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 当時の会話を思い出すと、陽介は今でも苦々しい気分になる。

 両親の生命保険は結構な額で借金を支払っても、まだ十分にお釣りがあった。そして遺書には、子供のために残りのお金を使ってほしいと書かれていた。

 中年男性が教えてくれた内容で、陽介はますます混乱する。伯父さんから見せてもらった遺書とは、内容がまるで違っていたからだった。

 陽介への謝罪は確かにあったが、生命保険のくだりは一切なかった。頭の中が真っ白になり、陽介は思わず喫茶店を飛び出していた。

 向かったのは伯父さんの家だった。お金がどうこうよりも、真実が知りたかった。

 電車を乗り継いで辿り着いた伯父さんの家は――見事なまでに空き地となっていた。

 近所の人の話では、陽介が家を出るやいなや家を売って引っ越したらしかった。先ほどの中年男性の言葉が正しかったのである。

 ――家を新築したそうよ。この不景気に、羨ましい話よね。

 近所のおばさんからその話を聞いても、陽介は悔し涙ひとつ流せなかった。

 優秀になって苦労しないだけお金を稼ぐのが、両親の仇を打つことになると勝手に思っていた。

 けれど仇をとるどころか、陽介まで騙されていたのだ。両親は生きてる間も、死んだあとも食い物にされた。

 真実を知った瞬間、陽介は両親の死後、初めて涙を流した。体から力が抜け、なんだかどうでもよくなった。

 ボロボロ涙をこぼしているのに、何故か笑いがこみあげてくる。その後、気づいた時には自分が借りているアパートの部屋にいた。

 どうやって帰ってきたかもわからず、ふと鏡を見れば酷い顔だった。

 そして、その日から陽介は両親の仇討ちをしようなどと思わなくなった。とっくの昔に、自分も負け犬だったのだと気づいたからである。

 それからは普通に高校を卒業し、大学へ進学すると、奨学金を返済するために就職した。それが今の会社である。

「奨学金も返済し終わり、何の目的もない毎日を送っていた。そんな時に出会ったのが、アンタだ」

 そう言って陽介は、目の前で号泣中の女性を見た。他人の人生に心から涙し、悲しんでいる。こんな人間が世の中にいるなんて、少し前までは夢にも思ってなかった。

 当てもない毎日を漂ってるだけの人間が見つけた灯台みたいに輝く女性は、まるで進むべき道を示してくれてるみたいだった。

 自分とは正反対の性格が魅力的に思え、何気ない会話を連日していくうちに惹かれてしまったのである。

 そこらへんは口に出さず、陽介は当初伝えようとした話題に戻す。雪村薫は、人を信じ続けるべきだという話だ。目の前の女性はハンカチを取り出し、涙を拭いながらも黙って耳を傾けている。

「少年時代の出来事があって、俺は人を信じなくなった。相手は自分を騙すつもりなのかどうか、常に観察をする癖までついた」

 人間というのは不思議なもので、うそをつこうと考えたり、よからぬことを企んでる場合には、無意識に体へ現れてしまう。

 奇妙な斑点が現れるとかではなく、下ろしている腕が小刻みに動いていたり、指先で太腿をトントンしたりなど、何かしらのアクションがある。

 うそがうまい人間はなかなかそういうのを表に出さないが、よくよく観察してれば笑顔の形やこちらを見てくる目の雰囲気などで本心が大体わかるようになる。

 その人が本当に笑ってるのか、怒ってるのか。優しげな態度の中に、どんな本性を隠してるのか。次第に自然と理解するすべが身についた。

 一緒にいて楽しげに会話をしていても、その人が本心では早く帰りたがってるなどがわかるのだ。人と付き合えば付き合うほどに、陽介の心には虚しさだけが残った。

「よく人の本性を見抜ける目が欲しいって人がいるけど、俺に言わせればそんなものはいらないんだ。バカと呼ばれても、他人の心なんてわからないほうがいい」


 少し話しすぎたか――。若干の後悔を覚えた陽介に、すぐ前方にいる女性が「どうしてですか」と尋ねてきた。

 すでに涙は綺麗に拭き取られているものの、泣いた名残りとしてまだ両目が充血している。

 どうしようか一瞬考えたあとで、ここまで話したのだからと、陽介は相手の質問に応じる。

「考えてもみろ。洞察力が鋭いってことは、相手が自分をどう思ってるかも全部わかるってことだ。人は他人の本心を知らないからこそ、建前だけで生きていける。それが通用しなくなるのさ」

 皆揃って楽しげに笑っているのに、その中の誰ひとりとして本当は楽しく思ってなんかいない。そんなところまで知り得てしまったら、本当の意味で笑えなくなる。

 親しげな視線が向けられてるのに、当人はそんなつもりは微塵もない。義理と建前の多い社会だけに洞察力を磨きたがるが、陽介に言わせれば逆だった。

 そんな世の中だからこそ、目の前のことだけを信じて生きていけばいい。良い意味でバカになればいいのだ。そうすれば誰かの内面に気づいて、余計な失望をすることもなくなる。

 言うならとても簡単だ。しかし誰もがそれを実戦できないがゆえに、多くの人間が社会の中で心の闇を抱えるのである。

「相手を見破る目を身につける必要なんてない。洞察力が鋭くなりすぎた人間が、最後に辿り着くのは……本当の孤独だ」

「本当の……孤独……ですか」

「そうだ。相手の胸の内を知りながら、場を乱さないためだけに愛想笑いを浮かべる。そんな生活を繰り返していけば精神の疲労を招き、やがて他人との係わり合いをもちたいと思わなくなる」

 陽介はそのことをよく知っていた。だからこそ、同じ道へ来ようとしている女性を放っておけなかったのである。

「人を信じれるというのは、一種の才能だと思う。母親がくれた大切な能力だ。十回騙されたって、十一回目に幸せがやってくれば、人を信じたかいがあるじゃないか」

 言ってて、陽介は自分自身に苦笑した。

 こんなことを言う人間ではなかったのに、一体どうしたというのか。目の前にいる女性と出会って以来、何かが狂っていた。

 ふと気づけば、また雪村薫が泣いていた。どうしたのか尋ねても、言葉もなく首をただ左右に振るだけである。

 励ましが足りなかったのかと思っていると、ようやく女性が口を開いてくれた。

「ご、ごめんなさい……嬉しくて……」

「嬉しい?」

「そんなふうに言ってくれる人……今まで、誰もいなかったから……とても……嬉しいんです……」

「……だろうな。俺も自分が、こんなことを言う人間だとは今の今まで思ってなかった」

 笑い出した陽介を、目を腫らしたままの女性がキョトンと見つめる。

「何ですか、それー」

 次の瞬間には頬をぷーっと膨らませて怒る仕草を見せたが、すぐに陽介と同じように笑い出した。

 夜の公園で大の大人が、二人揃ってひとしきり笑いあったあと、雪村薫が「ありがとうございます」とお礼を告げてきた。

「私……もう少し、人を信じて見ることにします。騙されやすいのも、亡くなった母の形見だと思えば、なんだか誇らしく思えますしね」

 誇らしく感じるのはどうかと思ったが、ここまできて水をさしても仕方ないので、陽介は黙って頷いた。

 これで雪村薫もこの公園へ執着しなくなり、陽介ともども元の生活へ戻っていく。最初からわかっていたことなのに、いざその時がくると何とも言えない寂しさに襲われる。

 やはり陽介は、人を信じやすく騙されやすい女性に惹かれているのだ。けれど、それを言い出せないまま、時間だけが静かに流れる。

 やがて雪村薫が「それじゃ、私……そろそろ帰りますね」と言ってきた。貸したお金が戻ってこないと知った以上、ここへ留まる理由はなくなった。

「杜若さんに会えてよかったです」

 その言葉を最後に、雪村薫は陽介へ背を向け、夜の公園から遠ざかっていくのだった。


「……ふう」

 窓から外を眺めながら、陽介は本日、何度目かになるため息をついた。

 やはり今日の朝、公園のベンチには誰も座ってなかった。

 立ち上がって出迎えてくれる女性はおらず、そのまま素通りして陽介は会社へ来た。

 ――何を残念がっているんだ。自分自身を叱責する。元々はこれが普通であり、今までが異常にすぎなかったのである。

 本来の生活へ戻っただけなのに、何故か心に空しさが宿る。

 気がつけば昨夜背中を見送った女性の顔を思い浮かべており、そのたびに重症だなと苦笑する。

 このままでは仕事にならないと判断した陽介は、無理に残業をせずに、規定の帰宅時間で業務を終了させる。

 帰り支度を整え、会社から出ると、見知った顔など誰もいない公園を通り抜ける。

「お帰りなさい」

「ああ……ただいま」

 虚無感に支配されすぎたのか、とうとう幻聴にまで返事をするようになってしまった。

 ますます大変な状態だなと認識しつつ、陽介は先を急ぐ――足を止めた。

 慌てて背後を振り返ると、例のベンチの前で例の女性が立っていた。

「……お帰りなさいは変だろ」

 相手へ近づくなり、陽介は注意をする。けれど顔が笑ってるのは、鏡を見なくてもわかっていた。

 自然と頬が緩み、笑顔になってしまうのだ。こんな経験は初めてだった。

 あれだけ切なかった心が、炎でも灯ったように暖かくなる。これも体験したことのない現象である。

 陽介に注意に、女性は微笑みながら「そうですね」と応じる。

「それでは、お仕事お疲れ様でした、にしておきます」

 日中から何度も顔を思い描いていた女性が、目の前にいる。その現実に、妙な恥ずかしさを覚えた。

 顔が赤くなってないか気にしつつも、ペースを乱されないうちに今度は陽介から話しかける。

「あ、ああ……ありがとう。け、けど……どうしてここに?」

 尋ねる陽介へ、雪村薫は平然と「杜若さんを待ってました」と答えた。

 その瞬間に心臓がドクンと跳ねる。用件は済んだはずなのに、わざわざ陽介に会いに来た。

 相手の行動が意味することといえば……まさか……いや、しかし……そんなはずはない。様々な想像が同時に展開され、陽介の頭の中はパニックになる。

「改めてお礼を言いたかったんです」

「……そ、そうだったのか……」

 それしか返せなかった。あらゆる想定をして、すべての受け答えを考えたつもりでいたが、この展開だけは予想してなかった。

 しかし今から考えれば、一番しっくりくる理由でもあった。なるほどなと思いつつ、急いで平静を取り戻すべく頭の中を整理する。

「先日、あんなことがありましたから、本来なら朝方にしようとも思ったのです。けれど、私も仕事がありましたので、こうして夜にしました」

「いや、そんな気を遣う必要はない。お礼とか、考えなくても大丈夫だ」

「いいえ、それでは失礼にあたります。それとも、杜若さんは朝の方がよろしいですか? それなら明日、出直します」

 必要ないと言おうとしたところで、陽介は妙な違和感を覚えた。

 相手の台詞を思い返してみて、その原因を発見する。明日も平日なのに、相手女性は朝でも大丈夫と発言したのである。

「明日の朝って……そっちも仕事があるんだろ?」

 当たり前の疑問を口にした陽介へ、雪村薫は笑顔でこう答えた。

「それなら大丈夫です。今日付けで、会社を解雇されてしまいましたから」

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