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「なあなあ、聞いたか? あの話」

 出勤中の会社で、男性の同僚たちが何やら会話をしていた。

 社内にはジュースなどが販売している自動販売機が設置されており、そこがもっぱら休憩かつ雑談の場となっていた。

 基本的に昼食や飲み物を事前に用意している陽介には用のない場所なのだが、今日に限って飲類を切らしてしまった。

 そこで仕方なしに、会社の自動販売機を利用することにした。外で買う場合に比べて、料金が高いわけではない。ただ他の人間と顔を合わせるのが嫌で、これまで利用してこなかったのである。

 通りかかった際に他の人間の声が聞こえたため、目的の場所まであと少しというところで陽介は歩を止めた。

 ドアのない部屋に複数の児童販売が置かれており、中にはアイスクリームや軽食を販売してるものもある。

 社内食堂というものが存在しないため、こうしたもので代用しているのだ。味はなかなかいけるらしく、愛用してる社員も多かった。

「あの話だけじゃ、何を言ってるのかわからねえよ」

 どうやら男性二人組みたいで、自動販売機の前でジュースを飲みながら立ち話をしている。

 あまり他の社員と遭遇したくない陽介にとって、その二人は邪魔以外の何者でもなかった。

 陽介の業績は飛びぬけて良いわけではないが、悪くもない。だからこそ無縁なのだが、業績の悪い社員は年度末に解雇される。

 そして新しい人材を新年度から登用するのだ。そうして優秀な社員だけを揃え、この会社は業績をアップさせてきた。

 社員たちはライバルも同然で、中には自らの立場を守るために汚い手を使う人間も存在する。

 そうした奴らのターゲットにされないためというのが、社内で誰とも知り合わないようにしてきた理由のひとつだった。

 他の理由には、心苦しいというのがある。陽介が会社に残留できれば、例外なく他の人間が解雇される。

 これまでの成績や貢献度などは一切考慮されない。とにかく今の実力だけがすべてなのである。

 ゆえに他者を蹴落とすのなど、何とも思わない人間ばかりが残っている。表面上は仲良く会話していても、突然裏切られるなんて事態は日常茶飯事だった。

 だがそれすらも、この会社では当たり前の出来事なのだ。それが陽介には、たまらなく嫌だった。

 けれどこんな話を誰かにしようものなら、会社を辞めろと言われて終わりである。就職氷河期と呼ばれる時代において、職を失うのだけは避ける必要があった。

 どんなに嫌いな会社であっても、給料はそこらへんよりもずっと上なのだ。自分の感情だけで、辞めたりしたくはなかった。

 それに陽介だって、最初からこうだったわけではない。入社当初は常に上へ行きたがり、それこそ他人を思いやる暇もないぐらい、がむしゃらに仕事をした。

 一時は業績もトップに立ち、不景気とは無縁の額の報酬も手にした。けれど、それだけだった。

 それが悪いとは言わない。逆に喜びとやりがいを見出し、さらに仕事へのめりこんでいく人間もいる。

 幸せなんて本人の価値観によって常に変わるものであり、誰かが勝手に決めていいものではない。それぐらいは、陽介にもわかっていた。

 けれど陽介は空しいと感じてしまった。それ以来、どうにも仕事へ夢中になれなくなった。

 それでも日々の糧を得るために、淡々と仕事をこなした。必要以上の業績を残さず、常に丁度いい位置へいるよう心がけた。

 以前の姿を知っている上司からは、よく「本気を出せ」と言われるが、今の陽介にはトップをとりたいと願うだけのモチベーションはなかった。

 そのうちに上司は落胆をしたが、ある程度の成績は維持しているため解雇もできない。これでいい。陽介は心からそう思っている。

 思わぬところで自身の過去を思い返してしまったが、問題はそこではなかった。早く喉を潤すための飲料が欲しいのである。

 だが陽介の望みは叶いそうもない。男たちの会話は終わる気配を見せないのだ。こうなれば外に買いに行った方が早いかもしれない。そう思った時だった。


「あの話といえば、ひとつしかねえだろ。公園にいる女のことだよ」

 同じ会社に勤務していながら、名前どころか顔すら知らない男の発言にドキリとする。

 別に陰口を叩かれていたわけではない。公園にいる女というのに、心当たりがあるからだった。

「ああ、あの女のことか。それなら、知らない方が珍しいだろ」

 さも当然とでも言いたげに、もうひとりの男が同調した。気になった陽介は、こっそりと室内の様子を観察する。

 ジュースの販売機へ背中から寄りかかるようにしながら、二人の男が並んで立っている。

 互いの方を見ながら話しているため、陽介の存在にはまったく気づいていない。けれど、いつこちらを見るかわからないので、警戒だけは常に怠らないようにする。

 他人の会話を盗み聞きするなんて、誰がどう見てもいい趣味をしてるとは言えない。もちろん陽介自身もそう思っている。

 それでもこうした真似をしてるのは、男たちの会話を詳しく聞きたいからだった。

「顔はいいのに、あそこまで痛い性格してたらさすがに引くよな」

「そうか? 頼んだら簡単に身体を許してくれそうじゃねえか。とても困ってるんですとか言えばよ」

「まさか……って言えないな。何せ、見ず知らずの他人にいきなり金を貸すような女だ。可能性は十分にある」

 会話している男が同意すると、身体云々を話した男が「だろ」と得意気に笑った。

 ――腐ってる。二人組の男たちの醜悪さに、陽介は心の底から憤る。

 けれど、男たちを怒鳴りつけたりはしない。喧嘩が嫌いなのはもちろんだが、まだ雪村薫の話だと断言できないのが一番の理由だ。もっとも、そうである可能性が高いのは否めなくなっている。

 そして男のうちのひとりが発した台詞が、女性の正体を確信させてくれた。

「その場を離れる時は、自分の名前と連絡先を書いた紙をベンチの上に置いておくらしいぜ。それを俺の知り合いが見て、電話をかけたらしい」

「マジかよ。それでどうなったんだ」

「適当なのを書いてると思ってたらしいんだが、本当にその女へ通じたらしいぜ。いくら携帯電話の番号とはいっても、普通はそんなことしねえよな」

「普通じゃないから、他人に金を貸すんだろ。で、電話が繋がったあとはどうなったんだ」

 もうひとりの男に促されて、知り合いが雪村薫に連絡をとったらしい男が言葉を続ける。

「金を借りた男のふりをして、金を返すから来てほしいと会社近くの人気のない路地裏を指定したんだってよ。本当に来たら、絶対ものにするって息巻いてたな」

「息巻いてた? ってことは、まだ会ってないのか」

 問いかけられた男は頷き「指定したのは今夜だ」と告げた。

「そうか。そんな明らかに危険な場所を指定されたら、普通は怪しむよな。それでも来たら、同意と見なすわけか」

「そいつの話しぶりでは、そうみたいだ。あんまり真面目なタイプではないし、下手したら本当にヤっちまう可能性はあるな」

 物騒極まりない話をしてるにもかかわらず、男たちは揃ってニヤけた顔をしている。

 もしかしたら、そんなシーンを想像してるのかもしれない。完全に他人事だと思っているため、男たちには雪村薫がどうなろうと知ったことではないのだ。もちろん、陽介にも同じことが言える。

 悲惨な目にあったとしても、すべてあの女性の責任となる。特に陽介は、あれだけ忠告してやったのだ。聞く耳持たなかったのは、向こうなのである。

 責任も負い目も感じる必要はない。それなのに、陽介の心は霧がかかったみたいにもやもやしている。

 ――あの女は、一体何をしてるんだ。結局、ジュースを買わなかった陽介は、苛々した気分を抱えたまま自分の席へ戻るのだった。


 俺には関係ない――。勤務してる間中、陽介はずっとそんなことを考えていた。

 あの女がどうなろうとも、所詮は他人ではないか。これ以上関わるべきじゃない。最終的には自分も損をするはめになる。

 そう言って自分自身を説得するのだが、満場一致で可決とはならない。どうしても納得できない自分自身がいるのも確かだった。

 もやもやした気分を引きずったまま仕事を終え、陽介は会社から出る。

 街にはすでに夜のカーテンが下りており、街は日中と違う姿を見せていた。

 遠くで輝いている繁華街のネオンが、まるで誘蛾灯みたいに人を誘っている。

 もっとも酒や賭博に興味のない陽介には関係ないので、家路への道を急ぐ。公園を迂回するんだ。頭の中で誰かが囁いた。

 けれど気づけば、陽介の足は例の公園へ向かっていた。

 到着した公園で周囲を見渡すと、見覚えのあるベンチに見覚えのある人物が――いなかった。

 嫌な予感が全速力で陽介の中を駆け回る。けたたましい動悸とともに、血が沸騰しそうなぐらい体が熱くなる。

 どうして自分はこんなに焦っているんだ。妙に冷静さを保っている一方で、陽介はがむしゃらに公園近くの路地裏をダッシュで巡回する。

 人気のない場所を重点的に探したため、程なくして路地裏には似つかわしくない女性の背中を発見した。

「あの……それで、貴方が代理の方ですか? こんなところまで、わざわざご苦労様です」

 聞きなれた声に間違いはなかったが、ちっとも緊迫した様子が感じられない台詞に、陽介は思わずズッコケそうになる。

 そのため出て行くタイミングを見失い、壁に隠れて様子を窺うことにする。

 会社で耳にした話が、単なる冗談だったのならそれでいい。しかし、もし違っていたら――。そう考えると、迂闊にこの場を離れられなかった。

「いやいや、ご苦労様って言いたいのはこっちの方だよ。ほら、これが約束のものだ」

 陽介の位置からは、雪村薫と思われる女性が対面している人間の姿は見えない。かろうじて、声で男というのがわかる程度だった。

 男は女性の足元に何かを放り投げた。目を細めて観察すると、どうやら小さめのバッグみたいだった。

 陽介の視力は別段悪くない。だがここは繁華街の光も届かない路地裏であり、加えて時間帯は夜。頼りは月明かりのみなため、よほど夜目が利く人間でもない限り、状況を把握するのは容易でなかった。

「バッグの中にお金が入っているのですね。どうもありがとうございます」

 心から嬉しそうな様子でお礼を告げたあと、雪村薫とおぼしき女性はその場にしゃがみこんでバッグのファスナーを開いた。

 これで本当にお金が入っていれば、男は本物の代理人ということになり、陽介の心配も杞憂に終わる。

 一件落着でめでたしめでたし。理想的な展開を夢見るのは、人間なら当たり前なのかもしれない。けれどそう簡単にいくほど、現実は甘くなかった。

「ど、どういう……ことですか、これは……」

 絶句する女の正面に立っていた男が、ここでゆっくり動き出す。月明かりに照らされた顔は極悪さに満ちており、浮かべている笑みを見た瞬間に陽介は悪寒を覚えた。

 嫌な予感が当たったと知り、眩暈を覚える。その間にも、男は雪村薫との距離を詰めていた。

「どういうことかはすぐにわかる。ひとりで、こんな場所に来た自分を恨みな」

 何のことかわからず、しゃがみこんだまま相手を見上げている女性に男が手を伸ばす。逃げられないように、まずは自由を奪うつもりなのだ。

 一刻の猶予もないと判断した陽介は、ここで路地裏へ乱入する。

「こんな場所にひとりで来た自分を恨め? その言葉、そっくり返してやるよ」

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