 母親と弟は泣きはらした目でぼんやりとしており、カメリアひとり平素通りの顔で参列してくれた人たちに挨拶して回っていた。


「カメリアさん大丈夫かな……」


 泣く暇の無いカメリアに代わって洟を啜り上げて心配そうにノアールが呟く。励ましと労わりの言葉を貰い、真摯に頭を下げながら帰って行く人たちの見送りまで完璧にこなす姿は肉親を失った者とは思えない。


「後からじわじわ来るからな」


 喪失感が大きすぎて今はまだ現実の物として受け入れられないこともある。母と弟が悲しみに暮れている分自分がしっかりしなくてはという気負いもあるだろう。

 居ても邪魔になるからと男爵と侯爵令嬢も帰り、残ったのはカメリアの家族と事務所の面々だけ。


「他に手伝うことはあるか?」

「いいえ。十分です。今日はありがとうございました」


 再び腰を折って礼を言うカメリアは今日一日で何度もそうするうちに感覚が麻痺していったのだろう。あげられた顔からは感情が失せ、ただ同じ動作をしているだけの人形の様だった。


「母さん、先に帰ってて。私支払いがあるからそれを済ませて帰るから」

「それなら、母さんが」

「いいから」


 火葬料と共同墓地の使用料の支払いをするので家に帰っていてくれと伝えると、母親は首を振って自分がやると食い下がった。だがカメリアは弟に母親を連れて戻れと指示して返事も待たずに事務所へと歩いて行く。

 母親の肩を支えるようにして弟は姉の言いつけどおりに帰路へ着いた。


「紅蓮ちゃんと帰れるように一緒について行ってやれ。ノアールは授業を受けに学園に行って、フィルは依頼人が来るかもしれないから事務所で待機しててくれや」


 誰もが皆レットソムの言葉に逆らわず頷くと即座に行動を始める。カメリアの家族を追いかけるように走って行く少年達の後ろ姿を十分に見送ってからゆっくりと事務所の方へと向かう。


 何ができるかと問われればきっと何もできない。


 それでも今ここでカメリアをひとりにすることはできなかった。


 事務所の壁に背中をつけてぼんやりと空を見上げると、今日は雨が降るのか海の上に重い灰色の雲が垂れ込めている。

 雨が降ればまた寒さは厳しくなるだろう。


 だが今の気分に似つかわしいような気がした。


 どこまでも澄み渡る様な青空であったら、きっと世界から拒絶されたかのように思えただろう。


「所長……待っていてくださったんですか?」


 良かったのにと目元を細めて微かな笑みを浮かべたカメリアはどこか困ったような表情を見せた。

 本当はひとりになりたかったのかもしれない。

 ひとりになって、気持ちを鎮めた上で家族の前では見せることが出来ないほど取り乱して泣きたかったのかもしれなかった。


 そうだとしても。


「よく今まで頑張ったなー……」


 病の床に付き長く患ったカメリアの父親は痩せていたが、驚くほど穏やかで満ち足りた顔で棺に収まっていた。献身的な家族の看病と支えを受けて感謝して幸福の中でこの世を去ったのだ。

 知らせを受けて仕事の途中で帰宅した彼女は辛うじて父親の最期に間に合ったらしい。だが言葉を交わすことも、視線を合わせることも出来ない状態の父の手を握ってひたすらその時を待つだけの時間はとても長く感じただろう。


「覚悟はしていたので」


 言い終えてきゅっと唇を噛んだカメリアは吹き抜けた風を追って視線を丘に整然と並んで立つ墓石の方へと向けた。今は生気も精彩さも欠けるというのに、その横顔はやはり初めて会った時と同じく清く美しいままだ。

 例え覚悟はしていたとしても大切な人を喪うという経験は受け入れ難く、孤独感と悲しみはそう簡単に消えてはくれない。

 じっと墓所の方を眺めて動こうとしないカメリアには励ましの言葉も同情をさせる隙がなかった。

 他にかける言葉が見つからずレットソムは間抜けにも「帰らないのか?」という帰宅を促す物しか思いつかない。


「私は冷たい女なんです」


 ぽつりと呟いてカメリアはゆっくりと視線を移動させてレットソムを見た。泣き崩れる母親とそれを気遣い傍についていた弟に代わり、夜通し葬列の手配し気を張って準備をしてきた彼女の目の下にはくっきりと隈が浮いている。

 疲れている顔にそれを感じさせないよう化粧をして、カメリアは大役を終えた。 自分の悲しみを押え込んで。

 そんなカメリアを冷たい女だと誰も思ってはいない。

 家族思いの優しい女だと、そう口にしようとすれば察して首を振る。


「父が死んだらきっと泣いてなにも出来なくなると思っていたんです。でも実際にそうなってみると私の中には悲しみなど無く、ようやく解放されたという安堵感でいっぱいになりました。毎日毎日仕事と父の看病の繰り返しで、私はきっと冷酷な人間になってしまったんでしょう」


 カメリアは美しく微笑んで、それからそれを恥じるように面を伏せた。

 いつもが表情に乏しいせいでこんな時にでも何を考えているのか解り難いが、彼女の中に悲しみが全く存在しないのだとは思えない。

 涙よりも微笑んで、苦行がようやく終わったと安堵して何が悪いのか。


「お前は間違ってない」


 恥じることは無い。

 なにひとつ。


「悪いことじゃない」


 懸命に自分の時間を犠牲にして父に捧げてきたのは知っている。

 それが嫌々でも無く、義務でも無く、家族への親愛の情でなされていたことも。


「一生懸命に尽くしたからこそ、ほっとしたはずだ。親父さんは家族に見送られてきっと幸せだったろうよ」

「本当に幸せだったでしょうか?早く死んでほしいと何度思ったか解らない程です。心の中では早く楽になって欲しいと願っている、そんな娘に毎日看病をされて」


 震える指を掌に握り締めて腿の横に拳を作ったカメリアはひたすら己の中にある負の感情を搾り出す。

 澄ました顔の下に隠していたのは父の死を望む冷たい娘の顔。

 だがそんなものは誰の中にもある感情で、カメリアの潔癖さが自分の中で膨れ上がる許し難い思いを拒絶しているだけに過ぎない。


「父の看病と家事しかしない母に生活が苦しいのだから少しは働いて欲しいと思っていたことも、弟に学歴が無く大した仕事につけないせいで稼ぎが悪いことを責めていたことも、周りに八つ当たりして、他の人を羨んで憎んで」


 大きく息継ぎをしてカメリアは「どうして私ばっかりこんな苦労をしなくちゃいけないの!」と叫ぶと握った拳を目蓋の上に当てる。

 カメリアも母親が一番長く父親の看病をして家事をこなしている大変さを解っている。そして弟が学校へと通えなくなったのは自分の所為であると自覚しているし、弟の将来の幅を狭めてしまった自責の念があり、弟を責めながら逆に自分を苛んでいるのだ。

 恵まれた境遇の他人の羨み、憎み、自分ばかりと僻むのは当然である。


「大丈夫だ、カメリア」


 腕を伸ばしてそっと胸に引き寄せる。泣くのを許せないカメリアは込み上げてくる涙を必死で止めようと背中を震わせていた。


「もう頑張らなくていいんだ」


 苦しいなら泣いてしまえばすっきりする。

 それが解っているからできないのだ。

 父を喪って悲しいから流す涙では無いことが彼女を頑なにさせている。


「これからは自分の幸せの為に生きていい」


 本人がそうは思っていなくても、カメリアが家族の為に費やした月日を思えばその権利は十分にある。


「……私は穢れた女です」

「そんなことで怯むような男はカメリアに相応しくねぇよ。俺がちゃんといい結婚相手を探してきてやるから、安心しろぉ」


 少しでもいい条件の男を探して、今度は苦労しないですむように。


「いっその事コーネリアの申し出を受けて、ザイル殿と――」

「所長、約束を覚えていますか?」

「約束?」


 不意にカメリアは顔を上げて強い視線で見つめてきた。冗談半分でグラウィンド公爵の子息と結婚を口にしたのが気に障ったのだろうかと思えば約束を覚えているかと問うてきた。

 仕事上での些細な約束は沢山あるが多分それとは無関係だ。個人的にしたカメリアとの約束が直ぐには思いつかずに戸惑っていると、見上げてくる紫の瞳にじわりと苛立ちが広がる。


「こんな時にこんなことをお願いする私は頭がどうかしているかと思いますが」


 先に話を振ったのは所長ですからと言い置きして「いい人が見つかったら協力してくれると」と続けた。

 確かにそんな約束をした覚えがある。

 だがそれを肯定してはいけないと本能が告げる。


 この流れはまずい。


 確実に。


「カメリア、待て。今はその話は確かに相応しくねぇから、また後でゆっくり――」

 この期に及んで逃げ腰になっているのをカメリアが激しい非難の目を向ける。腕を解いて離れようとしたら逆に腰にしがみつかれて動揺した。その隙をついて執念の告白が追いかけて来た。


 私は所長がいいです――。


「協力してくださいますよね?」


 彼女の必死さと熱意が拒むことを許さない。

 そのほかに道は無いのだと一途にレットソムを求める瞳に嘆息する。


「俺は甲斐性無しで稼ぎも悪い」

「知っています」


 収入と支出について全てを把握しているのだから当然だ。


「女心にも鈍い男だ」

「それも知っています」


 その所為で随分苦労させられましたからと微笑む。


「38歳のおっさんで」

「それがなにか問題ですか?」


 腰に回されていた手が上げられてカメリアの細い腕がレットソムの首に絡み付く。爪先だって顔を近づけてくる仕草に最後の抵抗を試みる。


「幸せにしてやれる自信が無い」

「大丈夫です。私が幸せだと感じられればそれで十分ですから……」

「それでいいのか!?こんな男で――」


 しーっと狼狽えて喋り続けるレットソムを笑いながら黙らせて、彼女はそっと唇を重ねてきた。冷たくて柔らかなその唇は涙の味がして、カメリアの悲しみの深さを感じる。

 触れるだけの口づけをしてぎゅっと首に抱きついてくる彼女に耳元で「私が所長を幸せにしますから」と宣言された。


「……他にも良い男が沢山いるだろうに、よりにもよってこんな男を選ぶなんて」

「私の一番はずっと所長だけでした。所長以外の男に興味なんてないです」

「見る目ねぇなー……」


 それでも他の男は眼中にないと言われて喜ばない男はいない。カメリアのような、若く美しい女性に言われれば尚更だ。


「父が病気になった時、本当は事務所を辞めて元の仕事に戻ろうと思ってたんです。でも所長と離れることも、他の男と肌を合わせることも嫌で。看病があるから酒場で働くことも出来なくなって……収入が減るのが解っていても貴方と一緒にいたかった。家族の幸せよりも自分の気持ちを優先した私はやっぱり冷たい女で、」

「解った、もういい」

「よくありません。私の罪の告白を最後まで――」


 聞いて下さいという懇願を声と共に唇を塞いで飲み込んだ。抱き締めて激しく口づけている間に、自分がずっとそうしたかったと思っていたのだと自覚して僅かに離れた隙に失笑するとカメリアが目を開けて不思議そうな顔をする。


「なんでもない」


 これ以上は抑制できる自信が無いので離れると、不安そうにカメリアは「所長、返事は?」と尋ねてくる。こちらから口づけをしたことが返事のつもりだったので面食らっていると黙って答えを待っているので頭を掻いた。


「お前のことは万請け負った」

「もう、仕事じゃないんですよ?そんな言い方はあんまりです」


 照れ隠しで応じたレットソムを少し拗ねた表情で責め、「でも、嬉しい」と微笑んだ。その目尻から綺麗な涙が一筋流れて行くのを指で拭い、もう一度抱き締めてから背中を押して家路についた。


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