第三十一話 新しい関係
睫毛が震えてゆっくりと目蓋が押し上げられる。焦点を結んでいない瞳を覗き込んで「カメリア」と呼びかけると、声の聞こえた方向へ綺麗な顔を横向かせた。頭部に巻かれた白い包帯がその拍子にほんの少しずれ、レットソムはそっとそれを直してやる。
「しょ……ちょう?」
「大丈夫か?吐き気がするとか、酷く痛むとかないか?」
「す――せん」
喉が乾燥して擦れているのかカメリアは上手く喋れずに咳き込んだ。レットソムは水差しからグラスに水を注ぎ、首の後ろに腕を入れて抱え上げるようにして起こしてやる。その唇にグラスを当てて少しずつ流し入れてやると、ゆっくりと水を嚥下した。
「所長、風邪の具合は」
潤った喉からはいつもの美しい声が流れ出てきてほっと安堵する。頭部に怪我を負った際に後遺症として言葉が不自由になることもあるからだ。
「なんだぁ……自分の心配じゃないのか?ミシェルに薬を貰って飲んだら一発で治ったよ」
「よかった」
そっと枕に頭をおろしてやると目元を細めてそう言うので首の後ろがそわそわして落ち着かない。左手でそこを擦って誤魔化すと眉間に皺を寄せて「お前な」と小言を言う準備をした。
「逃げるどころか向かって行ったって聞いたが、ああいう場合は刃向わずに逃げろっ」
カメリアは襲撃者が二人事務所に侵入して来た時にヘレーネの制止を振り切って近づいてきた男の腕にしがみ付いたらしい。たおやかだが全くお淑やかさの無いカメリアには、自分が逃げるよりもヘレーネに危害が及ばないようにと動く事しか選択肢が無かったのか。
「すみません。つい」
「つい、じゃねえよっ!お陰でこっちは大変だったんだからなぁ」
「ありがとうございます」
「なんだそれはっ。ありがとうじゃねぇよ!」
坊主頭を掻きむしり叫ぶレットソムをカメリアは優しげに微笑んで見上げている。
「心配して下さったんでしょう?」
その質問には仏頂面で曖昧に返事するしかできなかった。正直に心配していたと言えないのは捻くれたおっさんに長い年月をかけてなってしまったからだ。
眠たそうに目を瞬かせるカメリアの額に手を乗せて「朝が明けるまでまだ時間がある。もう少し眠ってろ」と呟けば、小さく頷いて大人しく瞼を閉じる。直ぐに聞こえる規則正しい寝息に安心して椅子から腰を上げると病室と診察室を繋ぐドアを開けて出た。
「気が付いた?」
グレアムが仮眠を取っていた寝椅子から身を起こして欠伸をする。目を擦りながら病室の方を見るので、起きたが少し会話をした後直ぐにまた寝たと報告した。
「ちゃんと会話ができたのなら問題ないかな」
「他になにもないように祈るしかない」
「――柄にもないね」
くすくすとグレアムは毛布を畳み立ち上がると、肩と首を回して凝りを解そうと努力する。いつ急患が来るか解らない状態の医師は自分の部屋でゆっくりと睡眠を取ることは無い。
毎日世話になっている寝椅子には毛布と枕が診察室の端に置かれ、整った顔で人柄も優しいグレアムは女性に人気があるのに恋人を作る暇も余裕もなさそうだ。
「お茶でも淹れるよ」
床を軋ませながら簡易台所へと立つグレアムの背中は若いのにどこか哀愁が漂っている。
疲れていないはずはない。
「金にならない魔法学園の医師なんか辞めて、こっちの方に力入れた方がいいんじゃねぇのか?」
アイスバーグ医院は連日大盛況の病院だ。陽のあるうちはグレアムの父である医院長が患者を診ているので、魔法学園に行かなくなれば昼までゆっくり眠ることが出来る。それに夕方まで身体が空くので女性と付き合うことも可能だ。
「んー……別に金が欲しくて学園に勤めてるわけじゃないから」
困ったように笑いながらマグカップを手に戻ってくる男から、紅茶の入ったカップを受け取って大仰にため息を吐く。
「お前はまだ叶わぬ恋に見きりつけられねぇのかー……。未練たらしい」
「別に誰にも迷惑をかけてないんだ。かまわないだろ?」
「見てる方が痛々しいんだよぉ」
朝方は冷え込みがきついので、熱々の紅茶は好もしい。
吹き冷ましてから啜ると良い香りが鼻孔を通って体まで行き渡るようだ。
「痛々しい?」
苦く笑ってグレアムがやっぱりと目を伏せる。
優しげな目元に滲む日々の疲れと、報われない想いの痛みが若い医者を魅力的に彩っていた。柔らかな顔立ちは整い、確かな技術と腕があるのにただひとりの振り向いてくれない女に焦がれているのだから堪らなくもどかしく苦しくなるのだ。
「表情が乏しくて、底意地の悪いミシェルのどこがそんなにいいんだか」
「そんなことないよ。ミシェルは美人ではないけど情が深くて、頼まれたら嫌だと断れない押しに弱い性質なんだ。だから魔法学園の講師も引き受けることになったし、如何わしい薬も乞われれば作りもする」
ガリガリに痩せ嗄れ声の女をこれほど力説して誉める男も珍しい。思っていることを顔に出さず、どこか皮肉気に話す姿に惹かれる要素がレットソムには見当たらずグレアムの好みがかなり他者とかけ離れていることは間違いなかった。
「本当は自分の薬草園を開いて植物に囲まれて暮らしたいとミシェルは思ってるんだ。植物と触れ合っている時間だけが彼女を幸福に満たし、キラキラと輝かせる――」
でもその傍にグレアムは存在することが出来ない。
「いつか学園を去り、ミシェルがディアモンドを離れるその日まで……少しでも傍にいたいと思うのは、やはり未練がましいかな」
「薬草園ならディアモンドでもできるだろう?」
「ミシェルはまどわしの森に住みたいと、昔から言っていたから。きっと王や法がそれを許さなくても勝手に入って行って住みつくよ」
グレアムはこれからまどわしの森がハスタータ一族の解放によって、禁忌の森では無くなると知らない。誰でも自由に出入りが出来る様になればミシェルは直ぐにでも学園を辞めて森へと移住するだろう。
そうなるとグレアムの恋は永遠に成就すること無く縛りつける。
後悔と共に。
「相手が押しに弱いんだったら、もっとぐいぐい行ったらどうだ?ミシェルが根負けするぐらい、引くくらい強引に」
「そんな」
目を丸くしてグレアムは首を振る。ミシェルとの付き合いは十年になり、その間ずっとグレアムの片思いだ。そもそも二人の間の年齢差がその付き合いと同じく十歳となれば、ミシェルが彼を男と見れないのも無理ないこと。知り合った頃のグレアムはまだ17歳の少年で、ミシェルは27歳の大人の女性だったのだから。
きっと本気だと思われていないのだ。
彼女の中ではずっとグレアムは17歳の少年のままでいるのかもしれない。
「男だと思われてないんだったら、お前も立派な大人の男なんだと示して見せればあるいは――」
「今更、新しい関係を築くのは難しいよ」
グレアム本人が諦めている。
その癖ミシェルへの想いを断ち切れず女々しく引きずっているのだから始末が悪い。
確かにローム王が言うように年を取る程に護りに入り、現状に満足しようと努めてしまう。人は元来臆病で傷つくのを恐れる生き物だ。若い時は夢や理想に胸を焦がし、ままならない人生に抗おうとみっともなく足掻くことが出来るが、ある程度年を取ると体裁や世間体ばかりに目が向いて努力せずに諦めてしまうことが多くなる。
それが悪いことだとは思わない。
誰かと競い合うこと無く、波風の無い穏やかな日常を大切にすることは尊いことだ。
だが。
目の前の男が少し行動するだけで現状が変わるのだとしたら。
人を寄せ付けず生きているミシェルは情が深いが為に裏切らない植物に逃げている。寄せられているグレアムの想いを受け入れず、現状維持を望んでいるのはただ臆病風に吹かれて一歩を踏み出す勇気が無いからだ。
お互いに向き合って一歩踏み出せれば、絡んだ糸が解け、自然と受け入れられることができるようになると、ここ数カ月の経験から学んだレットソムには放っておけないことだった。
「ここだけの話だが、まどわしの森は近々解禁される。出入りが自由になるぞ?ミシェルはきっと学園も王都も去り森へと逃げる。それでもいいのか?」
本来ならば守秘義務のある国の政についての情報。
それでもグレアムの背中を押すために利用する。隠された王子の情報に比べれば取るに足らない物だ。
同じ後悔するのなら、やるだけやった後で後悔した方が幾らかましだろう。
「いやだ」
グレアムは思わずといった風に拒絶の言葉を洩らした。動揺し揺れていた瞳が一点を見つめ必死さを湛える。もう一度「いやだ」と感情を籠めた熱い言葉を繰り返すとシャツの上に上着を羽織った。
「ちょっと、行ってくる。急患が来たら医院長を起こしてくれる?」
「了解」
手を上げて請け負うとグレアムはにこりと微笑んで「ついでに上手く行くように祈っていて」と返事も待たずに慌ただしく出て行く。
「カメリアのついでに祈れって?……全く」
苦笑いしながらすっかり温くなった紅茶を飲む。魔法と科学の国として名高いフィライト国には宗教は無く、願うことはあっても祈るという文化は無い。隣国のキトラスが宗教大国で国交があることから、最近じわじわと困った時や迷った時などに奇跡を祈ることもある。
だがそれは神に対してでは無く、未来の時の流れに漂う運命を少しでもいいものに変える為に心を強くさせるための行為。
運命も流れも己の努力次第で変えることは可能だからだ。
「上手く行くと良いな。グレアム」
ミシェルが一番感情を波立たせるのはグレアムと居る時なのは解っている。彼女は自分の中のグレアム少年と現実のグレアムとのズレに戸惑い、翻弄されながらも平静を装い冷たくあしらっているのだ。
「本当に――不器用で難儀な奴が多いな」
その中にレットソム自身が含まれることは自覚している。
自嘲して紅茶を飲み干すとマグカップを手に台所へと向かった。




