第二十九話 反撃!
王城は中心にブリュエ城が優雅に聳え、美しい庭園と沢山の離宮や屋敷が周りに建ち並び複雑で広大な作りになっている。離宮と屋敷は回廊や階段で繋がっており、そこで働いている者達でさえも隅々まで把握することはできない。
国の政を司る機関も王の住まう場所も内包し、フィライト国の中枢としてもっとも重要で護りの堅い場所でありながら、多くの貴族や他国の貴人が出入りする一番危険な場所でもあった。
大臣職や領地が遠方にある者の為に王城の中には寝泊まりできる場所がそれぞれに宛がわれている。沢山の部屋や執務室を管理する為にその家の従者がおり、王城で雇われている侍女や従者の中に時折違う制服を身に着けている者もちらほらと見られた。
プリムローズ公爵は元々王族だ。
与えられている部屋は王室の近くにあり、そしてその部屋は他の貴族たちとは段違いに広いらしい。
王城内の廊下をロビウム伯爵の背中を半ば後ろから小突くような形で歩かせながら先を急ぐ。忌々しそうに肩越しに振り返りながら伯爵はだんまりを貫きつつ足を運ぶ。
天井は高く美しい装飾が成されているが暗い中で魔法の灯りが照らし出すことが出来るのはその一部分にすぎない。塵ひとつ落ちていない程磨かれ、掃除されているブリュエ城はレットソムには窮屈で息苦しい場所にしか感じられなかった。
「こんな所に住むなんざ、物好きだな……」
「……所詮庶民には解らんだろう」
嘲るような口調で漸く口を開いたロビウム伯爵が不意に足を止める。丁度屋敷と屋敷を繋ぐ通路に入った所だった。背後からと前方から人の気配と息遣いが押し寄せてくる。
「所長、」
呼びかけてくる紅蓮の声が上擦っていて、その興奮ぶりが顔を見なくても伝わってくるようだ。その隣で身を硬くしたフィルが眉を下げて困惑した表情でレットソムを窺っている。
「紅蓮。殺生は無しだ。これは戦争じゃないからな」
「解ってる。喧嘩だろ?」
「そういうことだ」
ついこの前まで戦乱の中に身を投じ、命のやり取りをしていた紅蓮に一応釘を刺しておく。血が滾るのに任せて力を振えば確実に死人が出る。
それでは卑怯な公爵やロビウム伯爵と同じ殺戮者として罪人の烙印を押されてしまう。
「王城で騒ぎを起こしたらアルフォンス殿に叱られるが、仕方ねぇよな」
「捕まるのは私では無く、お前等だがな」
高笑いをしてロビウム伯爵がレットソムから離れ、勝利を確信したように武装した兵士の元へと歩いて行く。
「王城に忍び込んだ不審者を捕えろ!生死は問わん」
「は!」
短い返事で兵達は応えそれぞれの武器を構えて少しずつ距離を詰めてくる。
「久しぶりに暴れられる……。さっさとかかって来いっての!」
紅蓮が青い瞳に熱を込めて皮手袋をした拳同士を打ち合わせると火薬の匂いと共に火花が散った。腰を落として右足を前にして半身に構えると左肩をぐるりと回し、胸の前で掌を擦り合わせて大きな火種を作る。
「来ないならこっちから行くぜ?――火炎弾!」
火種を握り込んで拳に炎を纏い思い切り振り抜くと炎の弾が飛んでいく。更に右左と打ち込むとその都度弾は勢いよく飛んでいき、兵士たちの鎧をへこませ、皮膚を焼き、当たった衝撃で床へと次々と倒してゆく。
「なんだ?魔法か!」
「魔法なら魔法緩和の武具で防げるはずだ――」
「じゃあ、なんだよ!」
数歩下がり騒ぎ立てる兵士達には動揺が広がって行く。戦闘に魔法が使用されることが当たり前のフィライト国とその周辺諸国には、魔法防御の効果のある防具や装飾具を身につけている者が多い。完全に防ぐことは出来ないが、威力を削ぐことは出来る。
「お前らが相手にしてんのは“炎の拳士”だ。魔法じゃねぇよ」
魔術だ。
魔法とは別の方法で発動させられる魔術を魔法緩和の武具で防ぐことは出来ない。
「おらおら、かかって来いって!腰抜けども」
手応えの無い兵士たちに紅蓮は少々物足りないようだ。煽る様に声を上げるが男達は武器を手にじりじりと下がって行く。
「所長、ロビウム伯爵が」
「ちっ。逃げようってのか」
フィルが兵士たちの間を縫って奥へと逃げて行く伯爵の姿に気付いた。舌打ちをして「紅蓮、前だ!切り開け」指示すると「了解」と軽快に答え、炎の拳士は掌を叩き大きな音をさせると両手を勢いよく床に打ち下ろす。
「炎爪!」
絨毯の上に指を折って爪を立てると、その先から炎の帯が一斉に伸びて行く。十本の細い炎の筋が兵士の足元に辿り着くと逃げる隙を与えず舐めるように燃え上がった。靴に服に火がつき、その熱さに恐怖し飛び回り火を消そうと躍起になっている。
「城で貴族を護る兵士がこれじゃ」
紅蓮は息を短く吸い込むと低い姿勢から床を蹴り、前方の兵士に突っ込んで行く。短髪の赤い髪がさながら炎のように揺らめいて、仄かな魔法の灯りの中で輝いた。
怪しげな術を使う襲撃者へ兵士たちは必死に剣を打ち込むが、その度に手の甲に金属をつけた皮手袋に弾かれ、時には鋭い一撃で刃が真二つに折られる。紅蓮はもう術には頼らずに己の拳のみで戦っていたが、若い癖に戦い慣れしている紅蓮に圧されて何人かは武器を放棄して逃げ出していた。
「行くぞ」
レットソムはフィルを促して走り出す。床に倒れ呻いている男達を踏みつけて転んだりしないよう注意しながらロビウム伯爵を追う。
伯爵は会議場の前を通り抜けて階上へと向かう階段へと飛び込んだ。元騎士団員とはいえレットソムは王城内へ上がったことは無く、ロビウム伯爵の方が城内部には詳しい。ここで逃げられてしまえばただの侵入者として捕まり、報復するどころか一生牢の中だ。
「逃がすかよっ」
そう遅れること無く階段に続く角を曲がった所で重い一撃を受けた。
腹部に硬い感触。
そして内部に感じられる金属の冷たい輪郭すら生々しい。
「誰が逃げると言った?」
薄ら笑いを浮かべるロビウム伯爵の顔がすぐ目の前にあった。肩と肩がぶつかり合って、顔を見降ろしても伯爵の身体が邪魔で刺されている場所は見えない。
刃は背中まで貫通はしていないので獲物は短剣かナイフ。
「騎士団に引き渡せば、いらぬことを口走るかもしれん輩を私が生かしておくと思うか?」
「思わねぇなー……」
「だろう?」
上腕に力を入れて伯爵が後ろへと下がろうとする手首を掴んで引き止めた。その手を捩じ切るようにして柄から退けさせ、すかさず鳩尾に肘を入れ、前屈みになって下がった顎に向けて更に肘を見舞う。たたらを踏んだ伯爵の左膝に蹴りを入れると無様に階段の上に倒れ込んだ。
階段の縁で頭を打たなかったのは受け身が巧かったからでは無く偶々だった。
「所長、それ」
フィルが腹に刺さったままの短剣を見て震える。息を飲み見上げ来る灰紫色の瞳には怯えが浮かんでいた。
「大丈夫だ。引き抜きゃ血が大量に出るが、刺さってる間は問題ない」
「問題ないって!?一体どういう神経してるんですか……」
「あいつら増援連れて戻ってくる。急がねぇと」
腕を伸ばして転がって悶えている伯爵の首を掴んで無理矢理立たせると引きずりながら階段を上がる。腹に違和感はあるが、痛みは無い。神経が興奮している所為か、それとも痛みを感じる神経がやられてしまったか。
今は痛みに煩わされずに済んで助かるが。
「所長、手当てしましょう」
「大丈夫だ。逆に下手に抜いた方が危ない」
「だめです。紅蓮!」
呼びかけると遠くから返事があり、廊下の向こうが赤く明滅した。熱風がこちらにまで届くほどで、王城の壁や床をこれだけ炎で焼き焦がした以上ただで済まされるとは思えない。
勿論紅蓮を騎士団に引き渡すつもりはない。
全てはレットソムの責任だと紅蓮とフィルが咎められることがない様にできるだけのことはするつもりだ。
「どうした?」
廊下を走って来て階段を数段上がると紅蓮はフィルを見上げ、それから伯爵と所長であるレットソムを見る。
「紅蓮は伯爵を見張りながら追っ手を食い止めてくれる?」
「了解」
説明など求めずに紅蓮は頷いてレットソムの手からロビウム伯爵を奪う、その時になって腹部に刺さったままの短剣を見つけ「所長」と心配そうな瞳を向けて来た。
「大丈夫だ、心配するな」
「治療するから紅蓮は戦いに集中して。所長はこっちへ」
「おい、だから必要ねぇってのー……」
問答無用でぐいぐい引っ張って階段を上って行くフィルに連れられて、一階上の廊下へと出る。一番近くにあった扉をそっと開けると中に誰もいないのを確認してフィルはレットソムを押し込んで自分も入ってきた。
ここは使用人の支度部屋のようで椅子が数脚と簡素なテーブル、それから衣装箪笥が置かれていた。全身が映る鏡も用意されていて、化粧品などが置かれているのを見ると女性用のようだ。
「紅蓮ひとりでいつまでも食い止めることは難しいでしょうから」
「それなら戻ってさっさと先に――」
「死ぬつもりなんですか?」
「あ?」
思いがけない強い眼差しと憤りの混じった声にレットソムは虚をつかれた。フィルは背中を押して椅子へと座らせると躊躇いも無く短剣の柄を握る。左手でレットソムの鳩尾を押えて一気に引き抜こうとするのを「待て!殺す気か!?」と思わず制止すると「その逆ですが」不思議そうな顔をする。
「いいか。これを抜いたら勢いよく血が流れる。もしかしたら腸が出てくるかもしれん。そうなったら間違いなく」
「直ぐに塞ぎますから」
「塞ぐって、お前どうやって」
廊下を複数の足音が近づいて来るのに気付き、フィルがはっとした顔で扉を振り返る。だが足早に靴音は遠ざかって行き、再び静かになった。
「ぼくは所長があまりにも無謀なことを言い出したので、てっきり死にたいのかと思っていました」
「ちげーよ」
死に急ぐほど人生を悲観してはいない。
即答するとフィルが安堵したように頷いて「だったら」と再び右手に力を入れて引き抜こうとする。それを腹に力を入れて阻止して「だから!止めろって!」懇願すると吐息を吐き出すような声で静かにするようにと注意された。
「キトラスに留学していたことを覚えていますか?」
知っていると答えるとキトラス神聖国では巫女が病や怪我を治す秘術があり、それは神の奇跡だと言われているが実際は違うのだとフィルは呟く。
己の寿命を分け与えることで病や怪我を治療する、いわば生命力の譲渡なのだと。
「それを応用して治癒魔法を強化すればこれぐらいの怪我は直ぐに塞がる」
「俺はお前の寿命を削ってまで治してもらおうなんて思ってねぇよ」
「大丈夫です。治癒魔法は己の中にある回復しようとする力を増幅する物なので、そこに上乗せしてぼくの生命力を流し込むだけ……。寿命では無く元気を分けると考えて下さい。一日に使用される生命の力の余剰分を所長に使うだけですから」
「上手く行くのか?」
「理論上では」
治癒魔法はフィルが言った通り、自分の中にある回復力を活性化させ治りを早くする魔法だ。目覚ましい治癒はできないが、通常より早く治り、傷ならば痕が残りにくい。ミシェルが薬を調合する際に使う魔法がこれで、使い手の熟練度で治癒の速度も効果も上がる。
彼女の薬が恐ろしく効くのはそのお陰だ。
「力を抜いて下さい」
そう言われてもこれから行われることを思えば難しい。
フィルの腹部を押える掌がシャツの上からでも熱く熱を持ってきているのが解る。灰紫色の瞳はどこか茫洋としていてもうレットソムを見ていない。
どうやら既に魔法を構築しているようで、こうなってしまえば抵抗すら無意味になってしまう。
「……体の良い実験台かよ」
背もたれに体重を預けてレットソムは目蓋を閉じた。出来るだけ力を抜いて心を無にしていると、ゆっくりと体内の金属が外側に向って動き始める。肉と筋繊維が引き攣れるように動き、中から血だけでは無いなにかも一緒に出て行こうとしているのを感じて冷や汗をかく。
思わず手を動かして傷口を押えたい衝動を必死で堪え疼くような痛みと、抜け落ちて行く体温に身震いした。
刃が全て体外へと出ていきその部分にフィルの柔らかで細い手が当てられる。シャツがじわじわと濡れて少しずつ重くなっていく。
微かに耳に届く言葉はどうやら異国の言葉で、よくよく聞けばキトラスの物だった。歌う様な旋律が消え入りながら空気に溶けて行く。美しいというより儚いその響きは胸の奥を優しく鼓舞し、包み込むように温もりを与えた。
「所長」
何時の間にか眠っていたのか。
呼びかけられてレットソムは弾かれたように飛び起きた。座っていた椅子がガタリと音を立てて、今何処にいるのか直ぐには理解できずに混乱する。
フィルが血のついた手をタオルで拭いながら苦笑した。
「どうですか?」
尋ねられ慌てて腹部を見下ろすとその場所は赤黒く濡れてはいたが、痛みも無く、傷も無かった。
「……すげぇな」
「これだけですから。ぼくができるのは」
魔法だけしかないのだと悲しげに微笑んで。
「これだけって言うが、その歳でこんな魔法が使えるのはきっとお前だけだろうよ。もっと自信持てや」
「そんなことありません。ザイル様はもっと高度な魔法を使えますよ。ぼくより年下なのに」
「お前、比べる所間違ってるぞ?ザイル殿は公爵の御子息様だ。恵まれた環境にいる奴は出来て当たり前だ。お前はそうじゃないだろ?それは才能で自信持っていいんだ」
細い肩に手を伸ばしぐっと掴むと、その腕で頭を引き寄せて笑う。
「本当に優秀な人材ばっかり集まってくれて俺は楽できて助かるわー……」
「そんな……。でもあれぐらいの攻撃を避けられないのは問題です。所長、これからはもっと自己鍛錬を怠らないようにしてもらわないと困ります」
「あー……」
しっかりと小言を言われてレットソムは感動もそこそこにフィルを解放するとドアへと向かう。廊下は静かだが階段の方では戦闘が行われているようだ。
「急ぐか」
「はい」
フィルを伴って支度部屋を出ると階段へと走る。どうやら紅蓮は移動しながら戦っているのか、レットソム達よりも一階上で戦いを繰り広げているようだ。
階段を転がり落ちてくる兵士たちは顔を腫れ上がらせ、腹部や頭を押さえて気を失っている者が殆どで紅蓮の「もっと来いよ」という嬉々とした声に怯んでいるのか踊り場で一塊ができていた。
「フィル、あいつらを眠らせるなり戦意喪失させるなりしてくれ」
「紅蓮に恨まれるかもしれないけど、これ以上時間をかけていてはこっちが不利ですからね」
頷いてフィルは虚空を見つめ、今度はフィライト国の言葉で「魔力は人の中に。命の力。心の力。繋ぎ合わせ混ぜ合わせ、命を吹き込む」と囁いた。
厳密に言えば魔法を発動させる時になんらかの決まった言葉は必要ではない。魔法は構造を理解し、それに己の中の魔力と混じり合せることで発現する。
理解するということが大事で、巨大な魔法を扱うにはその複雑に構築され組み込まれた事柄全てがどのような働きをするか把握しておかなくてはならない。深い造詣と理解力が備わっていなければ強力な魔法は使えない。
だがそう難しくも無い魔法ならば構造と働きを脳内でなぞりながら魔力を合わせれば即座に発動させることが可能だ。
可能だとしても殆どの魔法使いが何らかの言葉を口にする。
精神を集中させるために、自分の心を奮い立たせるために。
「……眠れ」
そっと瞬きをひとつ。
薄い紫色の霧がふわりと階段を上って行く。魔法緩和の武具を身に着けている兵士は「なんだ!」と騒ぎ立てながら纏わりつく霧を払おうと無我夢中で腕を動かした。だが逆に空気に乗って動き、霧は更に口元へと移動し濃厚さを増す。
レットソムは階段を駆け上り、眠気に抗えず頽れ階段から落ちそうになっている兵士を受け止めて座らせてやる。
バタバタと眠って行く兵士たちの中で息を止めたまま駆け上がり、紅蓮の傍まで行くと上等の魔法装飾具を付けた伯爵はフィルの魔法の影響を受けずに元気そうな姿でレットソムを睨みつけてきた。
階段を上らずに廊下へと逃げ、振り返ると紅蓮とフィルが追いかけてくる。その背後ではまだ紫に煙る階段が見えた。
「上手いことにこの階は公爵の部屋へと繋がってる。走るぞ!」
「了解!」
紅蓮は伯爵を肩に軽々と担ぎ上げると走り出す。走って上下するたびに腹を紅蓮の肩に打ち付けることになるので苦しそうに呻いているがそんなことはどうでもいい。
時間を費やし過ぎた。
随分王城内が騒がしくなっていて、取り押さえられるのも時間の問題のような気がする。
近衛騎士団が黙っているわけが無く、今に目の前を阻まれるかもしれない。
そうなる前に。
ようやく辿り着いた両開きの扉の前でレットソムは焦るままノブを握り締め、礼儀知らずのならず者のように乱暴に開け放った。
そして。
「遅かったわね」
美しい微笑みを浮かべたヘレーネと渋面のプリムローズ公爵に迎えられ、状況を上手く把握できぬまま扉が背後で閉じられた。




