第三十話 平穏と安全
公爵の部屋は入ってすぐ客間で更に両壁に扉があり、他にも部屋があることが窺えた。落ち着いた茶で統一された家具とクリーム色の壁紙の客間は、顎の張った男っぽい顔立ちのプリムローズ公爵とはかけ離れた印象を与える。
背中の中程まで伸ばしたそれを項でひとつに結わえた白金の髪は緩く波打ち、角ばった肩と盛り上がった胸筋が荒々しさを感じさせた。暁色の瞳は鋭く、深く刻まれた眉と鼻筋が威圧的だ。
ヘレーネと向かい合ってお茶の時間を楽しむには時刻は遅く、テーブルの上に置かれているのは酒器だった。
「なんだ……酒でも酌み交わして親睦でも深めようってか?」
「そんな所」
唇だけで可憐に笑むとヘレーネは座っていたソファの端に寄り「どうぞ」と隣へ座るようにと呼びかける。
プリムローズ公爵は鼻を鳴らして紅蓮が抱えているロビウム伯爵を一瞥するが、直ぐに興味が失せたようにレットソムへと視線を注ぐ。
「こんな夜分に訪ねて来るとは無粋で粗野な輩だな」
琥珀色の液体が入ったグラスを傾けて一口飲むとため息と共に吐き出す。さして大きな声では無い囁き声のような物だったが、広い部屋の隅々にまで響き渡る様ないい声をしていた。
「御無礼を承知で窺いました。ですがヘレーネ嬢までいらっしゃるとは思っておらず、少々戸惑っておりますが」
半眼でヘレーネを睨み据えるが当の本人はふわりと破顔して、公爵に付き合いグラスを掴むとこくりと喉を鳴らして美味しそうに飲んだ。
「私も責任を感じているんです。今回の件」
「…………漸く本題か」
酒を飲み干して机に置くとカランと氷がグラスにあたり涼やかな音をさせる。公爵は長椅子のクッションに上半身を横たえて埋め、寛いだように見えるがその実ピリピリと神経を逆立てているのが解る程筋肉は張り詰めていた。
警戒している――。
そのことはロビウム伯爵も気づいているようで、紅蓮に担がれたままの状態で気を揉むような視線を公爵へと向けている。
「私を襲う過程で怪我をした、こちらの厄介事万請負所の美しい事務員さんにはしっかりとした謝罪と、誠意を見せて頂きたくて」
お願いに来た所存ですと続けたヘレーネの紺色の瞳は真っ直ぐに公爵を見つめている。その視線を受けて唇を歪めると、ゆっくりと半身を起して首を傾げた。
白金の髪がさらりと揺らめいて広い背中に流れる。
「何故私が謝罪と誠意を見せねばならないのか甚だ疑問だが――貴様も同様の要望で来たのか?」
「概ね、そうです」
頭を掻いてレットソムは苦笑いを浮かべる。別段謝罪や誠意を見せて欲しいと思ってきたわけでは無い。そんなもので気持が治まるようならきっとこんな場所まで危険を冒してこなかっただろう。
欲しいのは平穏。
そして安全。
だからこそ戦わねばならないのだ。
「アルベルティーヌ様の屋敷へ献上品と共に見舞う少年少女達を襲う目的はただひとつしかない。貴方の領地の魔法道具商のパド・トオドもアルベルティーヌ様の屋敷を訪ねる栄誉を預かった少年だ。知ってますか?その少年が行方知れずになっていることを」
「行方知れず?」
ヘレーネが初耳だと不安げな顔をする。「確かだ。紅蓮とフィルはトラカンに行っていたからな」と答えれば、プリムローズ公爵がソファの後ろに立つ二人の少年を見やり僅かに眉を寄せた。
「更に今日はヘレーネ嬢を襲った。次は高級洋裁店のエルティアナ・バークス嬢かな?それともギリアム=カクタス殿かな?」
「パド・トオドのことも、ヘレーネ=セラフィスの件も私には無関係だ。何を根拠に言っているのか」
手を伸ばしてボトルを掴むと空になったグラスに注ぎ、氷を解かすようにグラスをゆっくりと回す。ぐっと鋭さを増す瞳の色を隠す様に伏せて勢いよくグラスを呷る。
「それからまどわしの森にトラカンからの調査団が入り、そこに住んでいるハスタータと呼ばれる一族を連れ去っていることも解っています」
「まどわしの森は王の直轄地だ。私とて簡単に出入りできないその森に、調査団が入っていると」
酒の入った熱い息を吐き出してプリムローズ公爵は楽しげに笑った。肩を揺らしておかしそうに。
「しかもトラカンから差し向けられた調査団で、アナナス魔法研究所にそのハスタータは無理やり連れて来られその失われた魔法を得るべく日夜研究されていると」
「……違うと仰いますか?」
「いや」
あっさりと認めて公爵は両腕をソファの上部にかけて脚を組んだ。ふんぞり返ったその姿は威風堂々としており、ロビウム伯爵が平伏し忠節を誓いたくなるほどの風格が漂っている。
「陛下がそれを知らぬと思っているのなら、お前たちが戴いている王というものはそんなに愚かな人物だと吹聴しているような物だぞ」
そうだ。
ローム王は弟であるチェンバレン=プリムローズ公爵が禁忌の森へ手を出していること等とっくの昔に知っている。
知っていながら黙ってそれを許しているのは、今はその事の責を問うている場合では無いからだ。
ハスタータの現状を知っていながら対処しないのはローム王の罪。
プリムローズ公爵のみを責めることは出来ない。
「そんなもの、私の弱みになりはしないのだ。がっかりしたか?」
得意げな顔の公爵をヘレーネは柔らかな顔で見つめて静かに「いいえ」と答えた。
「残念ながら私は陛下に期待も、夢も抱いておりません。ですが、今は公爵様の罪咎を罰する者はいなくても、いずれその報いを受けることになることをお忘れなく」
小首を傾げるとヘレーネの銀色の髪は音を立てて、さらさらと純白のドレスの肩口から落ちる。内側から薄く輝きを放つ真っ白な肌、小さなバラ色の唇。大きな紺色の瞳に形の良い小さな鼻をした頼りない美少女にしか見えないのに、動じることなく公爵と堂々と向き合っている。
「いずれカールレッド王子は身罷られる。次の王位継承権は私の物になるのだ。王となる私を誰が罰することができる?」
「本気でなれると思っていらっしゃる?」
「当然だろう?他に誰がいる?」
公爵の挑発にヘレーネは一段と華やかに微笑んだ。
「貴方が一番恐れている――隠された王子、アルベルティーヌ第二王妃の御子息が」
「生死も、何処にいるのかも解らぬ王子など私は恐れたりはしない」
喉を鳴らしてククッと嗤うとプリムローズ公爵は身を乗り出して、ヘレーネの華奢な顎に指をかけた。
「恐れないのなら何故、ヘレーネ嬢を襲った?何も知らないパド・トオドを攫った?」
「だから根拠のない発言は慎めと言ったはずだ」
呆れた表情で顔を向け公爵は苛立った瞳でレットソムを睨む。
「ロビウム伯爵の御者が伯爵の命令で昼間うちを襲撃したのは自分達だと白状したぜ?」
ちらりと公爵の視線は紅蓮の方へと向けられる。そこで青くなりながら「私は何も知らん!関係ない!」と泡を食って否定するが、逆にその必死さが疑わしく見えた。
プリムローズ公爵が再び酒臭いため息を洩らしてやれやれと首を振る。
「どうやら、私に王位に就いてもらいたいロビウム伯爵が勝手に画策した事らしい」
立ち上がると公爵は書棚の中から箱を取り出し、戻ってくるとレットソムに差し出した。木でできた掌二つ分くらいの大きさの箱。
受け取るとかなり重く、そして中で金属がぶつかり擦れ合う音がした。
「金で解決する方法しか浮かばん。ロビウム伯爵の浅慮の無い愚かな行為に対し本来ならば私が責を負う必要は無いが、伯爵の私に対する忠義には思う所もある。謝罪はすべきだろう」
軽く頭を下げて見せた上で隣室にいる従者を呼びつけ、伯爵を騎士団へと引き渡せと命じた。
「そんな……」
解っていたことだったろうに、実際に目の前で切り捨てられたことはかなりの衝撃だったらしい。ぶるぶると震えているロビウム伯爵を紅蓮は憐れに思ったのか、そっと床に下して元気づけるような肩を叩いてやる。
「ロビウム伯爵、貴殿の思いに免じて出来るだけの口添えはする。ただし領地没収と降格は免れん。覚悟しておけ」
「…………はい」
固い声で返事をしたが、ロビウム伯爵は全て失い唇をギリギリと噛み締めた。唇の端から滲む血がその悔しさを物語っているようだ。
「貴殿ほど私に期待してくれている者はいなかっただろう。礼を言う」
やがて騎士団を連れて戻った従者と共にロビウム伯爵は退出して行く。その扉が閉まる瞬間「プリムローズ公爵に栄光あれ!」と高らかに声を上げたロビウム伯爵の悲痛な叫びは胸に苦い物を抱かせた。
信じ全てを捧げた公爵に結局は踏み躙られ、捨てられたというのに最後までプリムローズ公爵の栄華を望むとは。
その公爵自身は涼しい顔でソファに戻り、酒を注いで何事も無かったかのように舐めるように飲んでいた。
「報われねぇなー……」
哀れなロビウム伯爵に思いを馳せるが、所詮は自分で撒いた種である。同情の余地なしと切り替えるしかない。
「どうした?用は済んだはずだろう?」
立ち去る様子の無いヘレーネとレットソムを胡乱な目で見つめ、プリムローズは忌々しそうに問う。
謝罪と誠意は見せたはずだという素振りに紅蓮が舌打ちする。
「第二、第三のロビウム伯爵が出ても困るんで、ここはひとつ確約が欲しいと思いまして」
「私の与り知らぬ場所で勝手に動く貴族たちを止めること等できん」
「いずれは王になろうという御方が、そんな弱気なことを言うとは」
「私はまだ王では無いからな」
「いやだ」
くすくすとヘレーネが男達の牽制を笑い、そして軽やかに間に入って来た。
「だから王弟殿下。貴方はまだ御自分が王位をつげると本気で思っていらっしゃるの?」
「――それ以上の侮辱は許し難い。いくら女でも容赦はせん」
「あら?でも公爵様は私を隠された王子だと疑っていらっしゃったから襲ったのでは?」
「ヘレーネ」
煽り過ぎだ――。
慌てて名を呼び注意を促すが、ヘレーネは微笑みを消し冷たい相貌ですっと立ち上がると胸に右手を当てて軽く前に上半身を倒して辞儀をした。それは男性が目上の者に敬意を表して挨拶をする仕草。
「お前――」
まさかと口の中で呟かれた言葉にヘレーネが小さく首肯する。
「これ以上犠牲者を出すことを私は望まない。隠れることで無力な者が傷つき苦しむのなら、堂々と名乗り自らの足で立って見せる」
「待て!ヘレーネそれは」
他の者も承知していることなのか?
ヘレーネの独断で決めたことなら、それは今までの苦労を全て無にする行為だ。
腕を引いて真偽を確かめようとその顔を覗き込めば、そこにあるのは頑なな意思と強い決意。
「私が隠された第二王妃の王子。まだ名も無い、無力な王子だ」
迷い、拒んだ末に辿り着いた道の先が王子として立つこと。
望まぬその立場に押し上げられようとしている悲劇の王子。
「これで貴方が王位に就くことは難しいと解ってくださったはず。ハスタータからは手を引き、貴族を扇動して関係の無い者を傷つける事は二度としないでください」
「…………敢えて危険を承知で私に晒すとは、」
嘲笑し公爵は「愚かだな」と目をぎらつかせる。
王子だと公表されていないヘレーネを殺すのは簡単なことだ。この場にいる者全て皆殺しにしてしまえば、プリムローズ公爵は知らなかったと言い訳し、身に覚えのない謝罪を強要され攻撃されたので仕方なく斬り伏せたと弁明することもできる。
「ライカはどうした!?」
常に傍にいるはずのライカの姿はどこにもなく、この非常事態にも出てくる気配が無い。ライカがいなくとも他の大和屋の兄弟がついているはずなのに――。
どういうことだ?
「所長。誰か来る」
簡潔に紅蓮が報せる。耳を澄ませるが気配も靴音も聞こえないが、研ぎ澄まされた紅蓮の耳には些細な音すらも聞こえるのだろう。
「きっとライカが仕事を終えてここへ向かっているんだと思う」
「何が起きてる?」
「言ったはず。今回の件に関しては私も責任を感じてると」
ノックされ公爵の返事を待たずに扉は開かれた。その間から入って来たのは宰相であるブルースター侯爵と殺気だったライカ。ヘレーネを見て無事なのを確認すると刻まれていた眉の皺が少しだけ緩まる。
「夜分遅く御無礼致します。――王子殿下、漸く準備万端整いましてございます」
プリムローズ公爵には軽い会釈だけを寄越し、宰相はふっくらとした頬に笑窪を刻んで微笑むとヘレーネの前で恭しく跪き頭を垂れた。
「夜明けが来ればフィライト国全土に新しい王子の姿と、その名を以て尊ばれる善き日となりましょう。その後の祭典と御披露目の式の準備も抜かりなく済んでございます」
「それでは新しい名も?」
「はい」
ヘレーネは少々緊張した面持ちでその名を待つが、宰相はそれ以上答えずににこにこと王子を見上げているばかりだ。
「ライカ、他の子たちの安否は?」
「トラカンの魔法道具商の息子以外は無事だ。一応警告しておいた」
「良かった。引き続きパド・トオドを探して。無事だと良いけど……」
隠れ蓑にされていた少年少女が無事かどうか、自身の安全よりもそちらを優先したようだ。先程口にした決意は強固で、他に犠牲者が出ることがない様にヘレーネは傍で護ると主張しただろうライカを説得したのか。
たった独りでヘレーネは公爵と戦おうとしたのだ。
レットソムが来るだろうと予測していたとしても無謀で、危険な行為でしかない。
「公爵これでハスタータからは手を引くと約束して――」
「それは陛下から直接お話があるかと」
「え?」
後はハスタータの件を確約できればとヘレーネが再び公爵に向き直ると、宰相が跪いたまま言葉尻に乗せてくる。
戸惑ったヘレーネが宰相を見下ろし、ライカが身を引いて膝を着いたので更に狼狽えた。レットソムは入口を見て目を丸くし、慌てて床に跪き突っ立ったままの紅蓮に同じようにするようにと目で訴えるが「誰だ?この人」と入って来た人物に首を傾げる。
フィルが「王様だよ」と囁いて首を抱き抱えるようにして床に伏せさせた。
「久しぶりだな、チェンバレン」
部屋着の上に上着をかけただけの身軽な姿で現れたローム王は柔和な顔に幾つも皺を刻んで微笑んだ。弟への呼びかけは親しげで、飾り気の無い物だった。
蜂蜜色の髪は下ろされたままプリムローズ公爵と同じように緩く波打ち、ふわりと細い頬にかかっている。紫の瞳はゆっくりと翳り、その目に悲しみが広がった。
「ハスタータの長と話し合い、彼らの存在を公表することにした。それによりハスタータはフィライト国のどこでも好きな場所で暮らす権利を得それを守るため、私は彼等を不当に扱うことを禁じる法を作った。よって」
王は大きく息を吸い、天を仰いでから言い渡す。
「アナナス研究所の閉鎖と魔法学校の無期限停止、それから騎士団の監視の元でチェンバレン=プリムローズ公爵の半年の謹慎を言い渡す」
「……御意」
プリムローズ公爵は感情の消えた声で返答し、力無くソファに埋もれた。王が伴ってきた近衛騎士団の騎士がすっと動いて公爵の背後へと回る。
これでひとまずは安全が手に入ったのだとほっと息を吐き、ローム王が退出する足元をただ眺めていた。
「便利屋に」
そのまま遠ざかるだろうと思っていた足が止まり、頭上からどこか愉快そうな声が降りてくる。
「ノアール=セレスティアがいるな?」
「……はい」
セレスティア伯爵の子息であるノアールの名前を王が口にすることはおかしいことではない。だが全ての貴族の名前は知っていたとしても、その子息の名前までは覚えてなどいないはずだ。
ヘレーネの近くに居る者の名前だからだろう。
「それとクインス男爵が一緒に私の所に来た」
「男爵とノアールが」
ノアールだけならまだしも男爵と共に王の元へと参じるとは一体どういうつもりなのか。
あまりにも不安な組み合わせに背中を嫌な汗が流れて行く。
「なにか失礼を?」
恐る恐る問えばローム王は「そうだな」と軽く応えた。
「私が代わって責を負いますので、どうか――」
「違う。彼らが来てくれたおかげで私はハスタータの長と連絡を取り、新たな関係を築くことが出来たのだ。叱らないでやって欲しい」
「どういう――」
「人は年を取ると守りに入ってしまうものだ。新しいことを始めることが億劫で、現状維持が一番だと思ってしまう。若いというのは素晴らしいことだ。柔軟で輝いている。そのことを教えてくれた。感謝している」
「はあ……」
笑い声を残してそのまま立ち去って行く王の後ろ姿を、視線を上げて見送り苦笑いする。今まで隠されていた王子とハスタータが、一気に人々の前へと否応なく押し出されることになるのだ。
それが彼らにとって幸せなことになるかどうかまでは解らない。
それでも何かが変わろうとしていることだけは確かだ。




