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第三十四話 花咲く庭へ


 クインス男爵の屋敷は重厚な横長の二階建てで、細長い窓とアーチ型の外回廊がついた美しい建物だ。使っていない部屋が多いからか、鎧戸が閉じたままの窓が多い。セシルはこの屋敷にたった独りで住んでいる。

 普段は静かなこの家に今は楽しげな声と人の気配に溢れていた。

 実際は室内では無く、野外だが。


「紅蓮、こっちもお願い」


 フィルが口元に手を添えて大声で紅蓮を呼び、呼ばれた方は鍬を片手に軽やかに走って行く。指差された場所を慣れた手つきで耕して、そこへ肥料の混じった土を入れ込んで柔らかな土壌を作る。


「煉瓦で囲むんだよね?」


 ノアールが確認しているのはセシルでは無くリディアだ。少女は作業がしやすいように襟付きのシャツとズボン姿をしていて薄茶の髪を後ろでひとつに結んでいる。花の苗を入れた箱を抱えてノアールのいる場所まで行くと細かく指示して後を任せた。


「クライブ!もっと深く掘ってくれなきゃ植えられないから」


 隣り合う食堂と居間の窓の傍を大きいスコップで掘り起こしている護衛騎士にリディアは鋭く視線を遣り、これぐらいでいいかと手を抜いているのを見逃さず注意する。

 クライブにしてみれば快く思っていない男爵の庭の手入れに駆り出され、酷使されることは許し難い屈辱だろう。だがリディアに命じられれば否とは言えず、渋々言われるがまま穴掘りをしているのだ。


「気の毒になぁ」


 顎を擦って苦笑いすると空を見上げた。正午近くだというのに太陽の光は弱く、冬の始まりを告げる風は一段と冷たさを増している。じっとしていると寒く、流石に長時間しゃがんでの土いじりは腰にくるので遠慮したい。

 立ち上がって鈍い痛みに顔を顰めるとリディアが新たな苗を入れた箱を持って近づいて来る。


「疲れちゃった?」

「ああ、おっさんにはちとしんどいな」

「それなら休んでていいから」


 くすりと笑ってリディアは箱を地面に置くとしゃがんで土に触れ、軽く手で掘り苗を手に取ると根をそっと解してからその中へと入れた。小さな掌が土で汚れ、履いている靴の先も同様に土まみれになるが気にしていない。


「これ全部、ハーブだな」


 近くで草むしりをしていたルークが寄ってきて箱の中の苗を一瞥し、今はまだ細やかな葉の茂る小さな株に手を伸ばす。

 森の中で田畑を耕しひっそりと生活していたハスタータの生活の中でもハーブは身近な香辛料であり薬草だ。どこか懐かしそうな顔で葉を指先で軽く押し潰し、その指を鼻先に持って行って香りを楽しんでいる。


「食べられないお花ばっかりよりも、食べられる植物も植えた方が楽しめるでしょ?」

「そりゃそうだけど。ハーブを地植えしたらマメに手入れしないとあっという間に野生化して、他の植物の場所を奪うからな……」

「じゃあ、止めといた方が良い?」


 思案気に眉を寄せて尋ねられ、ルークは「うーん」と唸る。数種類集められたハーブの苗を愛しそうに眺めて「大丈夫だろ」と頷いた。


「本来は今の時期に植えるのはあんまりお勧めできないけど、こいつら丈夫だし。結構綺麗な花も咲くし。手が付けられなくなったら引っこ抜きゃいい」

「抜いちゃうの!?」


 驚いて目を丸くし、野生化してしまったら抜かれてしまうハーブの境遇に同情する。


「心配ない。こいつら本当に強いから。挿し木で増やしてから抜けばいいし」

「そうなの?」

「それに男爵は植物に詳しいんだろ?」


 首肯したリディアにルークはじゃあ任せとけば問題ないと笑った。つられたように少女も微笑んで、大丈夫だと言われたことに勇気を得たかのように次の苗をそっと両手で包むようにして取り上げる。

 ルークも苗を手に取り「もう少し離してから植えた方がいい」と助言しながらリディアの手伝いをし始めた。


「お前、姉ちゃんはどうした?」

「一旦森に帰った。こっちに移り住むための準備をするために」

「へえ。てっきり森に帰るとばかり思ってたがなぁ、王都に来るのか」


 冬の冷たい水のように清冽で、凛としたロリーは森の中で生きる方が相応しい気がした。自然豊かな場所の方がきっと彼女らしく生きられる。都会に流れる水は森の水に比べ汚れ、淀んでしまう。

 それでもロリーは弟を心配し、この王都で店を持ちハスタータとディアモンドを繋ぐという理想を掲げて頑張っているティナを放って戻ること等できなかったのだろう。


「いつまでもおれなんかの心配しなくていいのに……」


 少々うんざりした顔のルークに正面にいたリディアが「違うの」と声をあげた。ロリーが王都に移住するのはルークの為じゃないのだと首を振って反論する。


「わたしが頼んだの。フォルビア家で働いて欲しいって」

「フォルビア侯爵の所で働くって……」

「領地のフォーサイシアは葡萄から作られるワインと、足が速くて丈夫な馬を育てて生計を立ててるんだけど……。もっと他にも特産品になる物が欲しくて。ハスタータには独自の染織技術があるでしょ?それを教えて貰って共同で商売できたらいいなって」


 両手を地面につけてルークの方へ身を乗り出すとリディアはにこりと微笑んだ。可愛らしい顔の向こうに豊かな膨らみが揺れているのを見て耳を赤くして「へ、へえー……」と俯くルーク。


「まずは織り機を作って、試作して、上手くいったら織り機を量産してハスタータの人に働いてもらえたらいいなぁ。勿論ハスタータの里には売り上げから謝礼を払うようにするから」


 いいでしょ?と小首を傾げて何故かルークに了承を得ようとする。そう言われても決定権の無いルークは困るしかなく、至近距離でシャツに窮屈そうに収まっている胸を見せつけられては純情な青年には刺激が強すぎるらしい。


「ロリーにはハスタータの里との交渉とか、相談とかに乗ってもらおうと思ってるんだ」

「解った!解ったから……、ちょっと離れてくれ」

「どうして?」


 きょとんとした顔で自分とルークとの距離を確認するが、離れて欲しいと懇願されるほど近くは無いと解ると怪訝そうに首を捻る。そして青年の頬が赤くなっているのに気付いてそっと手を伸ばしてきた。


「ねえ、顔赤いけど大丈夫?風邪でも引いたの?熱あるんじゃない?」

「引いてないからっ!」


 伸ばされた手を反射的にルークは払い除け、逃げるように尻をつけるとそのまま後ろへとずり下がる。

 跳ね除けられた手に驚いてリディアも同じように地面に勢いよく尻もちをついた。その拍子に上下に大きく揺すられた弾みで、なんとか留められていたボタンが限界を迎え宙を飛んでいく。


「あ――っ」


 リディアはゆっくりと顔を巡らせてボタンを目で追う。掘り起こされた黒い土の上にころりと転がる小さな白いボタンはひとつでは無くみっつ。


「もうっ!」


 左手を地面に叩きつけて苛立ったように立ち上がると、シャツの胸元をぎゅっと握りしめて落ちたボタンを探して拾い集める。

 恥ずかしがるよりも憤っている少女の姿にレットソムは苦笑いした。

 間近で目撃することになったルークの方が気の毒なぐらい真っ赤になっている。シャツの下にはインナーを着ていたので下着や胸自体が見えたわけでは無いが、形やくっきりとした谷間と真っ白な上胸の膨らみは顕になっていた。

 長年姉と二人で生活してきていればそれぐらいは目にしたことがあるだろうが、細身のロリーには無い物がリディアにはあり、それが血の繋がらない異性であるということが言いようのない羞恥と後ろめたい気持ちとなって苦しめている。


「目の保養だと思ってありがたく脳裏に焼き付けときゃいいんだよぉ」

「そんな!」

「実際焼き付いて頭から離れないんじゃない?」


 いつの間に現れたのか男爵がルークの目の前にしゃがんで、きゅっと鼻を摘まんだ。口元は笑っているが、琥珀の瞳は強い光を宿して軽く睨み上げていた。


「すぐにでも忘れさせてやりたい」


 剣呑な瞳にルークがあっという間に青くなり「もう、忘れたから!」と必死に鼻にかかった声を上げる。「ほんとかな?」左に頭を傾けて思案顔。途端に震え上がった青年は両手を合わせて謝罪した。


「ほんとにほんと!見たおれが悪かったからっ。さっきの全部、今の男爵の恐い顔でどっかへ消え去ったから!」

「本当に消えたか確かめたい所だけど……。ま、今回はこれくらいで許してあげるよ」


 ルークの鼻を解放すると軽い身のこなしで立ち上がり、リディアが探していた最後のひとつを拾い上げて「はい」と手渡した。


「ありがとう」

「どういたしまして。でもリディ。また大きくなったんじゃない?」

「そうなんだよねぇ……。いい加減うんざりだよー……。ねえ!ノアール。胸が小さくなる魔法作ってよ」


 煉瓦を使って花壇を囲っていたノアールにリディアが無茶なお願いをする。美麗な面を上げて迷惑そうな表情を隠しもせずに「えー?嫌だよ」とはっきりと拒絶された。魔法と勉学を愛する少年は高尚な物である魔法を使って、些細なコンプレックスを解消しようということが許せないのだろう。


「魔法はみんなのためにあるんでしょ?じゃあわたしの悩みを聞いてくれてもいいと思うんだけどな……。フィルなら叶えてくれる?」


 次に選ばれたのは魔法学園の学生の中で一番の魔力と技術を持つフィル。それを流れる汗を腕で拭って微笑むと「そんな勿体無いお願いは聞けない」男として素直な意見で断った。


「なんでよー!全然勿体無くないんだから。邪魔だし、先月作ってもらったドレスもサイズが合わなくなるし、重いし、肩凝るし。その内着られる服が無くなって裸で生活しなきゃならなくなったらどうするの?」

「その時は魔法作ってあげるから……」


 ノアールが渋々請け負うと頬を膨らませて「絶対だからね!」と念を押し漸く引き下がった。

 流石に着る服が無くなる程大きくなることはないだろうから、きっとリディアの望む魔法が作られることは無い。


「ティエリにボタンつけて貰おう。みんなも昼食の用意できたから食堂にどうぞ。そこの仏頂面の護衛騎士もね」


 リディアを促して歩き出しながら、全員にも中へと入る様に勧める。ちゃんとクライブにも声をかけるが、挑発的な笑顔を浮かべているので騎士の表情が更に険しくなった。

 それでも全員手を洗って回廊から屋敷内へ上がり食堂へと移動する。

 細長い十人座れるテーブルには温かな湯気を立てている料理が並んでいた。真っ先に座って「いただきますっ」と食べ始めたのは紅蓮で、その隣にノアールが座り、前にフィルが腰を下ろす。リディアはティエリと共に居間へと移動したのでクライブはノアールの前に座ったセシルの顔を睨みながら入口に立つ。ルークはノアールの右隣りに座った。


「便利屋も食べなよ。ティエリの料理は男子寮の食事にも負けないから」


 学園の男子寮で出される食事は美味いと評判だが、男爵がその味と自分の侍女が作る料理と比べることができることに疑問が湧く。


「なんでとかいう愚問を口にする前に席について食べた方が良いよ」

「……まぁ、そうかもなぁ」


 セシルに関する多少の疑問点など気にしていては仕方が無い。開いている場所に適当に座り目の前の食事に手を伸ばす。

 貴族の屋敷で出される無駄に手の込んだ料理では無く、心の籠った家庭料理ばかりのティエリが作った料理はどれもこれも男爵が言うように美味かった。野菜の煮物も焼いた肉も、トマトソースで和えられた麺も、新鮮な卵で作られたオムレツも、ほくほくのじゃが芋で作られたコロッケも、カボチャのサラダも丁寧に裏ごしされたコーンスープも全て。

 セシルが雇っている侍女は普通の家庭で育った料理上手な少女だ。他に掃除洗濯、裁縫が人並みにできるくらいの何処にでもいるような少女は、フォルビア侯爵が男爵に宛がった侍女だった。

 一向に使用人を雇おうとしないセシルを見かねて、一応希望を聞いてからティエリを探して派遣したのだ。その時男爵が唯一出した条件が「普通の料理が美味いこと」だった。

 きっと出された食事が口に合っていなかったらティエリはその場で解雇されていただろう。満足できる腕だったからそのまま雇っているのだ。

 リディアが食堂にやってきてセシルの隣に座ると温かな料理に舌鼓を打つ。「美味しい!」を連呼して嬉しそうに食べる姿は、家庭料理に飢えているのが窺えて少々切なくなる。男爵の侍女は「ありがとうございます」と頭を垂れて誇らしげに微笑む。

 食事の間に交わされた会話は取り留めも無い話しばかりで、後から思い返しても記憶に残っていないような物だった。


 それがかけがえの無い物なのに――。


 今回の依頼は男爵の屋敷の殺風景な庭を、華やかで居心地の良い場所にしたいというリディアからの物だった。

 セシルと共に花を植えて、楽しい思い出を作りたい。

 隠された王子が名前を得て、その権利を安全に手に入れられるように協力していたセシルが仕事を終えディアモンドを去る日が近々来る。

 残るか残らないかを決めるのは男爵自身だが、はっきりとどうするかは口にしない。

 それでもなんとなくふいっと姿を消してしまいそうな雰囲気があり、そのことに対する危機感と不安がリディアにこの依頼をさせたのだ。


「セシルから教えてもらったことは全部覚えておこうと思ってるのに、一緒に見た樹の名前すら忘れかけてるの」


 北にあるノアールの故郷のラティリスを訪れた時に、庭に植わっていた良い香りのする樹の名前をセシルに教えて貰ったらしい。

 小枝の先に房状に白い花を下に向け沢山咲いていた。香水の原料にもなるらしいその樹の名前と、五つに分かれ花びらがまるで蕾のような形状でとても可憐な姿をしていたことも蕩けるような香りと共に覚えておこうと思っていたのに。

 人の記憶とは酷く曖昧な物で、時と共に風化していく。

 鮮明に刻み付けておくことは難しく、元来人は忘れる生き物である。それでも覚えておきたいと願っている記憶が薄らいでいくのは辛く悲しい。

 今回の依頼によって新たにできた楽しい思い出すらもいつかは色褪せて消えて行くのだとしても、リディアは微かな希望に縋りたいのだろう。


「リディア様、植木屋がいらっしゃいました」

「ありがとう。ティエリ」


 呼び鈴が鳴り訪問者を出迎えたティエリが戻って来て、待っていた植木屋の訪いを告げると素早く立ち上がって隣のセシルの手を取りリディアは入口まで小走りで向かった。

 まだ食べ足りない紅蓮が未練がましくテーブルの上を見ながら立ち上がるのを見て、侍女が「宜しければ包んで、帰りにお渡ししますが?」と有難い申し出をしてくれる。それに破顔して頷き、紅蓮はもう一働きする為に歩き出す。

 もう腹一杯だったノアールとフィルは苦笑しながらその後に続き、レットソムも遅れないように急いだ。

 外へ出ると鉄の門から一本の樹を乗せた荷馬車が入って来ていた。根元を麻布で覆われて荷台に括り付けられている樹を見てセシルが「スティラックス……」とその名をぽつりと呟いた。その隣で満足そうにリディアが微笑む。


「お待たせ」


 ひらりと荷台から飛び降りた銀色の髪の少年に気付いて目を剥く。紺色の瞳をキラキラと輝かせて、動きにくいドレスから解放されたアシュラム王子は茶目っ気のある笑顔を浮かべた。


「おいおい、王子様がこんな所に居ていいのかよぉ」

「王城は息が詰まりそうで。たまには息抜きしないと」

「付き合わされる方の身にもなれってんだ」


 ライカは赤茶色の三白眼に諦めを滲ませ、ため息を吐いて馬の首を撫でている。王子として認められた後で護衛がライカひとりだとは考えられないので、気心が知れ我儘の通る友人だけを連れてこっそりと城を抜け出してきたのだろう。


「不用心だなぁ」


 今頃王子を探して王城内は大騒ぎのはずだ。近衛騎士団の連中の心労を思うとこっちまで胃が痛くなる。

 もうちょっと優秀で抜け目のない護衛をつけないと、この王子を王城に閉じ込めておくことは出来ないだろう。


「ここには私に危害を与える人などいないのだし、こうしてのびのびできるのも久しぶりだしね」

「後で怒られるだろうにー……」

「それでも」


 化粧をしていない顔はもう美少女には見えない。それでも整った顔立ちと品のある雰囲気は王子の純粋で澄んだ美しさを際立たせていた。


「友達とこうして過ごせる時間はなによりも大切だと思うから」


 日々王子としての教育を受け忙しく過ごしている少年は気軽に街へと出て友人と会うことは出来なくなった。胸を張って友人だと呼べる数少ない者達が集まっていると聞いてじっとしていられるような性格では無い。

 ライカもそれを駄目だと強いることはできなかったのだろう。


「なんか厄介な人間も一緒に来たね」


 王子とその護衛を見て男爵は肩を竦めて嘆息する。「そんな意地悪言わないで、仲間に入れてよ」と懇願したのは王子。

 そして顔を顰めて鼻を鳴らしたのは護衛。


「帰りに命を狙われても知らないよ。責任とらないからね」

「ライカは優秀だから平気」

「どうだか」

「それならその身を以て確かめるか?」


 腕を疑われたライカは頬の傷を歪めて笑うと、不穏な空気を纏って一歩近づく。その間に割って入って「二人が運んでくれたスティラックスを早く植えよう」と声をかけたのはリディアだった。

 セシルには余計な喧嘩はするなと目で訴えて、ライカにはごめんねと笑いかけて。

 荷台には紅蓮が上がっていてクライブと共に固定してあった紐を解いていた。ライカが舌打ちをして手伝いに向い、王子も楽しそうに作業している中へと飛び込んで行く。


「所長も手伝ってくださいよ」


 ノアールが鼻先まで下がった眼鏡を押し上げながら黙って見ているだけのレットソムに手招きする。


「年寄りを少しは労われってー……」

「そんなこと言って最近紅蓮と暇さえあれば鍛錬してるじゃないですか」

「それはお前がしろっていったんだろうがぁ」


 頭を掻きながら樹の根元へ移動するとフィルがにこりと笑いながら揶揄してくる。グロッサム伯爵の短剣をまともにくらったレットソムに、あんな攻撃を避けられないようでは困ると嗾けたのはフィルだ。


「いっせーの」


 紅蓮が掛け声をかけるのに合わせて抱え上げる。男八人にかかればまだ若い樹の一本ぐらいは軽々と持ち上げられた。葉の落ちた樹は細い枝を頼りなく震わせながら運ばれていく。クライブが掘っていた場所へ。


「ゆっくりな」


 根元を覆っていた麻布を取り払い、そっと穴へと下ろされていく。リディアが深く掘れと注意していたお陰で、ぐらつくことなく植えることが出来た。

 春の終わり頃には白い花を咲かせて良い匂いを庭中に漂わせるに違いないスティラックスは食堂で飯を食べながらでも、居間で寛ぎながらでも見ることが出来る様にとこの場所へと植えられた。

 今はまだ余所余所しく居心地が悪そうにしているこの樹も、根を張ればきっと堂々と枝葉を伸ばしてくれるに違いない。


「ノアールの家にあったのと同じ種類の樹だね」


 幹に触れてセシルが呟く。その声に気付いてノアールが「そうなの?」と驚いた様に目を丸くした。


「そうだよ。知らなかったの?」

「自分の家なのにね」


 二人がかりで責められてタジタジのノアールは口籠って曖昧な言葉しか口に出来ない。広い庭にどんな樹が植えられているかなど、よっぽど興味が無ければ知らないだろう。特に今は葉が落ちてしまっており、一番美しく印象的な姿を想像することは難しい。

 落葉し枝と幹だけの状態でこの樹の名前を言い当てられる男爵の知識の深さと観察眼こそが異例なのだ。


「セシル、一緒にお花を植えよう」


 差し出された左手をセシルは眩しそうに目を細めて見つめ、誘われるままに手を重ねた。冬に咲く花を選んで集められた苗を二人で植える。

 そこにはひとつの願いが込められていた。


 根なし草に根が生えますようにと。


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