第二十六話 鼓舞する声
一枚一枚書類を拾い集めながら、ぼんやりとアイスバーグ医師の説明を思い返す。カメリアが負った傷は刃物によるものでは無く、恐らく殴られたか、襲われて逃げた時に転倒して頭を打ったかした物らしい。
ベッドに寝かされたカメリアは青白い顔をしながらも、呼吸は静かで熱も無いことから詳しいことは意識が戻ってからしか解らないと言われた。
いつまでも眠っている顔を眺めていても仕方が無いので、ひとまずカメリアの家へ行き解っていることだけを伝え謝罪をして事務所へ戻ってきた。
カメリアの母は二年以上も続いている夫の看病も気丈に勤め、娘の怪我についても神妙な顔で聞き遂げ「ご迷惑をかけてすみません」と詫びた。迷惑をかけ大事な娘に怪我をさせたのはこっちの方なのに、逆に頭を下げられては立つ瀬がない。
治療費とこれから数日休む分の給金は出すので、ゆっくり養生してくださいと言えば「そんな事までして下さらなくても大丈夫ですから」と恐縮する始末。
取り敢えず押し問答をして治療費はこちらが持つことは了承してもらい、意識が戻って帰宅できそうならば自分が送り届けることを約束した。
「……こんなことになるとはなぁ」
書類を掴んだまま両手で頭を抱え目を閉じる。
カメリアを雇うことになった三年半前まで別段事務員がいなくても問題なく事務所は運営できていた。元々ひとりでできる範囲で細々とやっていたのと、レットソムが食べて行けるだけの収入があれば良かったからだ。
雇うと決めた時、まさかこんな事態が起こるとは考えもしなかった。
そもそもそれが甘かったのだろう。
仕事柄逆恨みされることもあるのだし、厄介事を引き受けるということはそれに付随する危険も等しくついてくるのだという認識が低かったのだ。
自分に向けられる物ならば問題は無いが、抗う力の無い弱い者へとその矛先が向くということへの可能性を知っていながら、どこかで大丈夫だと思っていた。
護れると、愚かにも思い込んでいたのだ。
騎士隊に所属していた時に世話になっていた分隊長のジェリドに「ちゃんと鍛えておけ」と指摘されるほどに、筋肉も神経も衰えていたというのに。
自分より四つ上のアルフォンスにも体力的に敵わなかったくせに。
そんな自分が誰を、なにを護れるというのか。
思い上がりだ。
ぬるま湯につかり、いつまでも全盛期のままのつもりでいた愚者。
やる気も失せてズボラな生活をしていたツケが回って、あろうことかカメリアに危害が及ぶとは。
責任など取れるはずが無い。
どうすればいい。
「――またひとりでやるしかない」
そうするしか方法は無い。
紅蓮もノアールも、フィルも、カメリアも全て遠ざけて。
「情けねぇなー……」
もう一度鍛え直して強さを取り戻し、全て護ってみせると言えない弱さに泣けてくる。今まで信じてついて来てくれた者達を放り出すことを選ぶ薄情さは裏切りではないのか。どこまでいっても中途半端な自分に嫌気がさす。
それでも抜け出せない。
また楽な方へと流されようとしている。
「本当に成長してねぇな」
自嘲の笑みを浮かべてゆっくりと腰を上げる。拾い集めた書類をカメリアの机に乗せると、開いて置かれていた出納帳に丁寧な文字が並んでいるのが目に入った。
最新の項目は“病院代”と記されている。
今日の日付にその項目が書かれ金額はまだ空欄のまま。カメリアが病院にかかることを予測しているわけなど無かっただろうから、そこはレットソムが使った銅貨十枚が記入されるはずだったに違いない。
「……風邪なんかでかかった病院代は対象外だろうがぁ」
文字を指でなぞり呟くと胸が苦しくなってくる。
ここにはカメリアの治療費を記載しなくてはならない。幾らかかろうがレットソムは全てを払う義務がある。そして出来るだけのことはしてやりたいという気持ちと、申し訳ない思いが打ち寄せる波のように責め立てているのだ。
「一生かかっても償えんかもしれんな」
寂寞たる人生に思いを馳せて、何もかもどうでもいいような気がしてきた。未来ある美しい女性の受けた傷と恐怖はどれほどの物か――。
しかも怪我は頭部。
なんらかの後遺症が残らないとは限らない。
あの時出かけずに事務所にいれば少し状況は変わっていただろうか。
だが病院に辿り着きミシェルと会話をしている途中で悪化した症状を思えば、大した違いは無かったかもしれないと思う。
その反面少なくともカメリアが怪我をするようなことにはならなかったはずだという変な自負がある。
病院までの距離はそう遠くは無いのに、カメリアを抱えて辿るその道中のなんとも言えない感情は二度と味わいたくは無い物だった。
服越しとはいえ初めて密着し体温を感じたカメリアの身体は柔らかく熱いのに、少しずつ冷たく硬くなっていくようでレットソムに焦りと恐れを抱かせた。色を失っていく唇も、睫毛の影だけでなく濃く深くなっていく目の下の部分も、脱力したままの身体も全て不安へと駆り立てる。
微かに上下する胸元だけがカメリアの生きている証しとなって希望を繋ぐ。
それすらも浅く間隔が遠くて――。
「二度と御免だ――」
こんなこと。
二度と。
「所長!カメリアさんが怪我したって、事務所が襲われたって本当ですか!?」
バタバタと足音を響かせながら駆け込んできたのはノアールだった。元々顔色の悪い顔を更に悪くさせて、眼鏡の奥の碧色の瞳が何度も忙しなく瞬きをしている。ヘレーネに聞いて魔法学園から走って来たのだろう。肩で大きく息をしながら、浮いている額の汗をぐいっとローブの袖で拭った。
「……今日は休みだとヘレーネは言わなかったのか?」
「聞きました。でも心配で」
足元に散っている書類を拾いながら近づいて来て「どうなんですか?」と真っ直ぐに見つめてきた。線が細く荒っぽいことは苦手なくせに注いでくる視線はまるで喧嘩を売っているかのように力強い。
そんな目で正論を吐くから酔っ払いが激昂するのだと何度言っても直す気配は無い。
ノアール本人は無自覚なのか、それとも自分は間違っていないのだと強い信念があるからなのか。
「カメリアが心配ならアイスバーグ医院に行ってやれ。まだ意識は戻ってないだろうが、目を覚ました時に知ってる奴が傍にいた方が安心するだろう」
「それなら僕より所長の方が」
「起きた時にこんなむさ苦しいおっさんがいるより、ノアールのような男前の若い奴がいた方が落ち着くだろうがぁ」
「所長は確かにむさ苦しくておじさんですが、頼りない僕がついているより安心できると思いますっ」
珍しくむっとした顔で書類を机に置くと荒い口調で反論してくる。確かに再び襲われる危険があるのならばレットソムが傍にいた方が安心かもしれないが、もうカメリアが襲われることは無いだろう。
少なくとも今日は、だが。
「ここに悪漢が押し入ったのはヘレーネが目的だったからだけじゃない」
「それは――脅し?」
「恐らくな」
紅蓮とフィルが何の目的でトラカンへと行ったのかノアールは知っている。そしてヘレーネの事情も本人から打ち明けられているのでその辺りの察しはつく。
元々頭が良く、物事を常に熟考するタイプなので、細かいことを説明しなくても助かる。
これに人間関係の感情の機微に対する思いやりや、人付き合いについての能力が高くなっていけば問題なく優秀な人材になるのだが、ノアールはなかなか他人と打ち解けることができない。
傷つけるのも傷つくのも嫌な少年は浅く狭い人間関係を維持し、深い所で心を通わすことを無意識下で恐怖し怯えているのだ。
「どうするんですか?これから」
潔癖な声がレットソムにこれからの意思を問う。
プリムローズ公爵の件から手を引けば当面の危機は去るだろう。だがフォルビア侯爵にこれは重大な切り札となると仄めかしたのはレットソム自身だ。
今更できませんとは言えない。
「ノアール、お前もう来なくていい」
碧色の瞳が大きく見開かれ、信じられない一言に驚きまじまじとレットソムを眺める。どういった意味でその言葉がかけられたのか吟味しているのか、直ぐには返答しない。
指で眼鏡の蔓を押えて少し俯くとノアールは大きく息を吐き出した。
「僕になにか落ち度があっての解雇要請なら甘んじて受けます。でもこれは違う。所長が恐れているのは報復ですか?それとも僕たちの誰かが傷つく事ですか?」
その言動が不似合いなほど大人ぶっていて滑稽だったが、いつもは魔法や勉学の世界に思考を漂わせ現実の世界からはほんの少し乖離して生きている少年が憤り、その感情を押えずにこちらへと向けようとしているのは驚くべきことにレットソムの腹の底をひりひりとさせた。
「もしそうならそれは杞憂だし、大きなお世話です。僕たちはみんな厄介事万請負所の仕事が歓楽街の人達の困った事や、安全を守ることだけで無いことぐらい解っています。危険もあることを認識しています。見くびらないでください」
上げられた瞳の激しさに一瞬息が止まる。
「所長が今なすべきことは僕の首を切ることでも、カメリアさんの怪我を自分の所為だと責めることでもないと思います。紅蓮もフィルも魔法都市トラカンで命を危険に晒しながらも必死で情報を得ようと働いています。それはただ仕事だからじゃなくて、所長から頼まれたからで、その信頼に応えたいからなんです。その所長が」
細い腕が伸ばされてレットソムの衿を掴む。ノアールの視線がシャツの右肩に行きその瞳が更に燃え上がる。
「みっともなく取り乱して、弱音を吐いてどうするんですか!カメリアさんを傷つけられて泣き寝入りするような人に僕たちは今までついて来たんだとしたら、あまりにも虚しすぎる。いつもはやる気がなくても、ここぞという時には頼りになるからこそ僕たちは所長に報いようと頑張るんです。所長。悪に屈したままでいいんですか?」
綺麗な唇から吐き出される言葉の若い辛辣さに笑えてくる。
「暴力は悪です。僕はだから争い事は嫌いだし、できれば逃げたい……。でもカメリアさんを襲った奴らは許せません。襲うように指示した奴を必ず見つけ出して、騎士隊に引き渡すべきです」
それができるのは所長だけじゃないんですか?
ノアールが凝視しているのはカメリアの血がついた場所。親しい者を傷つけられた怒りは少年の中にある、悪に分類される感情を呼び覚ます。
「……騎士隊に引き渡した所で相手がでかすぎりゃ、無罪放免にされる」
十五年前騎士隊を止めようと決意させた事件は今でもレットソムの中に燻っている。
よくある話だ。
国に尽くし、民の安全の為に働く騎士隊という仕事に少なからず誇りを持っていた頃。周りにいる同僚や直属の上官にも恵まれ、切磋琢磨技を磨き、積み荷に不正が無いかと目を光らせていた第三大隊での勤務。
書類と積み荷の中身が違うことに偶然気付き、上官に指示を仰ぎ積み荷を没収した。それに猛然と抗議した異国の貿易商は懇意の貴族の元へと遣いを走らせ、その貴族の身分が高く元老院の一員だったこともありその件は揉み消され積み荷は外国へと運び出された。
積み荷自体が盗品や違法性も無く、単なる書類の不備だったのだからと上層部から説明を受けたがレットソムは納得できなかった。
単なる書類の不備でも後ろ盾の無い一般の貿易船や貨物船は、申請された内容と積み荷が違えば問答無用で没収される。賄賂を渡されてもそれを拒むほどの良識は同僚と上官たちは持ち合わせていた。
それなのに。
名の通った力ある貴族と繋がりのある者は見逃してやれという、そんな馴れ合いの関係が騎士団上層部と貴族の中にはあるのだと解ったら急速にやる気が失せた。
誇りも一緒に。
それで騎士隊を辞めた。
引き止める同僚も上官も煩わしくて逃げた。
だから今回も同じことになる。
また失望せねばならないのかと思うと正直億劫だった。
「今の騎士隊は信頼に足ると思います。第二大隊の騎士の方はみな誠実だし、第一大隊には学園長もいる。近衛騎士団のトップにはアルフォンス様もいらっしゃる。この中で罪を無かったことにできるとは僕には思えません」
「いくらでも方法はあるさ」
法は完璧では無い。
抜け道があり、それを使って逃げられる。
「それでも、何もしないよりは動いた方が良い。自分ができることをやらないのは愚の骨頂です。だらしなくても所長は正義を重んじる人だと思います」
「正義なんかで腹が膨れりゃ盗みなんか働かねぇよ」
「でも」
ノアールは手を放して唇の端を持ち上げて笑った。
「くだらない依頼から、人生のかかった大切な依頼まで万請け負う所長の姿勢は尊敬に値します」
「……しょうがねえ。今はやるだけやってみるか。お前を首にするかどうかはその後で決めるわ」
最後の一言でノアールは青ざめて動揺する。その頭をそっと叩いて「だからカメリアの傍にはノアールがついててくれ」と頼めば、直ぐに表情を引き締めて「はい」と答えた。




