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陽介という突然の乱入者の登場に、男のみならず雪村薫も驚く。見開かれた目は「どうしてここに」と問いかけていたが、今は律儀に答えてるような時間はなかった。
相手の男性は屈強な体格をしており、あくまでも平均レベルの陽介よりは喧嘩が強そうだった。
まともにぶつかっても勝ち目がないと判断したからこそ、登場する前の台詞があのようになったのである。
「何だ、テメエ?」
こんなことを企む人間らしく、早速陽介へプレッシャーをかけてくる。
怪我したくなかったら、どこかへ行け――。無言でそう求められてるのはわかっていたが、格好つけて登場した手前、そんなわけにもいかなかった。
何より陽介には秘策があった。もっとも、うまくいくかどうかは不明だ。失敗した場合は、女性の手を引いて全力で逃げるしかなかった。
「その女性の友人だよ。そっちと違って、こんな場所へひとりでこなかったわけだ」
男の背後は行き止まりになっており、誰かが隠れるスペースも存在しない。つまり、仲間を連れてきていないことになる。
雪村薫を見て、ひとりでもなんとかなると思ったのか。相手の頭の中を覗くなど不可能なので、そこら辺を考えるのはもう止めておくことにする。
陽介と雪村薫を見比べたあと、男は「なるほどな」と言って口端を吊り上げた。
整った顔立ちをしてるとは言い難かったが、その分凄んだ際の迫力は陽介の比ではない。頭が良さそうなタイプには見えないが、計画を実行する前からこちらの意図に気づいたのなら、相当の切れ者だった。
緊張して相手の出方を窺っていると、男が先に口を開いた。
「お前ら、デキてやがるな。それでナイト役を引き受けたんだろうが、相手が悪かったな」
実際は大きく違っているが、そう思ってくれてるのなら陽介にとっても好都合だった。
相手の発言を認めた上で、相手が悪かったという文言についての真意を尋ねる。
「簡単な話だ。お前が俺に勝てねえからだよ」
ギロリと睨みつけられるも、ある程度は想定していたので陽介はあまり動じない。問題はここからだった。
相手が単細胞であることを祈りつつ、事前に用意しておいた台詞を口にする。
「だろうな。俺はもともと喧嘩が強い方じゃない」
あっさり相手の発言を認めた上で、余裕綽々とばかりに笑みを浮かべてみせる。
陽介の態度に、相手は訝しげな表情を浮かべる。それと同時に、一直線にこちらへ向かってきていた男の足もピタリと止まった。
「そんな俺が何の保険もかけずに、わざわざこんな場所に乗り込んでくると思うか? 頭のいいアンタなら、ここまで説明すればわかるだろ」
正面にいる男を頭脳明晰なタイプだとは思ってない。そう言えば、相手がない頭をフルに使って考えると判断したのである。
「ま、まさか……テメエ、警察にチクリやがったな。ずりいぞっ!」
こんな場所にひとりで来いと、か弱い女性を呼び出す男にだけはずるいなどと言われたくなかった。
だが今は、アホそうな相手と口喧嘩をしてる場合ではない。どんな手を使っても、この窮地を脱しなければならないのだ。そのためなら、多少のうそやハッタリも必要だった。
「理解してくれて何よりだ。さて……どうする?」
「――チッ! いい気になってんじゃねえぞ。テメエの顔は覚えたからな!」
男は最後に雪村薫と陽介の顔を見たあと、それだけ言い残してこの場から走り去っていった。
相手の背中が見えなくなったところで、陽介は自身の両膝に両手をついて「はーっ」と大きくため息をついた。
なんとか最悪の事態を回避できた安堵感と、緊張からの解放によるものだった。
二回、三回と深呼吸をしたあとで、陽介はゆっくりと顔を上げる。すると、いつの間にやら雪村薫がすぐ側までやってきていた。
「あの……」
何か言いたそうな顔をしてるものの、なかなか続きを口にしない。重苦しい雰囲気のせいもあって、待ちきれなくなった陽介は片手を上げて「気にするな」とだけ告げた。
自分でも格好つけすぎなのはわかっていたが、それ以外にかけるべき言葉が見つからないのも事実だった。
「でも……」
さすがに今回の事態はキツかったのか、いつもの歯切れの良さは感じられない。瞳に薄っすらと涙を浮かべ、何かを必死に我慢している。
「……助けていただいて……ありがとう……ございました……」
今にも空気に溶けて消えてしまいそうなか弱く、か細い声だった。
ショックを受けてるのは明らかだが、どうやって慰めたらいいかもわからない。こんな時だというのに、己の不甲斐なさだけが目立ち、陽介は自分自身に失望する。
互いに無言のまま、数分が経過した。やがて雪村薫の方から、とりあえず路地裏を出ようと提案される。
こんな場所に留まっていて、先ほどの男が仲間を連れて戻ってきたら大変である。今度は陽介にも、女性を守りきれる自信はなかった。
二人して歩き、例の公園へ到着する。先を歩く雪村薫が向かったのは、いつものベンチがある場所だった。
ベンチに座るのかと思いきや、立ったままベンチをじっと見つめている。
何かと思って背後から覗いてみれば、ベンチの上には雪村薫の名前と連絡先が書かれたメモが乗っていた。
自分が不在の間に何かあったら大変と、気を利かせて置いていったに違いなかった。
雪村薫は自分で書いたメモを見ながら「あの人は……」と再び口を開いた。
「あの人は……私がお金を貸した方の……代理の方……だったのです……」
「……そうか」
「……驚きませんね。もしかして……予想がついていたのですか?」
うそをつくのは性分的に好きではないので、相手にどう思われようとも、陽介はあの場所へ行ったいきさつを素直に説明する。
会社で偶然同僚の話を聞いたこと。内容が雪村薫にかんしてだったこと。そして、騙されそうになっていると知ったこと。何ひとつ包み隠さず、遭遇してきた場面を思い返りながら、出来る限り丁寧に教えた。
陽介の話を聞き終えた雪村薫はなんとも言えない表情のまま、視線を地面に落とし、数秒後に「やっぱり……騙されたんですね……」と悲しげに呟いた。
他人を盲目的に信じる姿しか見せてこなかった女性が、他人に失望してるシーンを見るのは今回が初めてだった。
「……わかっては……いるのです。これまでも……何回か……ありましたから……。そのたびに周りから、言われてました。他人を信じすぎては駄目と……」
ベンチにあったメモを手に取ると、雪村薫がこちらを向いた。
なんとか泣くのは堪えているものの、目は赤く充血しており、今にも号泣しそうな勢いだった。
「……私のこと……変な女だと思っていたでしょう」
「い、いや……そんなことは……」
「いいんです……私自身もわかっていました。実は……死んだ母親も同じだったのです。他人を疑うことを知らない人でした」
悲しそうな表情の中に、どこか懐かしそうな感じが混じる。瞼を閉じた女性の脳裏には、きっと亡くなったという母親の顔が浮かんでるに違いなかった。
何故わかるのかといえば、陽介自身もそうだからである。幼い頃に母親どころか両親を亡くし、面影と出会うためにはそうするしかなかった。
同じような境遇なのかもしれないと、女性へ親近感を覚えたが、今はそのことを話してる場合ではない。ぼけっとしてたら、雪村薫の言葉を聞き逃す。陽介は改めて、聞き役に集中する。
「後から知った話ですが、たくさん騙されていたみたいでした。借金もかなりあって……生活も厳しかったです。でも……母親は常に笑顔でした。決して弱音を吐かず、最後まで当たり前のように誰かを信じていました。そんな母親を間近で見ていたからこそ――」
そこまで言ったところで、雪村薫は台詞を続けられなくなった。昔を思い出して、とうとう涙を我慢できなくなったのである。
「人を信じるのは悪いことじゃない。いつか責める私に、母はそんな言葉を口にしました。反発した頃もありましたが、いつしか強い人だと尊敬するようになっていました」
涙を拭いて、再び語り始めた雪村薫が遠い目をする。女性が頑なに人を信じようとしたのは、母親の影響だったのである。
「借金を背負わされても、文句ひとつ言わずに働き、母は見事に完済しました。けれど、無理がたたり翌月には……」
雪村薫の表情を見れば、疲弊しきった母親がどうなったかなんて聞くまでもなかった。
「母のお葬式の日、ほとんどの人が陰で母を笑いました。間抜けな人間だと、見下しました。だからこそ、私は誓ったのです。心から人を信じて生きていこうと……誓ったのです」
よほどその部分を強調したかったのか、誓ったという言葉を女性は二度繰り返した。雪村薫にとって人を信じるということは、母親の仇討ちみたいなものだったのかもしれない。率直に陽介はそう思った。
人を信じたからといって、騙されるばかりではない。きっと幸せになれる。葬儀で実母を笑った連中に、自身の人生をもって証明したかったのではないか。憶測にすぎないものの、陽介は半ば確信を抱いていた。
「でも……駄目ですね……」
せっかく拭き終えたのに、女性の頬へ涙がまたこぼれてくる。
「やっぱり……騙されてばかりで……人を……信じても……いいことなくて……うう……ううう……」
とうとう本格的に泣き出してしまった雪村薫を前に、どうしたらいいかわからず陽介はおろおろする。
下手な慰めをしたところで、白々しいだけであり、たいした解決策になるとは思えない。けれど、黙ってるだけなのも、何だか冷たい感じがした。
「……ごめんなさい……全部、杜若さんの言うとおりでしたね……これからは……むやみに人を信じるのを止めます……」
他ならぬ陽介自身が、何度もそう忠告してきたのに、いざ雪村薫からそうした台詞を言われると胸が痛んだ。
「……止める必要なんかない」
気づけば、そう発言していた。これには相手女性も驚き、丸くした目を陽介に向けてくる。
「人を心から信じれるってのは、そうそうできることじゃない。お母さんがせっかく残してくれたものだろ。大切にしろよ」
「で、でも……」
「十回騙されても、最後に報われれば、それでいいんじゃないか?」
自分自身でも何を言ってるんだろうと思ったが、人を信じなくなった雪村薫を見たくなかった。
信じられないことだが、たった数日立ち話をしただけで、陽介は目の前の女性に惹かれていたのである。
「お母さんの影響があったといっても、いきなり他人を純粋に信じれたりはしない。アンタ――雪村さんにも、素質がしっかり受け継がれていたのさ」
励ますつもりで言ったのだが、相手女性は自嘲気味に「フフ」と笑った。
「騙されやすい素質をですか……? それって、立派な劣性遺伝ですよね」
「――違う」
雪村薫の発言を、陽介は強い口調で一刀両断にした。
声だけでなく、目つきも険しくなっていたのだろう。相手女性が、少しだけ怯えた表情を見せる。
それでも陽介は表情を変えることなく、雪村薫へ自身の思いを告げる。
「確かに短所の一面もあるかもしれない。けれど、人を信じれるというのは、間違いなく長所のひとつなんだ」