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第二十八話 たったそれだけ


 車輪が石畳の上を走る音と馬車を引く馬の蹄の音が通りに木霊する。真夜中を過ぎ寝静まった旧市街の中でその音はひどく耳につく。

 冷え込んだ外気の中で馬の吐き出す息が白く滲む。

 御者台の上の男が寒さにぶるりと身体を震わせ、グラム川にかかる橋に差し掛かった所で馬が足を踏み鳴らして立ち止まり「おい、どうした?進め」と怪訝そうな声をかける。手綱を引いても、打っても動こうとしない馬に弱りきった御者は腰を上げて進む先になにかあるのかと目を凝らす。


「なにごとだ」


 車内から苛立った声が響き、乱暴に御者台の後ろにある小さな窓が引き開けられた。そこから向けられた鳶色の強い眼差しと、不始末があった場合は容赦しないぞという無言の圧力が感じられる。


「それが……馬が急に動かなくなりまして……」

「さっさとなんとかしろっ。全く、使えん奴め」


 舌打ちされ窓がぴしゃりと閉められた。このままここで立ち往生している訳にもいかず、更には横暴な主人をこれ以上怒らせたくも無い。

 男は渋々御者台から降りて、馬を落ち着かせ宥める為に近づいた。二頭立ての馬車を引く馬はどちらも性格が穏やかで従順なのだが、臆病な所がある。

 きっと道の先に気になる様ななにかが落ちているのだろう――。


「なんだ?」


 馬の轡を握って鼻を撫でてやっていると目の端に青白い小さな光が散ったのが見える。首を傾げて橋の欄干へと顔を向けた。


 そこでまた光が散る。

 それが火花だと気づいた時には遅かった。


「うわあ!」


 悲鳴を上げて顔を背け、両腕で頭を庇う。青白かった火花が瞬く間に赤い炎になり、まるで意志を持つ蛇のように身体をくねらせながらこちらへと襲いかかってきた。

 馬が激しく嘶き、前脚を高く上げる。馬車と繋がれている馬具が軋み、二頭の馬はそれぞれ別の方向へと逃れようと暴れ出す。車体は激しく上下左右に揺さぶられ「なんなんだ!」と中から主人の怒鳴り声が聞こえた。

 その声に動揺と困惑が混じり、多少の恐怖と不安が窺えて御者の日頃の鬱憤が多少解消されたのは内緒である。


「うわっ!熱っ!」


 だがほくそ笑んだ矢先に熱風と炎に炙られて男は衣服に着いた火を消そうと石畳の上を無様に転がった。


「なんで!熱い!やめてくれ!」


 泣き叫びながら懇願すると肩を掴まれて腕を背中にねじ上げられた。俯せの状態で石畳に頬をつけた御者はそこで漸く何者かに襲撃されたのだと気づく。

 殺されるかもしれないと震え上がり「命だけはっ」と命乞いをすると、押え込んでいる相手がくすりと笑ったようだった。火薬の匂いが鼻を擽り、焼き殺されるのかもしれないと自分が火だるまになる姿を想像して目の前が真っ暗になる。

 掴んでいる手の逞しさと、力の強さ、押え込んでいる体重から相手ががっしりとした体躯をしていて、それなりの場数を踏んでいるのが伝わってきた。


「頼むから、死にたくない」

「そりゃそうだろうなぁ。人はみんな自分が死ぬかもしれねぇって思った時はそういうもんだ」


 応えは背後からでは無く橋の方からで、そちらへと顔を向けると涙で滲んでよく見えないが前屈みの姿勢の悪い男が歩いて来る。


「あんた、何者だ?」

「俺か?俺は便利屋だ」

「便利屋……。そうか、便利屋のレットソム」


 顔が見えるほど近づいた所で眠たげな目蓋を押し上げてにやりと口を歪ませて笑う男。坊主頭に不精髭姿のまるっきりやる気の無さそうな便利屋は、今日は何故か翡翠の瞳を炯々と輝かせていた。


「……報復に来たのか」

「ほう?報復に来たと理解しているってことはぁ、昼間に事務所を襲ったのは自分達だと認めたも同然だぜぇ?」

「あっ!痛ぇっ!」


 自分の失言に青ざめ、更に後ろから捩じり上げられている腕に力が籠められ、腰の上に膝を乗せられて体重がかけられる。


「ちがっ、おれは、なにも。全部、命令」

「だよなぁ?解ってるってぇ。詳しい話は本人から聞くからよ」


 便利屋は小者の御者など歯牙にもかけない様子で通り過ぎると馬車の扉を乱暴に開け、踏み台に足を引っかけて颯爽と乗り込んだ。

 その姿がその場に相応しくない程優雅で、御者は一瞬見惚れたが直ぐに痛みに我に返ると脂汗を浮かべて悲鳴を上げた。




 扉を閉めて乗り込んだレットソムを睨み上げ「なんだ貴様は!」と怒気を含んだ声で気勢を削ごうとするロビウム伯爵は整えた立派な髭をした気取った男だった。


「失礼」


 一応断りを入れてから向かい側に腰を下ろし真っ直ぐに見返すと、ロビウム伯爵は顔を顰めて闖入者の要求を待つ。

 ここで取り乱さないことに伯爵の豪胆さが見えた。

 この場面で有利なのはレットソムで、無駄口を叩かずに状況を把握し、なんとか打破しようと虎視眈々と様子を窺っている所に不気味さと狡猾さがある。


「さて、俺があんたに会いに来た理由は言わんでも解っていると思うが」


 僅かに眉を寄せて「私と貴様には面識はないと思うが、私の思い違いかな?」と首を傾げるので、初対面であることは間違いないので「そうだ」と頷いた。


「便利屋のレットソムという名は聞いたことあるだろ?」


 空々しくロビウム伯爵は腕を組んで、そう言われれば聞いたことがあると顎を動かして頷く。


「便利屋……厄介事万請負所とかいう事務所を経営しているのは貴様のことか」

「そうそう。今後はご贔屓に頼みますよ」

「貴様との縁など金輪際ないだろう」


 鼻を鳴らして冷笑した伯爵の高圧的な態度にはレットソムを蔑む物が感じられる。所詮は庶民が貴族に刃向った所で勝ち目は無いのだという自信がロビウム伯爵を強気にさせているのだ。

 自分の背後にプリムローズ公爵がいるということもあるかもしれない。

 レットソムはにやりと笑って「それもそうだな。あんたに今後なんてないんだからよ」と、こちらも薄汚い貴族と仲良くするつもりはないと宣言する。


「脅しか?」


 唇を歪めて笑いながらロビウム伯爵は背筋を伸ばして、脅しなどには屈しないぞと示して見せた。


「脅しなんかじゃねぇよ」

「なら――」

「報復だ」


 最後まで言わせないように伯爵の言葉に重ねて低く呻くように叩きつけた。殺気を纏ったレットソムに気圧されるように一瞬色を失ったが、直ぐに立ち直りロビウム伯爵が「なんの報復だ?謂れの無い報復に正義はないぞ」と責める。


「成程。昼間わざわざ大人数で訪ねて来てくれたことは無かったことにするってことか」

「なんのことかな?」

「うちの大切な従業員を怪我させておいてそりゃないんじゃないか?」

「誰かが怪我したのか?それは飛んだ災難だっ―――!」

「ふざけるなよ。俺が何の証拠も無く動くと……本気で思ってんなら、あんたとんだ鈍才だぜぇ?」


 右手を突き出し伯爵の顔の横の壁に思いっきりよく拳を打ち付けると、馬車が大きく傾いだ。身を乗り出す形になったレットソムと伯爵の顔の距離は近い。

 鳶色の瞳を覗き込むようにして睨みつけながら「身に覚えがないとしらを切るのも良いが」左掌で喉を包む。絹のスカーフが巻かれた首は男にしてはほっそりとしていて掌で簡単に握り締めることができる。


「公爵はあんたみたいな下っ端がひとりいなくなった所で痛みなど感じんぞ?」

「……先刻承知だ」

「それでも義理立てするってのか?」

「………………」


 揺るぎ無い忠誠心に感心しながら身を起こし、伯爵から離れると御者台へと繋がる窓を開けて声をかける。


「出してくれ」

「了解」


 そこには紅蓮と御者から奪った上着を着たフィルが座っている。手綱で叩かれて二頭の馬は大人しく並足で走り始めた。

 整備された石畳の道を馬車はゆっくりと進んで行く。


「どこへ連れて行くつもりだ」


 首を擦りながら渋面でロビウム伯爵が窓の外を見る。そこからは青白く輝くブリュエ城が見えているはずだ。


「あんたのとこの令嬢は可哀相な事にクインス男爵に惚れ込んでいるみたいだな?」

「なにを」

「会いたくて、恋しくて毎日泣き暮らしてると聞いたが」


 訝しげな伯爵に「本当だったみたいだな」と肩を竦めて見せた。

 セシルは約束通りあれ以来ロビウム伯爵の令嬢とは会っていないようだ。令嬢の中の恋心は会えない所為で更に燃え上がり、会いに来てくれない相手への思慕が募っていく。変な男が寄りつかぬように監視の厳しくなった令嬢は、屋敷から一歩も出ることができずに部屋に引きこもり泣いていると噂が流れていた。


「男爵になりすまして手紙を書いて呼び出したら、監視の目を逃れて抜け出してきたぜぇ」

「そんなこと有り得――なにっ!?ラヴィアン!」


 窓に張り付いて向こう側をよく見ようとしているが、馬車はあっという間に通り過ぎて行く。


「なにか見えたかい?」

「なにか!?だとっ」

「完璧に見える警備も、手引きする者がいれば簡単に令嬢でも抜け出せるさ」

「貴様っ」


 激昂するロビウム伯爵の顔は娘を心配する親の顔へと変わっていた。庶民の生き死には頓着しないが、我が子は別格らしい。

 セシルが言っていたように令嬢に変な虫がつくのが嫌なら籠に入れて閉じ込めておくしかないだろう。


 今更遅いが。


「今すぐ馬車を止めろ!ラヴィアンを連れて屋敷へ戻る!」

「令嬢はサルビア騎士団が保護してくれますよ。御心配なく」

「心配ないだと!これは立派なかどわかしだ!娘になんかあってみろ!ただじゃっ」

「カメリアの親も同じことを思ってるだろうよ。貧しい生活の中で大切に育て上げた自慢の娘が、怪我をしてまだ意識がもどらねぇんだから」

「ラヴィアンとその辺のあばずれと同じに扱うなっ!育ちも価値も違うんだぞ!」


 唾を飛ばして怒鳴り散らす伯爵の醜い顔を眺めながらレットソムはゆっくりと息を吸う。


 どこが。


 なにが。


「違う?貴族がそんなに偉いのか?同じ人間じゃねえか。命の重さはみんな同じだ。俺から見りゃ働きもせずに良い暮らしをしている令嬢よりも、病気の父親の看病をしながら一生懸命働いているカメリアの方がずっと価値があると思うがな」


 価値観など人それぞれだ。


 特に一般人と貴族とでは大きく違うこと等解りきっている。それでもこの世の殆どを支え生きているのは一般庶民で、貴族は数では勝てないが領地と金と権利を持っているだけ強い。大抵の貴族はその地位の上に胡坐をかいて偉そうな顔している。

 己の考えが一番正しいと思っているその傲慢さが我慢ならない。


「令嬢の安全を望むなら協力してくださいよ」

「言っておくが脅しには屈せん」

「そこまで義理立てするとは、何を確約されているんだかなぁ」


 娘の安全よりも公爵を取るとは。

 弱みを握られているのか、それとも王になった暁には重要な職を与えると約束されているのか。


「斬り捨てられることが解っていながら、公爵につくとはなぁ」


 坊主頭を掻いて苦笑い。


「ま、いいわ。目の前で斬り捨てられるという屈辱にあんたが耐えられるかどうか見物だなぁ」


 ロビウム伯爵はぎらつく瞳で睨みながら口を引き結んで声を出さない。ある意味そこまで忠節を尽くせるということは、プリムローズ公爵に魅力があるということだ。

 手なずける技術と人を引きつける能力は王気があるともいえる。

 好戦的で野心的な王が望まれる時代ならば間違いなくプリムローズ公爵は諸手を挙げて歓迎されただろう。

 ローム王を弑してまで玉座を得ることも出来ただろうに。


 時代に恵まれなかっただけ。


 たったそれだけだ。


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